朝日の中、男は魔術師の塔の前に立っていた。ネシアの町の酒場兼宿屋で「魔術師の仲間が欲しいならばここに行け」と聞いた。それで素直にやってきたのだが、男はそれがからかいの言葉だったとは今もって気づいていない。 不意に開けるものもいないのに扉が開く。驚愕に目を見張った男の顔はまだ少年と言ってもよいほどに幼さを残していた。 生来の好奇心が疼いたのだろう、警戒は怠らないものの、彼は扉をくぐり階段を上がって行く。最上階に人影が、あった。 「あ……」 驚きから冷め、来意を告げようとした彼が言葉を継ぐ前、人影が口を開く。 「何をしに来た」 低い、男の声だった。姿はわからない。ローブを着た、声からして男だとかろうじてわかる影の背後に蝋燭が一本、燃えている。窓は閉ざされ部屋は暗い。 「仲間になって欲しいんだ」 来客が、実に率直な来意を告げたとたん、男の声が笑い出す。豊かな、それでいて乾いた笑いだった。 「何で笑うんだよ」 どこか拗ねた声はやはり年若さから来るものか。人を疑う、ということを知らないらしい。リィ・サイファは笑いの中で物憂く思う。 「冒険に出たいんだ。シャルマークは面白いことになってるらしいから」 「面白い?」 つい引き込まれたリィ・サイファが聞き返し、そして己の行動に苦笑する。 「知ってるかな、三王子の失踪のこと」 少しばかり得意げな声で来客は言った。 それはこういうことだった。アルハイド大陸に残された二国のそれぞれの王子が消えた。ミルテシアからは末の王子が。ラクルーサからは第二王子とそのすぐ下の弟王子が。自らの意思で出奔したにしろ誘拐されたにしろ、王子が三人も消えた、というのは驚くべきことだった。しかも噂によれば彼らはシャルマークに入った、というのだ。もはや異常としか言いようがない。 「それならば、知っている」 リィ・サイファも興味はあったのだ。人間から排斥された身ではあったが、だからこそ興味深く観察してもいる。まして王子の失踪など、そうそうあるものではなく魔術師の力を持てばその程度の情報はたやすく手に入った。 「そっか……。それで、王子を探し出して連れて帰れば、いい金になるなって」 魔術師が知っていたのがいささか残念だ、と言う思いを隠しもせず来客は言う。彼にしてみれば取って置きの情報だったのだろう。 「ここを誰に聞いた」 「え。ネシアの宿屋で」 言ったとたん、また魔術師が笑った。背後の蝋燭の炎で顔つきはわからなかったけれど、どうやら腹を抱えて笑っているらしい。幾分、不快だった。 「何で笑うんだよ」 「……すまない」 まだ笑いの衝動が収まらない声のまま魔術師は言う。彼にしてみれば実におかしい。この素直な少年が、いまだからかわれていたのだと気づいていないのが、おかしくてたまらない。 「私は外には出ない」 「なんで」 「出たくない」 面倒だった。顔のせいで、血のせいで、人間から忌み嫌われるのを目の当たりにするのは。 「行こうよ。頼みます。俺たち魔法使えるのがいなくって、苦戦は必至なんだ」 「嫌だ」 にべもない言葉に、来客が顔を強張らせた。ここに来れば魔術師を仲間にできる、そう思っていたのだが甘かったらしい。ようやくそのことに気づいた。だが魔法を使える者がいなくては、シャルマークで王子を探すどころか自分たちが魔族の晩飯になりかねない。 「嫌な理由くらい、聞かせてくれる?」 それを突破口にしよう、という意図が見え見えだった。あからさまなそれにリィ・サイファも来客には見えないはずの顔を笑いの形に歪めた。 「理由、か……」 炎を背負った人影が、軽く手を振った。灯りが消えてなくなる。塔の中は漆黒の闇に閉ざされた。 と。今まで堅く閉ざされていた窓が次々に開いていく。音を立てて開いていくそれは、まるで魔術師の怒りの声のようだった。 塔の中、明るい日差しが満ちていた。 「まだ、理由を言えと?」 魔術師が笑っている。獰猛な笑みだった。それなのになんて美しい。 「あんた……」 言葉を失った来客が、足を動かす。一歩引く、魔術師はそう思った。しかし客は足を前に進めた。 「な」 絶句する魔術師の頬に若い男の手が添えられていた。 「すごい綺麗」 それだけ言って今度は客が絶句する。呆けたように見惚れられることがなかったわけではない。ただその後になって必ず逃げ出されたが。 若い男は逃げるでもなくまだじっと見つめている。陽の光の中、彼の髪が燃えるように光っていた。見事な赤毛だった。ゆるい癖がついてあちこち跳ねているのは、生来のものだろうか。澄んだ茶色の目は好奇心いっぱいの若さを宿している。 椅子に腰掛けていたリィ・サイファの頬に、机を挟んで乗り出すよう手を添えている様など、新しい玩具を与えられた幼児のそれと大差ない。無邪気ではあるが、意思ある「玩具」としては多少、不快だ。 「離せ」 「あ……ごめん」 慌てて手を引き、それでもその場に留まってまだ触れたそうにしている。子供のようだ、と思ったが光の中で見るとそれほど幼くもないらしい。堅い革鎧を身に着けた体はこれからまだ背が伸びそうではあったが、腕などはしっかりと鍛えた者のそれだった。 「ねぇ、頼むよ」 「なにを」 「だから、一緒に来て欲しいんだってば」 魔術師は、本当に言葉を失った。この顔を見て出自を知ってなお、共に来いと言うのか。おかしくなった。陶然としたのちに逃げなかった人間と言うだけでも驚異に値する。少しだけ、旅に出ても良いか、そんな気になった。 「お前の仲間が嫌がるだろう」 そんな思いを払ってリィ・サイファは首を振る。この若い男が平然としているからと言って仲間までもがそうだとは限らない。目の前で恐慌状態に陥られては半人であってもやはり傷つくのだ。 「なんで? むしろあんまり変な奴らなんでお願いするほうが申し訳ないくらいなんだけど」 心底、何がそれほど問題なのかわからない、といった顔で魔術師を見ていた。それが無性に癇に障る。 「私は見ての通りハーフエルフだ。人間はたいてい、嫌う」 いつまでも光に顔をさらしているのが嫌で、手を振れば一つを残してすべての窓が瞬時に閉じる。 「なんで嫌うんだろ。こんな綺麗なのに」 筋になって差し込む光に照らされた魔術師の髪に無造作に手を触れた来客の顔に浮かぶのは、ただただ不思議そうな表情。 「知るか」 知ってはいたが説明が面倒だ。そもそも説明してこの男に理解できるとも思えない。溜息をつき、魔術師は来客の名を問う。 「ウルフ」 嬉々として答えられ、己の迂闊を呪った。 「別に行くと決めたわけではない。仲間とやらに会わせてもらおう」 こうなったら、それで向こうに怯えられれば話は早い。仲間が嫌がればウルフとて無理強いはするまい。髪に触れた手を邪険に払い、リィ・サイファは立ち上がる。 塔を降りるときには深い緑色のマントに身を包み、しっかりとフードを引きおろしていた。 「なんでそんなに顔隠しちゃうの」 いかにももったいない、と言いたげな声に苛立ちが募る。魔術師は答えず、久しぶりの大地の感触を足の裏で確かめていた。 酒場で、感嘆の声が上がっていた。ネシアの町である。まだシャルマーク領内とは言え、魔物の横行も少ない場所であったから、酒場には町の人間も多い。町の者が言う「余所者」は酒場の二階に滞在しながら魔物を狩っていたから、その意味ではここは宿屋、とも言えた。 感嘆の声を上げさせたのはその余所者だった。昼間から酒を飲んでいるあたり、いかにも冒険者が集う酒場、なのだが、その冒険者が美しい女とあれば人目も惹く。 「姐ちゃん、俺からだ」 「あら、ありがと」 艶やかに笑って、残った酒を飲み干しては新しいジョッキを受け取る。いくら飲んでも顔色ひとつ変わらない。客たちの間では後どれほどで潰れるか、賭けが行われていた。 「アレク、いい加減に……」 彼女の連れだろう、地味な男が心配げに声をかける。それをちらり見やっただけで女は勢いよくジョッキを傾けた。また、歓声が上がる。 「いい加減にって言ったって、ウルフが戻ってこないんじゃ暇で仕方ないじゃない」 「だからって、飲み過ぎはよくないよ」 「過ぎってほど飲んでませんよーだ」 男のことなどまるで相手にしない、といった風情でアレクと呼ばれた女は体ごと顔を背けた。開け放った窓から午後も遅い光が入ってきている。きちんと伸ばしたら、どれほど見事だろうかと思わせる金の髪は、頭の形に添って短く、後ろだけが長い。腰までの長い髪は素直に落ち着いているものの、短い毛は奔放に跳ね、それが彼女自身を現しているようだった。 これでも一端の冒険者らしく、武装はしている。女だからか、手首まで覆うしなやかな素材の服の上に柔らかい革鎧をつけている。服の高い襟からのぞく首が、その襟の形でよりいっそう細く見えた。 転じて連れの男はといえば冴えない栗色の髪に沈んだ茶色の目。ただ、目の色が沈んで見えるのは連れに頭を痛めているせいもあるのかもしれない。こちらは変わった形の服の上に堅い革鎧をつけている。手には剣だこができているところを見れば、腰に佩いた片手剣は伊達ではなくそこそこ使うのだろう。 「それにしても遅いわよね」 ジョッキを傾け、彼女は言う。先ほどとは違うジョッキを手にしているところを見ると、また別の客が注文してくれたものだろう。 「そんなに遠いとこって言ってたっけ?」 「説得する時間もあるだろうし……」 「し、なによ」 癇性な菫色の目が連れの男に向けられて、男はそれに苦笑する。 「戻ったみたいだよ」 扉を見て、彼は言った。 |