明るい光の中から急に室内に入って眩しいのだろう、入ってきた男は目を細めている。ウルフだった。後ろには深い緑色のマントのフードをしっかりと引き下げた人物が立っている。 「お帰り、それが魔術師さんってわけね」 ジョッキを掲げて女が言う。明るい口調だった。言葉だけを捕らえれば蔑みにも取られかねないものなのに、彼女の声音にそのような響きはない。 「お帰り、ウルフ」 同じテーブルについていた男が柔らかく言う。どうやら少しばかり疲れているような様子だった。 「ただいま」 ウルフは言い、とにかくテーブルに魔術師を案内する。魔術師は黙って従い、言葉を発しない。 「じゃあ、まず行き先よね」 弾んだ声で女が言った。 「まだ、同行するとは言っていない」 それを打ち消す重い声だった。 「ちょっと、どういうことよ」 女がウルフを睨みつける。それに思わず椅子ごと引いて逃れてしまったのは、ウルフの若さか女の迫力か。 「この男では、埒が開かないから来たまでのこと。私は冒険などする気はない」 魔術師は状況になど頓着せず自分の言いたいことを言い放つ。女の連れが頭痛でもするように頭を抱えていた。 「アンタねェ、それならそれで別にいいわよ。ただ、人に話をする態度ってもんがあるんじゃないの」 「丁重にお断りしているつもりだが」 「テメェの面も見せないでなぁにが丁重よッ」 女が身を乗り出した。魔術師が避けるより速くその手がフードにかかる。光の中、魔術師の顔があらわになった。悲鳴と怒号。呆然とする余所者の客とジョッキを投げつける町の人間。 「あなたは……」 驚きから冷めるのは、女の連れが一番速かった。 「そうだ。私は半エルフだ。どこに行ってもこういう騒ぎが付きまとう」 「なぜなのでしょう」 「知ってはいるが説明は面倒だ」 「ちょっとアンタたち!」 飛び交うジョッキを避けながら女が連れの胸倉をつかむ。ついでとばかりに魔術師のマントもつかみ、思い直してフードを被せ再びつかむ。 「悠長にご歓談あそばしてる場合じゃないでしょ」 「どうしようか」 「アンタものんびりしてんじゃないわよ!」 両手がふさがっているのを見て女はウルフを蹴飛ばした。 「じゃあ……」 つかんだ男たちを椅子から引きずり上げ、女はきっとウルフを睨む。 「逃げるに決まってんでしょッ」 猛然と扉に向かい、客を蹴散らし外に出る。外に出たところで恐慌状態の町の人間は追ってくる。女は手を放し、手首に仕込んだ短剣を抜き放つ。 それを魔術師が止めた。 「止めないでよ」 そちらを向いた女の目に映ったのは、うっすらと笑った魔術師の唇。 追っ手の前に立った魔術師は無造作に手を上げ、彼らを指差し。それだけだった。絞め殺されたような悲鳴が上がり、蜘蛛の子を散らすように人気がなくなった。 「ちょっと、なにしたのよ」 「何もしていない」 「何もって」 「勝手に逃げた」 魔術師は嘯き、それから溜息をつく。どうやら自分の目論見は外れたらしい。女も連れの男も自分を見て平然としている。逃げてくれれば手間が省ける、と思ったはずなのだが、どうにも調子が狂う。 「これからどうしようか」 この期に及んで能天気とも言えるウルフの言葉だった。一向はとりあえず、と言う感じで足を進めている。シャルマーク王宮の方へ。戻っても仕方ないことだったから、それもまた致し方ないこと。 「どうもこうも、私の戻る場所をなくしたのはお前たちだが」 本当だったら怒りを抱いてもおかしくはない。恐れられ忌まれているとは言え、あの塔は彼の安住の地だった。この騒ぎでは、塔に暴徒が押し寄せてくるのも時間の問題だ。叩き潰すことなど造作もないが、人間の命を奪うのは気持ちのいいものではない。 「あ……」 ようやく魔術師の言っている意味がわかったのか、ウルフが青ざめる。 「ごめん……」 捨てられた子供のように、魔術師のマントの袖をつかんでいた。振り払おうか、と思った。馬鹿馬鹿しくてやめた。 「成り行きってことで、一緒に来てくれたらありがたいんだけど、どうよ、魔術師さん」 女の茶化した口調に救われた思いがするのが、苛立たしい。 「同行するしかあるまい」 それを共に旅立つ苛立ちだ、と自分に言い聞かせた。 「本当に! ごめん、無理やりになっちゃって。でもすごい嬉しい」 「お前さえ来なければ平穏無事な日々だった、と毎日言ってやろう」 「……いい性格してるわね、アンタ」 「幸い性格を褒められたことは一度もない」 「どこが幸いなのよ!」 女の連れが思わず吹き出す。 「まぁ、いいわ。アタシはアレクサンドラ。アレクでいい。これはシリル。そっちのウルフはもう名乗ってるはずよね」 「リィ・サイファ」 魔術師はそれだけ言う。反応したのはシリルと呼ばれた女の連れだった。 「あの、伝説の大ウィザード・リィの最後の愛弟子! あなたが、リィ・サイファとは」 「ちょっと知り合いなの?」 「とんでもない。いま魔術を学ぶものは皆、彼の偉業を目指している。それくら偉大な魔術師だよ。一緒に来てもらえるとは、本当に心強い」 興奮するシリルだがリィ・サイファ自身は我関せずと横を向いている。 「へぇ、そんなすごい人だったんだ」 ウルフだけが事態を把握していない声を出す。 「あなたは冒険者のくせに彼の名前を聞いてもわからなかったんですか」 「アレクだって知らなかったじゃん……って、俺、名前聞いてなかったわ」 自分の間抜け振りがおかしくなったのか、ウルフが笑い出す。リィ・サイファは問われなかったから名乗らなかったのだが、さすがに呆れて物も言えない。 この、自分の名も知らない若造に巻き込まれて、安住の塔を失い旅に出る羽目になるとは。シリルではないが、頭痛に顔を顰めたくなってくる。 「なにアンタ、名前も聞かないで一緒に来てくれって言ったの? なんたる間抜け!」 一緒になってアレクが爆笑する。美しい女なだけにその様は壮絶だった。 「お前の『定めし者』か?」 女をちらり、見てリィ・サイファがシリルに問うた。それにシリルは驚いたように目を見開き、そしてうなずく。 「旧い風習です。さすがですね」 魔術師の知識の広さに感嘆するシリルに目だけでうなずき、彼はフードを取り去った。風が心地いい。 「ホント、綺麗。それだけで一緒に来てくれて嬉しいや」 目の早いウルフがリィ・サイファの素顔を見て喜びの声を上げる。リィ・サイファにとっては信じがたい感性に今日になって何度目になるのかわからない溜息をつく。 「一度、塔に戻る」 「えぇー。せっかく歩いてきたのに、アタシ面倒くさい」 「私だけが戻れば済むこと。お前たちは適当に進んで野営の準備でもしていればいい」 「どうやってみつけんのよ」 すっかり機嫌を損ねた女を見ているとおかしい。人間と言うのはこんなに表情の豊かなものだった、と思い出す。 「それを貸せ」 リィ・サイファがアレクの耳に手を伸ばす。 「え、なによ」 彼の手に移ったのは、華奢なつくりの金の耳飾り。はめ込まれたルビーがアレクの金の髪によく映えていた。 「そりゃアンタのほうが似合うだろうけど、アタシの立場ってもんが」 「……誰がつけるか」 低い男の声が罵った。 「え。絶対似合う、似合うって!」 「止せ、ウルフ……」 頭痛をこらえるシリルの前でまだウルフが騒いでいる。手の中の耳飾りを握り締め、魔術師は真実、後悔していた。 「これを目標に戻ってくる」 「じゃあ。耳飾りじゃなくてもいいんだ」 「当たり前だ」 「んー。俺の剣じゃダメ、かなぁ」 「……そうすると、私が帰ってきたときには骨も残っていないという事態もありえるわけだが」 「あ、そっか」 「なぁにが、そっか、よ!」 「だってさ、なんかアレクずるいじゃん」 「何がどうずるいんだか、とくと聞かせてもらいましょうか、えぇ?」 言い合いをはじめた二人を尻目に、とにかく言葉だけは通じそうなシリルに向かって 「夜までには、戻る」 そう言い置く。 「良い野営場所を探しておきます」 シリルも心得てリィ・サイファに笑みを向ける。魔術師は見る限りでは簡単そうでその実、非常に複雑な手振りと共に言葉を呟いた。彼の姿が霞み出す。 「アタシはきれいなもんが好き。なにが悪いのよ。男も宝石も!」 アレクの高笑いが響いた。ウルフは返す言葉を失って、口の中で何事かを呟くばかり。魔術師の方を向いたまま、シリルが額に手を当てて苦笑う。 「深く、同情する」 言葉を返そうとしたシリルの前で、リィ・サイファが消えていく。どこか、笑いを含んだ声だったのが、シリルの頭痛をさらに重いものにしていた。 |