かすかな星明りの中、ぼんやりと人影が浮かんでいる。ウルフとサイファだった。
「先に夜番をやらせてもらおう」
 サイファがそう言い出したのは、疲労からだった。シリルだけはそれに納得してすぐにうなずいたものの、あとの二人は不思議そうに首をかしげている。が、特別に拒む理由もないのでまずサイファ、と言うことになった。
「その代わり、ウルフも一緒にね」
「必要ない」
「ですが……」
 アレクとシリル、二人で責められてはまた話が長くなる。そう察したサイファは諦めてそれを受け入れ、そういうことになった。
「サイファ」
 野営地から、少しだけ離れた場所に二人はいた。話し声で眠っている二人を起こさないように、とウルフが選んだ場所だった。サイファに会話する気はなかったものの、選んだ場所自体は辺りを観察するのに良い場所で異存はない。
「なんだ」
 夜になって風が出てきた。木々を揺らす風の音を聞き、髪をなぶらせる。ずいぶん久しぶりだ、サイファは思う。立ち上がって、遠くを見る。人間よりはるかに良い目は夜の闇にあっても、遠くまで見晴るかすことができる。心配は何もなさそうだった。
「どうして夜番、志願したの」
「どちらにしてもやらねばなるまい」
「だけど、先にって」
 気になったことはそのままにしておけない、ウルフはそういう性格なのだろう。だから、冒険に出た。シャルマークはどうなっているのだろう、怪物とはどんな生き物なのだろう。一度思ったらもう止まらない。だからこうして疑問に思ったことを口に出してしまうのだろう。
「疲れた」
 サイファはぼそり、それだけを言う。
「じゃあ、眠ったほうが良かったんじゃない?」
 小さな声で言った言葉には、懸念があふれている。アレクとは違った形で、彼は彼なりに感情が豊からしい。人間と接することの少なくなっていたサイファには、新鮮だった。その分、わずらわしくもある。
「まとめて眠りたい。疲れが取れない」
「あ、途切れ途切れに寝るんじゃダメなんだ」
「だめ、と言うことはないが」
「やっぱ、無理なお願いしちゃったもんね」
「違う」
 確かに、間違いなく精神的な疲労はあった。誰かと話すことさえ稀だったのだ。一度に三人とも会話することなど絶えてなかった。誰かと会話する、と言うのはこんなにも疲れるものだったのか、としみじみ思い出していたところだったのだ。
「転移の呪文は、疲労が激しい」
 だが、会話の疲労ではなかった。
 今この世界で、転移魔法の使い手がいったいどれだけいることだろうか。そう多くはいまい。あの時、シリルはさすがに呪文の存在は知っていたと見えてあからさまに驚くことはなかったものの、内心で感嘆していたことはその表情でうかがえた。
 それほど、習得も行使も難しい呪文だった。あれほど短時間に二度唱えることができるものなど、そうはいない。サイファとて、それで疲れている。こんなシャルマークの入り口ともいえる場所で強大な魔族に会うことなどなかろうが、それでも明日の体調は万全にしておきたい。
 何しろ一行には剣の腕が未知数のウルフがいる上、短剣こそ使えるものの、長剣が使えないことから接近戦にはまるで向かないアレクがいるのだ。事実上、直接戦力は二人、と言っていい。当面はシリルが物理攻撃を防いでいる間に呪文を唱える、という形しかあるまい、とサイファは覚悟していた。
「魔法って良くわかんないや」
「良く?」
 まったくの間違いだろう、言外にサイファは言う。それを嗅ぎ取って喉の奥でウルフが笑う。夜は声が響く。それを心配してこらえようとした笑い声があふれてしまった、そんな笑いだった。
「訂正。全然わかんないんだ」
「だろうな」
 冷たくサイファは言い、草の上に座り込んではマントを体に巻きつける。さすがに夜になると、冷える。
「魔法って呪文唱えればいいってわけでもないんだね」
 ずっとそう思ってたんだ、そう続けてウルフはサイファの隣に腰を下ろし、膝の間に剣を鞘ごと抱えた。自然に座った位置が右隣であったのを横目で見、サイファはごくわずかではあったものの見直すことにした。一応は、夜番であることを忘れてはいないらしい。いざとなったらすぐに剣を抜ける位置にウルフはいた。
「それは誤解だな、一般的な」
「なんだ、俺だけじゃないんだ」
「だからと言って無知であることに変わりはない」
「サイファ、きついなぁ」
 なんでもないことがいかにもおかしくてたまらない、と言いたげにウルフは笑う。己を無知と言われて面白がる神経はサイファにはわからない。
「呪文って、なに?」
「質問の意図が不明確だ」
「んー、呪文を唱えれば魔法がかかるってわけじゃないんでしょ。だったらなんで呪文を唱えるのかなって」
 めげずに己がなにを問いたいのかを拙い言葉で説明するウルフを見ているとつくづく子供なのだなとサイファは思う。ウルフにとっての世界はいつも新鮮なものであふれているのだろう。
 そんなウルフにつられて、いつの間にか会話をしている自分に気づきサイファは驚く。話す気など、さらさらなかったと言うのに。今も、魔法とは何か、そんなことを話そうとしている。それほど、嫌な気はしなかった。
「呪文は真言葉だ。魔術師自身が確実に言葉の意味を捉えていなければ魔法は発動しない」
「じゃ、俺がサイファと同じこと言っても魔法がかかるってわけじゃないんだね」
「当然だ」
「もうひとつ。真言葉って……」
 理解できると思って使った言葉ではなかった。質問が来ると予想していただけに、サイファもすぐに次を続ける。言葉のやり取りが、意外に面白い。
「あらゆる現象や物の概念、と言っていい。その物の本質を捉えた言葉。本質を引きずり出して行使するのが魔法と言うことになる」
「あぁ、だから疲れるのか」
 納得した表情でうなずくウルフの横顔が闇の中、見えた。思わずそれを見つめてしまった。
「だって、それって体力勝負ってことでしょ」
 視線を感じたのか少しばかり誇らしげな顔をしてウルフがサイファを見る。それからあってるかな、と首をかしげた。
「そういうことだ」
 実に不思議な子供だった。何も考えていないのかと思えば突然、異常な鋭さを見せる。
 事実、ウルフが言ったことは正しかった。本質を捉えたからと言って、それで魔法が発動するわけではない。捉えたものを自らの支配下に置き、行使する。それは正にウルフが言ったとおり体力との戦いだった。
「……ごめんね」
 ぽつり、ウルフが言ったのは、会話が途切れ、黙って夜風が木の葉を鳴らすのに聞き入っていたときだった。
「なにがだ」
 ぼんやりと夜を見ていたサイファが問う。言葉を選んでいるのか、ウルフは答えなかった。
「謝罪を受けるようなことはなかったと思うが」
 居たたまれなくなったサイファが水を向ければ、隣で体をすくめる気配。
「あったよ」
 やはり、小さな弱い声。
「だから、なにがだ」
 思わず声が厳しくなった。
「俺、未熟だし。そんなのにつきあわせて、住むとこまでサイファ、なくなっちゃった」
 膝の間に剣を抱き、柄頭に顎を乗せている。小さな子供が人形でも抱いているようだった。
「きっと今頃は塔の中も荒らされちゃってるよね」
 唇を噛むのが、見えた。
「魔術師の塔だ。勝手に入ることはできない」
「え……」
「招きいれた人間しか、入れない。当然だ。一度戻ったのは、荷物を取りに行ったのと塔を封印をするため。今は扉を打ち壊すこともできなくなっている」
「じゃあ」
「多少の騒がしさを別にすれば今でも住むことは可能だ」
「……そっか」
「あぁ」
 自分で言っていて、本当にそうだな、サイファは思う。なぜそれを思いつかなかったのか不思議なほどだった。同行する必要などなかった。どうせ人間などすぐに諦めてしまうのだ。放っておけばすぐに穏やかな日々が戻ってくるのだ。なぜ、ついてきてしまったのだろう。我がことながら良くわからない。
「だから、謝ることなどない」
 あまりにもウルフが沈んでいて、それだけは言ってやりたいと思ってしまった。とたん、ぱっと明るい笑みがウルフの口許に浮かんだ。夜を見通すサイファの目には、まるでそれは光が灯ったかのように見え。
「ありがとう」
 そしてそれからウルフはそれだけを言った。
「……礼を言われる覚えもない」
 ぼそりと冷たい言葉を返しながら、自分はこんなに不器用だったのだろうか、サイファはそんなことを考えていたのだった。
「けっこう危険な旅だしさ、悪いことしちゃったと思ってたんだ」
 夜番だと言うのに、ウルフは息をつきごろりと草地に横になる。さすがに剣は握っていた。
 林の木々の切れ間から、星がのぞいている。人は皆、化け物ばかりが住む土地だとシャルマークを言うけれど、こんなに綺麗な星が見える。それを知ってウルフは嬉しくなる。今夜、こんな星空だったのをいったいどれだけの人が知っているだろう、それを思えば自分ひとりが得をした気になるのだ。まして隣には綺麗なサイファがいる。
 会話など面倒だ、と言わんばかりの顔をしていたのに、話しかければちゃんと答えてくれる。それがウルフは嬉しくてたまらなかった。
「けっこうどころではないが」
 それを見ながら呆れてしまう。自分で未熟と言い切ったばかりのくせに、そのようなものだと思っているのだろうか。
 人間である以上、死さえ覚悟してきたはずだ。命と引き換え。それは物欲だったり戦闘の楽しみだったりする。それが人間と言う種族だ。
 だから、なのかもしれない。短命であるがゆえに、華々しく生きて散るのもよし、そう思うのかもしれない。
 人間と言う種は、その血が半分自分の体に流れているにもかかわらず、サイファにとってはいつになっても不可解な種族だった。
「でもサイファにはその程度でしょ。半エルフは死なないって言うし。それってホント?」
 どことなく寂しげにも見える茶色の目が、サイファを見つめていた。澄み過ぎた目だった。




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