「二人、大丈夫かな」
「なんとかするでしょ」
「心配だよ」
「どっちがよ」
「……どちらかと言えば、ウルフが」
「アタシはサイファが心配。って言うか、あんな子供っぽい反応するとは思ってなかったわ」
「それ、言ったら怒られるよ」
「わかってるわよ、そんなこと」
 兄弟は、部屋に入ったときからお喋りに余念がないが、旅には慣れたもので手は休めずに動かしている。
 先ほどちらり、と覗いた限りでは、酒場は安全そうだった。二人とも話し合いもせず、装備を解いていく。革鎧を脱ぐだけで思わずほっと息をつきたくなる。
「盥、どこ」
「こっち」
 シリルが投げて寄越すのを上手に受け止め、水差しを探す。宿の主人は用意がいいと見える。たっぷりと用意された水のほかに湯もあった。アレクは嬉々としてそれを盥に移し、顔と手を洗い清める。それだけでずいぶんさっぱりした。シリルが同じようにするのを見ながらアレクはベッドの上に腰掛けて髪を解いた。
 一日編んでいたせいで癖がついてしまった金の髪に櫛を入れる。埃にもつれて中々解けなかった。さも嫌そうにアレクは溜息をつき、さらに櫛を入れる。経験から知っていた。こうなってしまうと、かなりの痛みを覚悟しなければ解けない。なんの手入れもしていないようなのに、一筋たりとも乱れていないように見えるサイファの髪が忌々しかった。
「アレク」
 水に浸した布をシリルが持っていた。刈り込んでいるわけではないが短い髪のシリルは、ざっと手櫛を入れただけで済む。鎧をつけない神官服だけの姿を見るのがアレクには久しぶりのような気がしてならない。
「なによ」
 思わず見惚れていたのを悟られたくなくてきつい口調になってしまう。後悔するとわかっていても治らない、癖だった。
「髪。血がついてる」
「え、やだ! 気がつかなかった」
「後ろ向いて」
 背後に座ったシリルが櫛も取り上げ、布で血を拭いながら髪を梳かしていく。心地良かった。
 シリルとアレクの性格の差なのだろう。見た目が美しい女であっても、アレクはあまり細かいことが得意な質ではなかった。そのくせ、罠や鍵の解除となると妙に腕の冴えを見せるのだから面白いものだが。シリルは戦うことを身上とした武闘神官に若くして任じられながら、繊細な心根を持っている。それはどこか優しいとも言えるし最後の詰めが甘いとも言える。だからこそ、戦士ではなく神官、なのかもしれない。
 そんな差が、たかが髪を梳かすという作業にも如実に表れた。アレクは自分が痛いのを我慢してでもさっさと終わらせたい。シリルはそれを見ているのが嫌で自分が手を出す。櫛を持てばゆっくりと毛先から解きほぐして、アレクがする何倍もの時間がかかっても倦むことなくきれいに梳かしつけてくれた。
 その時間が、アレクは嫌いではなかった。だからあえて、乱暴にするのかもしれない。
「はい、取れたよ」
「ありがと」
 言いざまに振り返りベッドの上、押し倒す。
「やめて、兄さん」
 心底、困った顔をする。嫌いな顔ではなかった。もっと、困らせてみたくなる。
「やめない」
 のしかかって、唇を重ねた。何度もしているくせに、少しもシリルはうまくならない。わざと水音を立てたいやらしいくちづけをしてみせる。応えるのに、熱はない。
 背中に回った腕が、髪を掴んだ。たまにはその気になってくれるのかと、安心したのも束の間、掴んだ髪を引きずられて体の下から逃げられた。
「まったく、なんでそんなに嫌がるかな」
 再び腕を捕らえて抱きすくめて押し倒す。長い髪がシリルの顔の両脇に流れ落ちている。わずかに濡れて冷たい感触がシリルの頬をくすぐっていた。
「兄さん……」
 唇に軽く触れた。温かい体がここにある、それだけでいいとまで、思っている。
「シリル。たまには可愛い声で呼んでみろ」
 不意に男の声に戻った。アレクの、それまでの女の顔も声もが消え去って、そこいるのは紛れもない兄の、男の姿。女を演じることをやめただけ。それだけでぞくりとするほど男の匂いがする。
「やめてってば」
「やめない」
 なんとか逃れようとするのをくちづけで押さえ込む。首筋に唇を触れさせるだけでシリルの力が抜けるのがわかる。何度も、こうした体。シリルのことならば、知り尽くしている。
「シリル」
 指を横腹に這わせた。唇を噛んでいる。許さない、アレクは唇を重ねる。思い切り背を叩かれた。
「痛っ」
「当たり前だよ、痛いように叩いたんだから!」
 起き上がって、まだ殴り足らなそうにしているシリルが、それでもアレクは愛おしい。わずかばかりでも、火がついたのだろう、頬が赤くなっているのまで、可愛いと思う。我ながら、どうしようもないと、わかっていた。
「なんで嫌がるかなぁ」
「普通、嫌がると思わないの」
「どうしてさ」
「兄さんだよ、わかってるの!」
「それが? お前好みの女の顔だろ」
「そういう問題じゃ……」
「言ってるだろ。本当に好きな女ができたら、別れてやる。それまでの遊びにしちゃ、安全だろ」
 孕まないしな、言ってアレクは笑った。アレク自身だけが痛々しいとわかる声だった。シリルは気づきもしない。
「問題がずれてるよ……」
「なんだ、孕みたかったのか? いくら俺でもそれはちょっと無理だなぁ。任せとけ、そのぶん可愛がってやるから」
「兄さん」
「なんだ」
「思いっきり殴るよ、拳で。顔を」
「やめてー。せっかくのシリル好みの美人なのに」
「やっぱり殴る。決めた」
 本気で掴みかかりかねない勢いで、シリルがアレクの襟元をつかんだ。無論、掴みきられる前にアレクは逃げている。
 いつものことだった。抱かれた後でも、シリルはいつも冗談に紛らわせて、逃げようとする。それでいい、アレクは思う。
 シリルはアレクの思いのかけらさえ、知らなかった。知らせるつもりも、アレクにはなかった。
「アレク!」
 機敏に逃げ回っていたがついに捕まってしまった。後ろから腕を引かれて無理に振り向かされた。目の前に拳。思わず目を閉じたアレクの頬に軽い衝撃が来た。
「ただでさえ面倒が起きてるんだから、冗談はしないで」
 平手で撫でるように叩かれた頬が甘かった。アレクは微笑む。その笑顔で、何もかもを隠し通してきた。
「わかったよ」
「……ほんとに?」
「面倒が起こってないときに襲えばいいんだな」
「わかってない!」
 真っ赤になって言い募るシリルを抱きすくめる。まだ、自分のほうが背が高い。それが何か嬉しい。
「兄さんってば」
 呆れきった声が腕の中から聞こえる。抱え込んだ髪に顔を埋めれば、シリルの匂いがした。
「なに」
「頼むから、兄さんまでややこしいことしないで」
「はいはい」
「それから」
「まだあるのか」
「その格好で、男に戻らないで。気色悪い」
「あーら、酷い言い方するわね」
「……そっちの方がまだマシだよ」
「普通、こっちの方が気持ち悪いと思うんだけど」
「慣れた自分が怖いよ」
 言ってシリルは笑った。軽く背中に回された腕。抱き合って笑っていても、間違いなく恋人のそれではない。アレクも重々わかっていた。それでもこの時間が愛おしい。
 ゆっくりと体勢を入れ替えてベッドに腰掛ける。警戒したシリルの背を叩き、何もしないと伝えれば安堵の息が聞こえる。ベッドに掛けたシリルを背後から抱いてその肩口に顎を乗せた。顔を見ないで話せる体勢が、ありがたかった。
「サイファ、ウルフと仲直りしてくれるかな」
「大丈夫じゃない? 坊や、馬鹿だから」
「酷い……」
 言いながらシリルの声は笑っている。
「なに言ってんのよ、馬鹿だから大丈夫なんじゃない」
「そういうもの?」
「そ。あんまりにも馬鹿だから諦めてくれるわよ」
 言葉だけを捉えれば決して褒めてはいないのだが、それでもアレクの口調にはウルフに対する侮蔑はない。
「なんだか、可愛い弟が出来たって感じだね」
 シリルがわずかに顔を振り向かせて言う。寄りかかってくる重さがアレクには心地いい。
「妬いてるのか? お前も馬鹿だったりして」
 わざと男の声で耳許に囁いた。それから軽く耳たぶを噛めばシリルの体が震えるのがわかる。嫌がってでは、なかった。
「やめてって、言ったでしょ!」
 薄く、上ずった声だった。
「したいだろ?」
「冗談じゃないッ。二人を迎えに行かなきゃならないんだよ? 買物だってしなきゃならないし、情報だっ……」
 すべてを言わせず、唇を重ねた。自分と二人きりでいるときに、他人の話をいつまでもされたくない。這入り込んだ舌をシリルが必死に押し戻そうとしている。それでも先程の受け入れるだけのくちづけよりずっと熱がある。
 次第にアレクの熱がシリルに移る。絡み合わせた舌が甘くなる。這い上がってきた腕が首に回され仕種がねだっていた。唇を合わせたまま、アレクがかすかに笑う。咎めるよう、軽く舌を噛まれた。思わず漏れそうになった声を慌てて飲み込んだ。
「……ッ」
 飛び起きたシリルが何事もなかったかのように身づくろいをして扉を開ける。いつからか、ノックの音が聞こえていた。
「出かけるのではなかったか」
 フードを被ったサイファが扉の外、立っていた。その背後に照れたようなウルフ。仲直りは済んだらしい。
「今、用意します」
「……あとにしてもいいが?」
「行くって言ってんでしょ!」
 柔らかい枕を投げつければ片手で払われる。サイファの声が笑いを含んでいたのが気に入らなかった。
「サイファめ……!」
 シリルがその気になる機会など、めったにないだけに一度くらいは殴らなければ気が済まない、そんな不穏なことを考えるアレクだった。シリルは部屋の向こう、そんなアレクを見て頭を抱えていた。




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