湖のほとりまでのほんの短い距離をファネルはエリナードを抱いて運んだ。これ以上は一歩たりとも歩かせはせん、との強い意志を込めて。そして大切な細工物でも扱うかのよう、そっとそっと草地に座らせ、自らの体で彼を支える。そんな彼に苦笑しつつ、それでも少しばかり申し訳なさそうなエリナードの笑み。デニスはそれこそ申し訳なくて目をそらしたくなる。だからこそ、きちんと見た。 「ふうん?」 カレンのからかうような声音。この師にはどんなことでもお見通しだったのだ、と今更ながらデニスは気づく。 「私はライソンさんが大好きだよ。でも、ファネルも好きだ。なにより師匠が幸せだからね。それでいいんじゃないかと思う。生きてるんだからね。それが、わかったか?」 「はい」 「なら、よし」 にやり、と男らしい笑みを浮かべた師にデニスは頭を下げた。イーサウで学んでいる間は、少しだけ不満だったものだ。カレンは美しい。たぶん、美しいだろうとデニスは思っていた。男のように短く切られた髪も艶やかな漆黒だったし、すらりと高い背も、それはそれなりに綺麗だ、と思っていた。着飾れば。女らしくすれば。 そんなことは、彼女にはなんの関係もないことだといま、知った。カレンはカレンでいる、それだけで美しい。万が一、彼女が着飾ったりしたら無様だろうとまで今は思う。 「おい待て、小僧。それはそれで失礼だぞ?」 憤然としたカレンの言葉にデニスはさっと頬を赤らめた。どうやら思考が筒抜けになってしまっていたらしい。そんなデニスをイメルが高らかと笑う。 「ま、修行中にはよくあることだよ、デニス。師匠の悪口は目の届かないところで考えるんだね」 「そんなこと考えてません!」 「このガキぁ私が着飾ったらすっげぇ不細工って考えてたんですぜ、イメルさん。失礼でしょ」 「そりゃ失礼極まりないね。カレンはドレスを着ても綺麗だよ」 「二度と見たかぁねぇけどよ。あれは……悪夢だぜ、俺にとっちゃよ」 「そう言うことを師匠のお前が言う? 綺麗だよ可愛いよって言ってやれよ、ほんとは思ってるくせにー」 「誰がだ誰が! 思ってねぇぞ、カレン。思ってねぇからな!?」 「あー、はいはい」 声を荒らげるエリナードをすげなくあしらい、カレンが楽しげに笑っていた。デニスはそんな彼女が不思議で、思えば彼女とてエリナードと言う師がいて、彼の前では弟子の顔になるのだ、と言う当たり前の事実に今更気づく。 「それでさ、デニス。君は歩き続けるって決めたわけで」 「え、あ……イメル師。いいのでしょうか、その」 「いいんじゃない? エリナードがいいって言ってるし、カレンは元々放り出す気なんかさらさらなかったし。ていうかね、君。わかってる? 最初から、さっきの戦闘、茶番だからね」 「え!?」 やはりわかっていなかったか、とイメルが溜息をつけば、なぜ言った、とエリナードに殴られている。その二人の魔術師の姿にデニスは目を白黒とさせていた。 「わからなかったのか、デニス。この二人が戦ったら、あのようなものでは済まんぞ。魔術師同士の戦闘とは、凄まじいものだからな」 ファネルがどことなく昔を思い出すような口調で言う。小さく笑っていたから、嫌な思い出ではないのだろう。 「でも……茶番って」 「エリナードはカレンの覚悟を見たいって言ったでしょ。でも、君の覚悟を見るものでもあった」 イメルの真っ直ぐな声に貫かれ、デニスは息を飲む。試されたのだ、とわかった。魔術師として、ではなく人として、生きるものとしての覚悟を。 「僕は――」 合格だ、と言われたのは自分に対してでもあったのだ、とデニスは思う。思うからこそ、怖くなる。評価に値しない自分だと、知ってしまっていた。 「あのなぁ、坊やよ。お前はまだ海の物とも山の物ともわかんねぇガキだろうが。だったらモノになるまでとりあえず進んどけ。それくらいの覚悟は見せてもらったからよ」 がしがしと頭をかき乱すエリナードをファネルが優しげな眼差しで見ていた。それでデニスにもわかる。照れているのだと。あの偉大なフェリクス・エリナードが照れている。また世界がひっくり返りそうな気がしたけれど、いまのデニスはもう困惑はしない。彼もまた、生身の一人の魔術師と知った。 「なぁ、エリナード」 ぽつり、そんなデニスを見定めたようイメルが口を開く。そしてすがるような目をしてエリナードを見た。 「俺を、許してくれるかな」 唐突とも言える言葉にデニスのみならずカレンまでも驚いた顔をした。イメルが用意した茶をカレンなど危ういところで吹き出しそうにまでなっている。 「あのなぁ、イメルよ」 だがタイラント・イメルの友はさすがだった。呆れ返った顔で肩をすくめただけ。あるいは話し合いができているのか、謝罪されるような覚えがあるのかと思うほど。 「昔、俺は言ったよな? お前が考えて決めたことなら反対はしねぇ、お前を止めはしねぇってよ。いまでもその気持ちは変わってねぇよ」 「でも、さ」 「お前がなに言いだすか、正直ぜんっぜん見当がつかねぇんだけどな。でも、お前は考えて決めた、そんな顔してるぜ。だったら言いな。たぶん、許すぜ。気にすんな」 にやり、笑うエリナード。すぐそこで見ていたデニスはその笑みの見事さに心奪われる。つい、とファネルの目がデニスを向いた。 「ちょっと待て、ファネル。そんな小僧になんて目ぇしてやがる」 そのファネルの顎先をぐい、と指先で捉えてエリナードはファネルと顔を見合わせる。一瞬きょとんとした神人の子は、次いで苦笑した。 「そんな顔をしていたか」 「してた。ものすごい顔してた。もうなにこれ、嫉妬の塊?みてぇな顔してた」 「それは気づかなかったな」 淡々と言うからこそ、カレンが顔を覆っていた。気まずそうにイメルが目をそらす。デニス一人、わけがわからず呆然としていた。 「あー、師匠。続きはイメルさんの話が済んだ後、二人っきりでうち帰ってすることしながらやってください」 「おいこら待てガキ! お前、なに言ってっかわかってんだろうな!?」 「全然? 私、若い娘なんで。さっぱりですよ?」 「誰が若い娘だこの詐欺師め! いい加減にしろってんだ!」 「待て、エリナード。師弟喧嘩は後でやれ。俺の話が先だ」 「人気者だな、エリィ」 「まったくだ、大変だねぇ。我ながら」 「エリナード!」 イメルの完璧に調整された吟遊詩人の喉が絶叫を上げる。それにエリナードとファネルが声を上げて笑い、すぐにカレンも追随した。一人ついて行かれないのはまたしてもデニス。 「ちょっと、色々、無理かも」 ぽつりと呟いたのに、魔術師たちの眼差しが集まる。にやにやとした人の悪そうな目にデニスは顔を上げ、無理をしながら精一杯に胸をそらす。 「おう、その意気だその意気。頑張れよ、小僧」 からかうエリナードの声の中、叱咤をデニスは聞く。それにこそこくりとうなずけば、意外なほどに優しい目のエリナードがいた。 「話して、いい?」 疲れたよう肩を落とすイメルだったけれど、手はせっせと茶のおかわりを注いでいる。話が長くなる、と踏んだのだろうエリナードが手を一振りすれば菓子が現れた。 「――カレンが欲しい」 単刀直入なイメルの言葉に驚いたのはカレン本人。エリナードは続きがあるだろう、とばかりイメルを見ている。 「うん。あ、カレン、言っとくけど別に求婚とかじゃないからな!?」 「あー、びっくりした。さすがに正気を疑いますからね、それ」 「俺もだよ。さすがに君はちょっと……姪みたいなもんだし」 その言葉にカレンではなくエリナードが顔を赤らめた。覗き込んではちらりとファネルが笑う。また話がそれる、とばかり慌ててイメルが言葉を継いだ。 「違うんだ、そうじゃない。――俺の、後継者にカレンが欲しい」 「はい!?」 「ちょっと黙って、カレン。言いたいことは後で聞くから。いいかな、エリナード」 「つまりそれは、リィ・サイファの塔の管理者の跡継ぎとしてって意味だな、イメル? それがうちの師匠に義理立てしてってんなら俺は反対するぞ。前言撤回してなんだけどよ」 「馬鹿か、お前は。まぁ、昔はね、そんな風に思ったこともあった」 そっとイメルが眼差しを伏せた。フェリクスが、どれほどエリナードを愛し慈しんでいたか自分は知っている。何事もなかったならば、本当はエリナードこそを後継者に据えるつもりではなかっただろうか、フェリクスは。エリナードに力がないのならばともかく、力量も責任感も充分に備えている彼だ。けれどフェリクスは自分を管理者に指名した。 「フェリクス師の後継はお前だ、エリナード。フェリクス師が、前の管理者だったんだ。お前の血筋に戻すのが、もしかしたらフェリクス師の望みに適うかもしれない。あぁ、確かに昔はそんな風にも思ったさ」 「いまは?」 「思わないよ。師は、俺を選んだ。お前じゃなくて、俺を選んだ。その意味はたぶん二人とも知ってるよな、俺は言ったことないけどさ」 「まぁな」 「でも、それはそれとして、だ。エリナード。俺はカレンが欲しい。俺自身の弟子も含めてあちこち長い年月見てきたけど、俺が知る限り、カレンが一番相応しいんだ、次の管理者に」 「どう言う意味で?」 「魔道に対する情熱と真摯さ。ただひたすらに次に向かっていく目。カレンにとって生きることは魔道を歩くこと。だからだ」 その言葉は言われたカレンではなく、デニスに深く染み込む。生きることが、どういうことなのかほんの少し掴んだ、そんな気がして再びすり抜けて行く思い。けれど一度は掠めた感覚。決して忘れない、デニスは思う。 「お前なぁ、イメル。師匠の俺でもそこまで褒めたことねぇぞ? お前がするなよな」 「師匠のお前じゃ褒めにくいから俺がしてんだろ、馬鹿」 互いに照れたような顔をしてそっぽを向きあう。ファネルが茫然としたカレンに微笑む。祝うように、願うように。 |