動揺した。なぜかは、サイファにもわからなかった。改めて、人間は死ぬ、と知ったせいかもしれない。 「手足が生えてくると聞いたことはないが、多少の傷なら人間よりはるかに回復は早い。毒の類もあまり効かないな」 言葉を濁すなど、およそ自分らしいことではない、サイファは思いつつもそんな答えを返していた。自分は死なない。ウルフは死ぬ。それを見つめたくなかった。 「やっぱり、死なないんだ」 「そういうわけでも、ない。首を飛ばされれば死ぬ」 「でも寿命はないんでしょ」 どうしてウルフはこんなに明るくそれを言うのだろうか。生来の好奇心、それだけなのだろうか。 「ないらしいな」 このような場所に来て感じるべきことではなかったけれど、生死を見つめたくない。今まで人間に優しくされたことなど数えるほどしかなかった。半エルフの血を忌まずに愛しんでくれた魔術の師は、いつしか老いて程なく死んだ。この世に一人きりだ、そう思ったのはあれが最後だったかもしれない。 そう何度も出会いたい感情ではなかった。 「ないと言われてはいる。確かなことはわからない」 ぽつり、言ってしまった。言ってから後悔する。 「だって同族がサイファにもいるでしょ」 そう、問われるとわかっていたから。 「今どれだけ半エルフが残っているか……」 「だって死なないのに?」 「なぜかは知らない。生きることに飽くのかもしれない。皆、旅に出たまま戻らない」 どこかですべてが野垂れ死んだわけでもあるまい。だからどこかに旅立って、戻らないのだ、きっと。そこは半エルフの安住の地であるのかもしれない。戻ってきた者がいない以上、確かめようのないことだった。 サイファはまだ、旅立とうと思ったことはない。これほど迫害されてもなお、この地に未練があった。あるいはそれは逃げ出すなど誇りが許さないという思いであるやもしれない。まだ人間に興味がある、それだけとも言えた。 なぜならば、こうして共に過ごせば確かに面白いのだから。起伏の激しい感情にさらされていると、酔ったような心地がする。一人きりで塔に篭っているときには決して味わうことのないものだった。 「……寂しいね」 しばらく経った後、ウルフが呟いた。 咄嗟に、殴ってやろうかと思った。自分自身にさえ許さなかった同情を他人に、それも人間にされるなど許せない。 ウルフは黙って横になったままサイファを見ていただけだった。 殺気は、感じたはずだ。けれど、動かない。殴られてもいい、そう思ったのかもしれない。 それだけで、その気がなくなった。 「そうだな」 知らず、同意していた。まるで己の口が意思に反して言葉を紡いだような、そんな言葉だった。だが、発してみればそのとおりだ、という気もする。 ずっと、寂しかったのか。自問する。そんなことはないはずだった。子供でもあるまいし、まさか長い年月を拗ねて生きてきたわけではないはずだ。 「人のことは、言えないけどさ」 かすかにウルフが笑い声を立てる。 明るい口調とは裏腹の、暗い笑いだった。生まれ育ちを聞く気はなかった。聞いても答えないだろうことは容易に知れる。だから、聞かない。 冒険に出よう、などという者はたいてい二種類だ。一山当てて豪華な暮らしをしたい者。すでに裕福でその暮らしに倦んだ者。ウルフはどちらなのだろう、サイファは思う。 どちらでもないのだろう、そう思った。人間のくせに、とも。こんな寂しさを抱えている人間がいるなど、知らなかった。 「サイファって今までどんな暮らししてたの」 唇だけ歪めてサイファは笑う。自分が聞こうとしなかったことをこの子供は平然と尋ねる、それがおかしかった。 「普通の」 「どう普通なのさ」 「起きて魔道書の研究をして食事して寝る」 「それって普通?」 「魔術師にとってはたぶん、普通だ」 「なんか不思議な生活だね」 「よく、わからん」 「でも俺もサイファから見たら一緒かな。起きて剣の稽古してメシ食って寝るだもん、変でしょ」 少しだけ違う同じような平坦な毎日。聞けずにいたのを察して答えたか。そうでもないだろう、心の中サイファは首を振る。 長い年月、人間に心を寄せることを止めてしまった。失望するのが面倒だ。自分にもそう言い聞かせていたけれど、本当は違うのかもしれない。どう違うとは、わからなかったけれど。 「変だな」 「でしょ」 子供子供した笑い顔がなぜか胸に迫る。 馬鹿馬鹿しくなって、立ち上がった。月はまだ天頂にかからない。 「なんか見えた?」 わずかに緊張した声。安堵する。人間などに自分の内心がわかってたまるか、そんな思いだった。 「別に」 けれどウルフも立ち上がって遠くを見る。見えなどしないはずなのに、遠くを見るのは何か不安があるからなのか。 隣に立ったウルフは、サイファより小さい。魔術師と戦士としてのその差は確かに体格に表れている。 半エルフの血のせいもあってサイファはほっそりと優美だ。黙って立っていれば、瞬きする間くらいは女に見えるだろう。しかし細身の体からは精悍な男の気が漂っている。華奢に見えかねない細い首でもやはりどう見てもそれは男の首だったし、女が羨むような手をしていても、男の手指だった。 今はまだ背の足らないウルフであっても、いずれそう遠くないうちにサイファを越すだろう。腕は太くなり胸は厚くなるだろう。今でも充分に戦士の体をしているのだから。 「どんな所なのかなぁ」 あらぬほうを見たまま、ウルフが言った。 「シャルマークか。聞いているだろう」 いまさら何を、わずかにサイファは眉を顰める。 「違うよ」 鞘のままに剣を大地に突き立て、それにもたれながらウルフは答える。 「半エルフが着いた場所ってどんな所なんだろうって、さ」 それをずっと考えていたのか。サイファが可哀想だとはウルフは思っていないだろう。辛いこともある世の中だけれど、そんなものは誰にでもある。 ウルフは自分が人一倍寂しがり屋だと知っていた。そのくせ、誰かと共に過ごすことができない。気の合うだけの仲間など、要らなかった。 それが寂しい。どうして自分は仲間に馴染めないのだろう、と思う。馴染めないのはきっと、自分がおかしいからだとも。 同じ人間と言う種に囲まれて育ちながら、異種族に紛れ込んだ気がしていた。 だからサイファの気持ちがわかるなどとは言わない。それほど傲慢ではない。ただ、なんとなく自分のまわりがすべて違う生き物であるという、そんな気持ちの一端がわかる気がする、それだけだった。 「誰も帰ってこなかった」 ウルフも、寂しいのだな。それが感じ取れてしまう。言葉にしない感情がサイファにはありありと手に取るようにわかる。 だから流されてしまったのかもしれない。感情の奔流に巻き込まれることなど、もうずいぶんなかったから。 「だったら、いいところなんだよ」 「そうか?」 知らないものは答えようがない。皮肉な口調になるのは致し方なかった。 「そうじゃなかったら、誰かしら飽きて戻ってくるって」 まるでそれが正しい答えだと言うように、ウルフが笑う。言われてみれば、そういうものかもしれない。 なんだかそれで正解のような気がしてくるから、おかしい。 「そんなものかもしれんな」 「サイファもそう思うでしょ」 ウルフが笑う。もう、明るい笑いに戻っていた。うなずきを返したものの、サイファは同意して言ったわけではなかった。 気の持ちよう一つで、ずいぶん物の見方は変わる、そんなものかもしれない。そう思ったのが言葉になってしまった。 「そうだと、いいな」 天を仰ぐ。いずれ自分が行く場所だった。安らかに過ごせる場所であればいいと思う。今はまだ、行きたいとは思わないが。 「うん……」 マントの腕にかすかな重み。ウルフが袖をつかんでいた。払いかけた手が、動かない。 「なんだ」 問いかけてしまった。聞く気など、なかったと言うのに。 「サイファが、いなくなったら寂しいなと思った」 「馬鹿な」 「そりゃ、会ったばっかだし、全然しらないよ。でも」 サイファが半エルフの血を引いていなくとも、ウルフが真っ赤になって言い募っていることはわかっただろう。 本当に面白い。くるくると感情が変わる。見ていると、飽きない。 「お前が死んで百年経っても私はまだこの世に飽きることはない」 自分で思ったよりそれは低い声だった。 「それはそれでちょっと、寂しいかも」 「どういう意味だ」 問いかける声は同じように低く、違う意味で響く。 「別に。なんとなく」 あっさりかわされた。かわした、と言う意図さえ、ウルフは持っていないだろう。それを思えば自分の声の獰猛ささえ、馬鹿らしい。 脱力して袖を払い、再び草地に座る。夜露が指先を濡らした。 「明日は、ゆっくり進んだ方がいい」 「どうして」 立ったまま、ウルフが尋ね返す。見下ろされているようで不快だった。手振りで座れと促せばほっとした気配が伝わってくる。 「お前が不安だ」 「心配してくれるんだ」 「シリルの腕からかけ離れるようだと、シャルマークの大穴に行くのは無理だ」 「とりあえず、少し様子見てくれない?」 「そのつもりではいる――月がかかった。交代だ」 もし足手まといになるようだったらどうするのだろうか。サイファにはその答えを出すことが出来なかった。 |