「このガキが! いつまで愚図ついてやがる。とっとと降りて来い!」
 小屋の下から怒声が聞こえ、デニスは飛び上がる。そのままの勢いで木の下まで降り、幻聴ではないことを確かめた。
「……カレン師!」
 イーサウにいるはずのカレンが、なぜここにいる。はっとした。自分を責めるために違いないと。うつむくデニスの頭をむんずと掴んだカレンはそのままがくがく彼の頭を揺すぶった。
「お前なぁ。この前、水害があったんだって聞いたぞ?」
「……はい」
「だったら。お前はなんでこんなところで引きこもってるんだ、馬鹿!」
「でも!」
「だってもでももねぇんだっつーの。うちの師匠、何してる?」
「それは……その……」
 今になってカレンがどれほどエリナードを尊敬しているかデニスにはよくわかる。いささか奇妙な形、ではあったけれど。カレンのその口調、態度。いずれも彼女がエリナードから習い覚えたものに違いなかった。
「まぁ、あの人のことだから利かねぇ体振りまわして走りまわってんだろうさ。行くぞ、デニス」
「え……。師よ、その、どこに。その、僕は」
「いいから来い!」
 怒鳴られて、手を掴まれて引きずられる。まるで罪人の連行だった。それなのに、どうしてだろう。泣きそうなほど安堵してしまうのは。
 遅れがちなデニスの足を叱咤し、カレンはエリナードのいる場所を探していく。小屋にいないのは想像がついていた。むしろ、知っている。ならばどこだ、と考えるまでもなかった。向こうからの呼び出し。精神に軽く触れてきたものにカレンは微笑みそうになり、強いて表情を引き締めた。
「師匠。ここでしたか」
 デニスには精神での呼び出しがあったことを知らせるつもりのないカレンだ。だからあえてそんなことを言う。白々しいぞ、とばかりエリナードが笑っていた。
「エリナード師……」
 いつもの、湖の側だった。あの日、この湖からあれほどの水があふれかえってきたと言うのに今日は。清々しいほどにきらきらと陽の光を照り返す。
 その水辺にいたのはエリナードだけではなかった。ファネルがいるのは当然として、なぜかイメルまでいる。イメルはいま来たところなのだろう、少しばかり息が弾んでいた。
「師匠。このたびは私の弟子がご迷惑をおかけしました。大変申し訳ありませんでした」
 す、と。カレンが頭を下げていた。エリナードとイメルの前に立ち、デニスを横に立たせたまま、カレンだけが頭を下げた。慌てて倣うデニスだったけれど、意味がわからなかった。
「おい小僧」
「は、はい!」
「お前、なんでカレンが謝ってっか、わかってるか?」
 エリナードの言葉にどきりとした。いまわからない、と思ったことを易々と言い当てられた。イメルの目が、じっと自分を見ている。うつむこうとした顔は、ファネルに縫い止められてしまった。
「……わかりません」
「おっ前なぁ」
「そうではなくて! 僕が悪かったんです。僕のせいです。僕が、愚かだったんです。カレン師がこのようなことをなさる必要など! ――それが、わかりません」
 最後だけは小さくなってしまった声。それにちらりとカレンが笑みを浮かべたのにデニスは気づかない。
「カレンはお前の師匠だから、だ」
 ゆっくりとしたエリナードの声。これでわからなかったら本気で見捨ててくれる、と言わんばかりの声にデニスは唇を噛む。
「たとえ師であられようとも、僕の不始末です。師には――」
「ガキが生意気言ってんじゃねぇぞ。まだ頭に殻のっけたひよこっ子の分際で一人前に自分の責任、だ? 責任なんざお前が取れるかってんだ。ガキの責任ってなぁ師匠がとるもんなんだっつーの」
「俺らも散々取らせたもんねぇ。特にお前は」
「うっせぇ、イメル。黙ってろっての」
 ふん、と鼻を鳴らしてエリナードはそれでも笑う。小さな声で笑ってしまったのはファネル。緊張した場面と言うのに、悠長なものだと茶化した自分を棚に上げてイメルは呆れる。
 イメルは、エリナードが事実と違うことを言っているのを知っている。おそらくその場の誰もが。デニス以外の誰もが知っている。デニスの責任は、デニスのもの。その上で、師は弟子に手を差し伸べる。ただ、それだけだ。
「で、カレンよ。お前はこのお子様をどうするつもりだ」
「教育のしなおしっすね」
「それで済むか、え?」
 済むか、ではなく済ませるのか、とエリナードは聞いているようだった。噛み続けた唇から血が滲みそうになっているのを感じつつ、それでもデニスは緩められないでいる。怖かった。
「そこのお子様を預かった魔術師として、お前の師匠として、助言をしようか、カレン」
 すう、と気温が下がったようだった。イメルとファネルの顔色まで変わる。一人、カレンだけが当たり前の顔をしてその師を見つめていた。
「はい」
 きっぱりとうなずく態度こそをよしとするようエリナードが微笑む。が、ファネルは止めそうになった。そしてそのファネルを止めたのはイメル。
 ――無礼は詫びる。ファネル。エリナードは、何か企んでる。どうか見守って。
 神人の子らの心に、たとえその表層にとはいえ無断で触れる無礼を慮らなかったはずはない。その上でイメルはそうした。いまここにデニスがいるから。なにより、口で言っては間に合わない。むつりとしたファネルが目許を険しくさせたままうなずく。それを確かめたかのよう、エリナードがカレンに言葉を向けた。
「デニスの魔力を枯らせ」
 息を飲む音がいくつ聞こえたことだろう。デニスは自分のそれが聞こえなかった。エリナードの目が、カレンから自分へと移ってきて真っ直ぐに射抜くのを見ていた。けれど、見ていない。
「師匠、なに言ってんですかい?」
「あのな、カレン。この坊やはな、なに考えてんのか、それとも最悪なことになんにも考えてねぇのか。ただ偉い凄いって言われてぇがために魔法を手に掴みてぇ馬鹿だぜ。そんなのほっとけるか? いまのうちに芽を摘んどくのも魔術師の責任ってもんだぞ」
「それこそなに馬鹿なこと言ってんだ、あんたは。こんなガキがなに考えられるってんだかな。まだまだ甘ちゃんでろくなことしなくたって当たり前だっつーの。あんただって馬鹿なガキの時代があっただろうが!」
「あったぜ。あったから、言ってんだ。この坊やが立ち直るとは俺には思えねぇからよ。どうだ、イメル。リィ・サイファの塔の管理者」
「俺に振る? デニスはカレンの弟子だろ。俺のじゃないし。でもまぁ、発言権があるんだったら、俺もエリナードに賛成、かな」
 内心でイメルは盛大な文句を言っている。このような話になるのだったならば、できれば是非とも事前に打ち合わせをしてもらいたい、と。精神の接触などしていなくとも感じ取ったのだろうエリナードがにやりと笑った。
「イメルさんまでなに言うんですかい!? ファネル! まさかファネルまでそんなこと言わねぇですよね?」
「私は魔術師ではないからな。発言権がそもそもないぞ?」
 困り顔のままでファネルは微笑む。同時に、エリナードの意を覆す気はない、とも無言で告げる。ぎゅっとカレンが体の脇で拳を握ったのがデニスの目に映る。
「カレン師……もう、いいんです……」
 こんな自分のためにカレンがエリナードに逆らうことはない。そんなことは、してほしくなかった。こうして見れば、本当によくわかる。どれほどこの師弟の絆が強いものなのか、デニスにもひしひしと感じられる。それを、自分などのために断ち切ってよいはずはない。
「よくねぇわ!」
 が、カレンがあっさりとデニスの言を退けた。そして、ひょいと振られたその手には鮮やかな水の剣。デニスは息を飲むことも忘れて見惚れていた。
「フェリクス・エリナード。あんたが私の弟子を認めねぇってんなら否が応でも認めさせてやるわ。剣とりな」
「ちょ、ちょっと! カレン、無茶――」
「うっせぇ、イメル! 黙ってろ! 俺を呼び捨てにするたぁいい度胸だ。まして剣向けるだ? 百年早いわ!」
 あろうことか、ファネルに背を支えられる、と言ういつもの姿で座っていたエリナードが、立ち上がっていた。まさか、と思うデニスの前でエリナードは立ち上がる。
「……すごい」
 尋ねる、慌てる。そんなことをしなくともデニスには、いまはわかる。エリナードの体を、その魔法が支えているのが。そしてエリナードがカレン同様、手を振った。
「なんて――」
 言葉にならない。エリナードの手に現れたのは、氷の剣。カレンのそれとは違い、よく似た姿ながら氷だとまざまざとわかる。そしてその剣身に血のような赤い液体が通う。ぞっとするのも忘れてデニスは見惚れた。
「これで切り伏せられるのを名誉と思え、カレン」
「剣で命とられる馬鹿がいるか、こっちは魔術師だ! イメルさん、うちのガキを頼みます。ちょっとあぶねぇや」
「まぁ、そうだね。デニス、こっち来な。でも、俺の側にいても危ないと思うよ?」
「だったらファネル。頼みます。ガキに怪我させたくねぇし。いくら頭に血ぃ上った師匠でもてめぇの彼氏ぶった切るこたぁしねぇでしょうよ」
「――甘いぞ、カレン」
「この馬鹿はライソンに剣向けた馬鹿だぞ、カレン!?」
 二人して言っては顔を見合わせて笑う。デニスはいつの間にイメルの側に引き寄せられたのかもわからない。ただ茫然としていた。
「まぁ、とりあえず頼みますよ。守ってやってください」
 苦笑しつつファネルが片手を上げる、イメルがうなずく。にやり、エリナードが唇を歪めた。
「御託は済んだか。行くぜ」
「おうよ!」
 デニスがはっとした時にはエリナードとカレンの剣が火花を散らす。鮮やかすぎて、ありえない火花であるのになんと言う美しさか。そして信じられないことはまだある。魔法で補助しているとはいえ、エリナードが立つのみならず戦っていた、自らの足で立ち、駆けて。デニスは見た。魔法の美を、はじめて見た。役に立つも何もない、魔法そのものの美をはじめてその目で見た。




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