かつてアルハイド大陸には三つの王国が存在した。大陸北部にあり、山脈が両腕となって国土を抱えていたのはシャルマーク王国。最小の国土を持ちながら国力は最大であった。北西部山脈の南部に広がるのはラクルーサ王国。豊かな水脈を持つ恵みに満ちた国。北東部山脈の南部に位置するはミルテシア王国。起伏に富んだ丘と森を持つ。ラクルーサとミルテシアは北西部山脈から流れ出た大河が国境として、シャルマークと両国とは峨峨たる山脈がその役を果たしていた。
 そしてその三国が国境を接する真中にハイドリンがあった。国ではない。それは三国を従える上王の居城の地だった。上王。至高王、ハイキングとも呼ばれるその存在は、常に戦乱に流れがちな三国を抑え、この大陸に神の恩寵をもたらしていたのだった。三国に含まれ、かつ中心点そのものから等距離のそれぞれに三つの宮殿がある。それらは繊細優美な橋でつながれ、その中心に花開くは至高王の宮殿。ハイドリンの三叉宮だった。上王はそこにましましてすべての国民の暮らしを見守る。まるで慈父のように。
 争うことを好む人間の国の王が、なぜ至高王に従ったか。答えは明確であった。至高王は人間ではない。神人、あるいは天使、御使い、幼き神とも。人間より高次の存在がそこにいたのだ。それゆえに人は従った。上王がいまします限り、大陸は平和の眠りを貪ることができる、と。
 だが、その枠に収まることのできかねるのが人というもの。シャルマーク王は力を求めた。上王を倒すことのできる力。自らがそれに代わり得る力。今もって何が行われたのか知る者はいない。上王とその同族である神人たちはシャルマークを討ち、そして王は死んだ。
 上王もまたその戦乱で傷つき倒れた、と伝説は言う。傷を負った至高王を神人たちはいずこへか運んだのだ、と。そしていつの日かまた、上王はアルハイドに戻りましますのだ、伝説はかく語る。
 吟遊詩人たちはそう歌えども、人々は力なく首を振るだけだった。上王が去りし後、アルハイド大陸は大いなる波乱に見舞われた。
 はじめはささやかな出来事だった。春の来るのが遅かった。夏が少しばかり、暑かった。収穫が例年よりいささか少なく感じもした。そして長い冬が来るにいたって人々は異変を知った。
 甘い香りを放っていたミルテシアの森は数年を経ずして消え去った。あとに残ったのは草原地帯。だが、痩せた大地は穀物を実らせるにはいたらず、家畜を放とうにも苦い草を嫌がって彼らはまるで大地のごとく痩せ細るばかり。
 滔々と水を湛えていたラクルーサの川は最初の冬に凍りつき、そのまま解けずに知らず氷河と成り果てた。山脈から吹く風は冷たく厳しく、何人の幼子の命を奪ったものか。
 だがしかし、これらはまだ大異変と呼ぶにはあたらない。シャルマークのそれを見れば。
 シャルマークは変わり果てた。かつては三王国中、もっとも恩寵深き国と羨望を集めたかの国は異形と魔族の徘徊するこの世ならざるものになっていた。恵み豊かだった大地は饐えた臭いを発し所々泥池と化した。植物とてそのような地に健全な成育をするわけもなく、徘徊するものたちにこそ相応しい異形の植物が地に満ちた。
 王宮のあった場所。それが諸悪の根源であったのかもしれない。王国の華やかしきころには昼には貴顕淑女が庭をそぞろ歩き、夜ともなれば昼をも欺く明りに照らし出されたシャルマークの王宮。それが今は。
 大地の底まで届けどもなお深きと思われるほどの大穴があるのみ。そしてそこからぼこり、泡立つものがあるかと見れば魔族の影。王宮は、魔族の巣と成り下がっていた。とは言え、人々がそれを知るのはずいぶんと後のことではあったのだが。
 吟遊詩人たちは語った。人の争いを好むこと激しければこそ、上王がましまし、その御力を持ち平和と成さしめた。
 シャルマークと上王亡き後、残る二国はいかに。共に手を携え新たなる道を模索したか。否。手を結び、異形・魔族と戦いしか。否。
 人は争いを好むもの。シャルマーク王が望んだ大陸の覇権を、残る二国の王が望んで何がおかしかろうか。二国は戦った。互いの血を流し、小さくあるいは大きく領土を削りあった。
 魔族が領土に侵入してくるその日まで。そして彼らは知った。自らが血に酔っている間に、着々と異形は侵略の準備を整えていたのだ、と。青ざめ、恐怖に震え、彼らは戦争を放棄した。戦う相手は異形に魔族。人の身の悲しさか、二国は互いの力を合わせることなく、怪物共との戦いに突入していったのだった。
 今でこそ、二つの山脈が合わさる隙間から怪物共を出さずに済んでいる。だが明日は。そして来年は。
 誰も知らない。このいつ終わるとも知れぬ闘争が、どこまで続くのか。至高王戻りまします日は、来るのか。人々はそう問う気力さえ、なくしていた。戦いに疲れ、怪物たちに怯える日々が続いているのだ、無理もない。その暮らしの中、彼らの神人への恨み激しくなりつつあることもまた、無理からぬもの。神人さえ、この地に留まっていてくれたならば今日の日の苦境はなかったものを。苦々しく思い、人々は神人の名を忘れた。各地に点在する神殿のみが彼らを神人、幼き神と呼び、民衆はただエルフ、と呼ぶ。神の座から引き摺り下ろし、人ならざる妖精と位置づけるその侮蔑。それゆえに神人の血を受けたものはひっそりと隠れ暮らす。そう、それだからこそ、民衆は神人を神とは呼ばなくなったのだった。神ならば、劣った人間との間に子など儲けるものか、人々は吐き捨てる。神人の血を引くからこそ寿命というものがない半人たちは自らの父の種族からも母の種族からも捨てられたのだった。
 シャルマークの大穴の知らせをもたらした者は誰か。両国の軍隊のいずれでもなかった。軍隊は国境からあふれ出ようとする怪物共を抑えるのに精一杯で、とてもかつての王宮まで辿り着けるものではなかった。強大な軍でありながら果たし得なかった理由のひとつに、軍隊が組織であったことが挙げられるだろう。散発して襲ってくる異形の怪物に、軍の果たす役割はあまりに軽い。
 大穴の存在を知らせたものは少人数の冒険者たちだった。怪物があふれるようになって以来、かつてのシャルマーク王国内では魔法を宿した品物が見受けられるようになっていた。売れば、大金になる。数人の仲間で忍び込み、異形と渡り合ってそれを手にすれば一攫千金もまた、夢ではなかった。
 そのようにしてシャルマークに入った冒険者たちの内いったい何人が死んだことだろうか。無論、無事に生還した人数の方がずっと少ない。だがしかし、彼らがいたからこそ、大穴の存在は知れたのだった。今では冒険者たちは欠かせない戦力のひとつになっている。むしろ彼らが両国を、人間の世界を異形・魔族の侵略から守っているのだった。
 そうしていつしかシャルマーク王国の滅亡より、千年以上もの月日が経っていた。

 シャルマークの領内に、人がまったく住まないというわけではない。己の住み暮らした地を離れがたいものも少数はいたし、何より冒険者がいた。冒険者たちが戦うためにシャルマークに来れば、泊まる場所がいる。食べるものもいる。それを商う者がいるのもまた、当然だった。
 廃墟になったハイドリンから程近いあたりに小さな町がある。そこもまた、冒険者たちの用を務めるための町のひとつだった。町の門から背後を振り返れば南西の空に三叉宮の美しい尖塔の数々を目にすることが出来ただろう。
 そのネシアの町をしばらく過ぎた場所に塔があった。ネシアの町に向かう者も通り過ぎる者も、その塔の前では一様に身をすくめ、中には魔よけの仕種をする者までいる。
 魔術師の塔であった。
 夜遅く、ネシアの町の宿屋からそちらを見ればぼんやり緑の明かりが灯る様まで見えただろう。そこに魔術師が一人で暮らす、というのだ。人々にとって魔術師とは、せいぜいが敬して遠ざけるような存在だ。偉大であることは間違いない。が、やはり恐ろしいのだ。人ならざる言葉を操り、人の身では叶わぬ力を発現させる。だが、ほとんどの魔術師は魔よけの仕種をされるようなことはなかった。
 塔の中、薄暗い明りに埃が舞い上がるのが見えた。魔術師が大きな本を閉じたのだった。何かが意識の端に触れた。苛立ちを伴った、何か。あるいは自分を苛立たせる、何か。双方かもしれない。それで本への集中が途切れたのだった。閉じたその拍子に舞った埃に眉を顰めた魔術師リィ・サイファは溜息をつく。目を上げれば高い窓から日が射している。夜はすでに明けていた。ひとつ大きく伸びをして、手元の蝋燭を消す。それから反対の壁を見やって、軽く手を振った。
「ネサ」
 小さく呟いた言葉に反応して、壁にあった蝋燭の炎が一斉に消えた。窓から差し込む陽の光が、鮮明な光の筋を作っていた。
 その陽光の中、彼の指にはまった指輪が光を返す。無骨な金の台に収まった瑠璃石の指輪がしなやかな、女の物と見紛うような白い指をさらに細く見せていた。
 見るともなしに石に目落としたリィ・サイファは知らず石をまさぐっていたのに気づき苦笑を漏らす。生まれたとき、母がつけた名はただのサイファだった。魔術を修め独り立ちしたときより彼の名はリィ・サイファとなった。瑠璃石の指輪は、遥かな昔、魔術の師であるリィより「もはや教えることはない」と授けられたものだった。
「いずれ、お前の前に運命の瑠璃石が姿を現すだろう。それまでの仮の守り、とでも思えばいい」
 疾うに亡くなった師の、温かい声音が思い出される。誰からも疎まれた自分を導いてくれたウィザード。結局のところ、疎まれ続けてはいるものの師に出会わなければシャルマーク王を笑えない事態になっていたことだけは間違いがない。
 父とは、あのような方のことを言うのかもしれない。そう思えども父を知らない身にはその単語さえいたたまれない。リィ・サイファは思いを振り切り、窓の下へと歩み寄る。
 朝も遅くなりつつある明るい日差しが彼の姿を浮かび上がらせた。軽いローブが風にはためく。背中の中ほどまで達した夜より暗い髪がふわり、揺れた。今朝の風はずいぶん強いようだった。空を見上げた目は、風の速さに雲ひとつないその空そのもののように、青い。黒いローブが映ったせいか青白いほどの肌。
 いや。ローブのせいではなかった。一目見ればわかる。彼は美しかった。人ではないもののように。荒れたことなどただの一度もないかとも見える指が無造作に髪をかきあげれば、まるで丹念に梳いたような光沢を髪は宿した。
 人はそこに人外の美を見る。そして恐怖し排除する。自らを捨て去った過去の偉大な者を恐れるかに。
 商売にでも向かうのだろうか。町の人が彼の塔の下を通った。男がお馴染みの魔よけの仕種をするにいたってリィ・サイファは軽く舌打ちをする。馴染んでしまったが、不快なことに変わりはない。このうえ姿でも見られようものなら悲鳴を上げて逃げられる。それは非常に不愉快だった。
 ただ、今朝の不快はそのようなものではなかった。暑苦しい波に飲み込まれる、そうとでも言えば近い感覚。再び舌打ちをした彼が窓の側を離れようとしたとき、若い男が塔の下を通るのが目にはいる。男は通り過ぎなかった。振り返った商売人が男の所業に悲鳴を上げて逃げ去っていく。男は塔の扉を叩いていた。
 黙殺しかけたリィ・サイファの目が留まる。唇がかすかに動いた。
「あれが原因か」
 それは天上の名工が彫り上げた美姫の像とも見える容貌を裏切った、獰猛な男の声だった。




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