シリルは困ったように微笑み、けれど何も言わずにサイファを受け入れる。ウルフは黙ったままアレクにすがるような目を向けた。 「部屋、あったんでしょうね」 それには応えずアレクは言う。 「まだ入ってもいないよ、待ってたんだ」 「あっそ。じゃあ、さっさと入りましょ」 「はいはい」 まるでいつも通りだとでも言うような二人の会話。取り残された形のウルフとサイファが並んで後に続いた。 見えはしないのに、ウルフが唇を噛んでいるのがわかる。言いたいことがあるのに、言えない。まるで先ほどの自分のようだ、サイファは思い、けれど何が言いたかったのだろうか、悩む。 何も言えないうちに兄弟が宿屋の主人と交渉を始めてしまっていた。 「はいはい、お生憎さまなこってございましてなぁ。ちょうど大きな部屋がみんな埋まっちまったとこなんで」 「泊まれるの」 「へぇ、それはもう。ただお部屋が」 「小さくったっていいわよ」 「お客さんは四人さまでございましょう? ちぃとひとつ部屋じゃ」 「別にいいわよ。四つあるの?」 「へぇ、ございますよ」 にんまりと笑った主人の顔を見てシリルが割り込む。 「一人部屋しかないのかな」 「あ、いや。二人部屋もございますが、のんびりしていただくにはお一人様ずつのほうがよろしゅう……」 「いい、それがいいわ。アタシとこの男が一緒。あと二人が同じ部屋でいい」 「ちょっと、アレク!」 「なによ、アンタ不満でもあるの」 「俺は、ないけど……」 「アンタもいいでしょ」 じろり、アレクが冷たい目をしてサイファを見た。嫌とは言えなかった。また、言うつもりもなかった。 「どっちなのよ」 答えないサイファに向かって苛立たしげな声が飛ぶ。それで、知った。嫌だと言っていないのだから、サイファは婉曲に肯定したつもりだった。今もたぶん先程も。こんなにも人間ははっきりした言葉を欲しがるものなのだとは、知らなかった。 「かまわない」 それでもはっきりいい、とは言えない。揺らめく内心を自分で持て余している。 「じゃあ、ご主人。そういうことで」 「へぇ、かしこまりました。お食事は酒場でおとりになってくだせえ。エールが自慢でございますよ」 「あら、それは嬉しいわ」 「お客さんはお飲みになる顔でございますなぁ」 「ちょっとそれどういうことよ」 軽い口調で言い合う主人とアレクをシリルが引き離し、後で酒場に行くと約束をする。すっかりシリルが三人を先導して階段を上がり、それからさっさと部屋に入ってしまった。無論、アレクも続く。 仕方なくサイファも部屋の扉を開けて踏み込んだ。警備兵が言ったとおりの悪くはない部屋だった。こぢんまりとしているが、ベッドのシーツは洗い立てと見えて白く清潔だ。床も古いがごみひとつ落ちていない、磨きたてた木目が光っている。 枕元にあった水差しから、コップに水を注ぐ。一息に飲み干してやっと、喉が渇いていたのだと知る。風が通った。それで、ウルフがまだ廊下にいるのだと知れた。 「さっとと入れ」 まだ躊躇している。扉のノブが鳴ってウルフが握ったのだとはわかるけれど、そのまま動かない。 「お前がそこに立ってると、フードが外せない」 「あ……」 慌てて、入ってくる。あからさまな言い訳なのに、どうしてウルフは素直に鵜呑みにするのだろう。不思議で仕方ない。 だが、と思い直した。これが人間というものなのかもしれない。 横目で扉を確認し、サイファはフードを跳ね除ける。暑苦しかった。面倒になってマントを脱いではベッドの上に放り出す。首の後ろに手を入れて、一度大きくさばけば、梳いたばかりのような艶を髪は取り戻した。 「さっき、ごめんね」 何がなんだか、わからなかった。ウルフが、顔も見ずにうつむいて言っているのを驚いて見ているばかりだった。 「人間なんか嫌いで当然だもんね。俺だって……」 「なんで謝る」 「だって」 「謝られる覚えなんぞない」 「でも」 「だってもでももあるか! 謝るのは……私のほうだろう」 目を、そらしてしまった。自分がこんな子供と言いあいをしているのが嫌だった。 「サイファ……」 かすかに腕に力がかかる。恐る恐る寄ってきたウルフの手が伸びてきている。手に触れた。一度、引く。嫌がらないとわかったのだろう。指先をつかんだ。 「私は人間が嫌いだ。それは変わらない」 ウルフの顔を見ず、言った。ウルフもまた、サイファを見てはいない。サイファは天井の端に視線を飛ばしウルフは変わらずうつむいたまま。指先を握るウルフの力だけが強くなる。 「……が。わざわざ嫌いな者と旅に出ようと思うほど酔狂でもない」 「じゃあ」 ぱっと顔を上げた。指先が絡まってくるのをわずらわしげに、払う。それでもウルフの笑みは消えなかった。懲りずにまた、絡めてきたから。 「これ以上言わせたら、また泣かす」 サイファが微笑む。けれど声は低く脅しつけるように響いた。 「酷い! 泣いてなんかいない!」 「泣いていた、とは言ってないが」 「あ……」 自分で穴を掘って自分で落ちた。思い切り痛い目にあったのだろう、顔を赤くしてウルフが黙る。今度こそ、笑ってしまった。 「いい加減に放せ」 そんな声など聞こえぬげにウルフは満足そうな顔をし、サイファの肩口に顔を埋める。 「おい」 「俺ね、サイファ綺麗だし大好きだよ。いつかサイファに好きな人間もいるって言って欲しいなぁ」 温かい体温に、戸惑った。ウルフが言っている意味はわかる。好きだと言っているのが、特殊な意味ではないことは容易に知れている。だが。それならばなぜ、自分はこんなに戸惑っているのだろうか。振り払うことも忘れてサイファは天を仰いだ。 「ずっと先でもいいからさ?」 間近で、茶色の目が見上げてくる。澄んだ綺麗な色だった。混じりけのない、純な茶水晶のようだ。それだけ思ってサイファは思いを打ち払う。こんな小僧にかき乱されるなど、冗談ではない、と。 「サイファ!」 不意にウルフの残る片手が伸びてくる。 「な……」 問う間もなく指が唇に触れた。 「よせ」 「だめ、怪我してる。いつ?」 噛み破ったとは口が裂けても言えなかった。視線をそらして体も離す。少しだけ寒くなった体が、残念だった。そしてそう思ったことに、苛立つ。 「サイファ」 根気よく問いかける声。無視した。指で触れれば確かに痛む。思ったより深く、噛んでしまったらしい。 諦めてあちらに行った、と思ったのもつかの間、ウルフが荷物をあさって戻ってきた。 「こっち向いて」 言うだけ言って、それでも向かないのを知ると、腕を掴んで動きを封じられた。睨みつけるが、動じない。サイファは自分のほうが背が高いのを利用してわざと仰のく。 「子供じゃないんだから」 笑ったウルフにかちん、ときた。どちらが子供なのか。自問して自答する。いまの自分は彼を子供扱いできはしない。 諦めて顔を元に戻せば、それだけは無骨な戦士の指が唇に触れた。 「痛い」 抗議しても指は止まらず傷薬を塗りこむ。馬鹿馬鹿しかった。自分は半エルフだ、放っておいてもすぐ治る、夕食までには。言ってやろうかと思ったけれど、好きでやっていることらしいからウルフこそ、放っておくことに決めた。 それをいいことに嬉々として唇に触れている。なぜか、それのほうがずっと、痛かった。 「ねぇ、サイファ」 ようやく満足したのか指を離してウルフが言う。不器用な手で塗られた薬は傷からだいぶはみ出して、なんだか少しばかり粘ついた。 「俺、ちょっとは使えるでしょ」 笑っているくせに、不安そうな声を出す。 「剣か」 「うん」 「一撃を防ぐくらいは、できそうだな」 「それだけできれば何とかなるでしょ」 サイファは、これでも褒めたつもりだったのだ。どうもうまく伝わらなくて困惑する。 「多少なりとも褒めたつもりだったのだが」 口に出して言え、と言われたばかりなので、とりあえずは真意を言ってみる。 「わかってるよ」 明るい口調でウルフは答えた。わずかに顔をそむけ見えないよう、溜息をつく。やはり、わかってなどいない。 魔術師に加えられる一撃を防ぐ役に立つ。つまるところそれは、呪文を唱える時間を稼ぎ出すことができるウルフは仲間だと認めたに等しい。その時間さえ稼ぐことができるならば自分がウルフを守ってやると言ったにも、等しい。 自分で自分の言った真意とやらに愕然とする。なぜ、そんなことを言ってしまったのか、わからない。それをわかって欲しいと思ったのも同じくらいわからない。 「サイファは俺が守るよ、未熟だけどさ」 再び声を立ててウルフは笑い、サイファの長い髪に指を滑らせる。 「でもサイファが危ないときは、絶対俺たち全滅してるから。その前になんとかしてね」 深刻なことを軽く言われてしまった。事実、今の一行の実力から考えてそれは本当だろう。つきたくなる溜息を必死でこらえ、サイファは天井を仰いだ。 「魔術師に守られる戦士というのは、情けなくないか」 「仕方ないでしょ。事実だもん」 「……せめて鍛錬しろ」 あまりにも、情けない声だったのだろう。ウルフが大きな声を上げて笑い出した。 |