戦闘班の的確な避難誘導、そして魔術師たちの尽力によって幸いにも人的被害は出なかった。とはいえ、浸水してしまった家はいくらでもあったし、何より道路はどろどろだ。それの復旧作業にも国中が忙しい。
 その中に、デニスはいなかった。ただ一人、自分にあてがわれた小屋の中にいる。明かりもつけず、一日中膝を抱えて座っていた。
 表向きは、謹慎だった。伝令の役割を果たさず自ら勝手気ままに動いて被害をもたらしかけた、と言う理由によってエリナードの処罰を待っていることになっている。
「……違う」
 デニスは膝に顔を埋めるように呟いた。エリナードの処罰待ち、という言葉すら言い訳だと、理解してしまっていた。
 デニスはただ、動けなかった。あの瞬間、イメルがもしも助けに来てくれなかったならば、自分のしたことがきっかけでたくさんの人命が失われていた。間違いなく。
 数日前に見たはずの、それなのに遠く、けれど瞼に鮮やかなイメルの水の竜。水系魔術師も風系魔術師も何もない。ただひたすらに強い、としか言えない。
「イメル師が――。そんな。でも」
 素晴らしい魔術師だ、とは思っていた、いままでも。リィ・サイファの塔の現・管理者、イメル。それはリィ・ウォーロックの直系魔術師の長、と言うことだ。
 ただ、それしかわかっていなかった。あるいは、ただ肩書きが素晴らしい、と思っていた、デニスは。あの、どことなくぼんやりとした大らかなイメルがあれほどの技量を持っているとは。
「敵うとか、敵わないとか、そんなんじゃないよ、あれ」
 自分はとても到達できない域にある魔術師。イメルがそうであるのならば、エリナードも同じだ、とデニスはようやく気づく。
 言葉の上で、あるいはただ聞いただけの偉大な魔術師ではなく、いまここに生きている雲の上の魔術師。
 その彼らに大言壮語をしていた自分が恥ずかしい、否。役に立つのなんのと言いつつ、結局は人を害しかねなかった考えなしの自分。天候を操ろうとするなど、いま考えてみれば確かにこれ以上ない無茶無謀。けれど自分は。
「……褒められたかった」
 たぶん。きっとそうなのだろうとデニスは思う。エリナードが湖で何をしているか、自分は知ろうとしなかった。イメルがどう動いているのかも、考えなかった。自分の目の前に迫ってきた水だけを見ていた。そしてこれをどうにかすれば、きっと自分は師たちに褒めてもらえる。そして人々から感謝される。
「ありがとうって、すごいって」
 言われたかっただけだと、気づいてしまった。デニスは膝に埋めていた顔をより一層強く押しつける。そのまま埋もれてしまえと言わんばかりに。
「――僕には」
 無理だ。魔術師になるのは、無理だと、心底から思い知った。魔法を使うことはいまでもできる。このあともたぶん、できる。それでも、無理だと思ってしまった。
「責任が、怖い」
 自分が行使した魔法が及ぼすその結果、何が起こるのかを考えることをいままでしてこなかった。魔法とは、ただ魔法であるとしか思っていなかった。道具である魔法を使って、華やかに人助けをしてみなから感謝される自分、というものしか思い描いていなかった、とデニスはここにきて思い知った。
「エリナード師は」
 ずっとそれを言っていたのだ、とようやく理解した。魔法を何のために学ぶのか、問われた意味がやっとわかる。人助けがしたいだけならば魔法を使わないで自力で便利屋でもしろ、と言われた意味がよくわかった。
「魔法は、道具じゃない。道具だけど、道具じゃない」
 常人には扱うことのできない強大な力、それが魔法だとしか思っていなかったデニスだった。エリナードは火も魔法も同じ、と言った。道具であるに違いはないと言った。それに反発を覚えていた過去の自分。
「意味を、考えてなかったんだ。馬鹿だ、僕は」
 火も魔法も同じように、危険な力。行く末を考えずに使えば被害をもたらす力。それでも、制御はできる。それをするのが技術であり、それを考えるのが行使者の責任だとエリナードは言っていたのだと今にしてわかった。
「無理だ……怖い……」
 自分の背中に庇っていた小さな子供たちの姿がデニスの脳裏に浮かんで消える。ただ栄耀栄華を求める浮ついた気分で、自分は彼らを犠牲にしかねなかったのだと。
 あの時の若い母親の言葉に従えばよかった。子守くらいの役には充分に立てたはずなのに。泣きだす子供たちに魔法を見せて、あの歌祭りの晩のよう、笑わせることだけはできたかもしれないのに。
「馬鹿な見栄で――そんなの正しい魔法の使い方じゃないって。僕は……」
 正しい使い方も間違った使い方もない。あるのは良い結果と悪い結果だ。自分は何をしても後者にしかなりようがない道を歩いていた、とデニスは思う。
「エリナード師のあれは、こう言うことだったんだ……」
 お前の道はすぐそこで崖崩れを起こしている、と彼は言った。違う道であるのはかまわない、魔道はそれぞれが自分で歩くもの。けれどお前の道は続いていない、彼は言った。
 馬鹿なことを言っている、と内心で嘲笑う気持ちがなかっただろうか、自分は。偉大な英雄と言われた人であっても、変わってしまったのかもしれない、ここアリルカで新しい恋人と、ライソンを忘れて過ごすうちに彼は怠惰になったのかもしれない、そんな風に思ったことが微塵もないと言い切れるだろうか。デニスはぞくりと身震いする。
「馬鹿は、僕だ」
 エリナードは、真に偉大だと今ならばわかる。伝説も歌も何も関係ない。イメルも同じ。肩書きも昔話も関係ない。
「そこに生きている、生身の魔術師……」
 その凄みを我が身で味わったデニス。自信など湧きようもなく、ただひたすらに怖かった。彼らと同じ道を、あるいはその背後を歩くことができるかと内心に問えば無理だと即答せざるを得ない恐怖。デニスは膝を抱えたまま、がたがたと震えていた。
 一方そのころ。エリナードもイメルも忙しくしていた。エリナードはファネルに抱えられたままあちらこちらと動き回り、それのみか二人揃って転移までしながら仕事を片付ける始末。イメルも同様。
「エリナード、ちょっと休め。すごい顔してるぞ、お前」
「鏡見てから言え。お前が血色よかったら俺はきっちり休んでやるっつーの。だいたい、こりゃ半分くらいは俺の不始末だからよ」
「お前のじゃなくてデニスの、だろ」
「預かってんのは俺だからな。監督責任てやつだ」
 ファネルの腕に抱かれたままエリナードは肩をすくめる。当のファネルはあの雨の日以来、眉間に皺を寄せたままだった。それに目を留めたエリナードが指先でちょん、とつつく。
「皺んなるぜ? せっかくの美人さんがもったいねぇよ」
「誰のせいだ?」
「俺のせいでもイメルのせいでもねぇってのは理解済み。馬鹿なガキがしでかしたことだ。尻拭いは大人の責任ってな」
「まぁ、それにさー。弟子がなんかしでかして大事件、なんてのは星花宮の伝統みたいなもんだったしねー」
 元々好感情を持っていないところに来て、エリナードが過労とも言えるほど働き詰めの結果を作ったデニスだ。ファネルが渋い顔をするのも当然というもの。そしてイメルは友人として、エリナードが頭を抱えつつもデニスを本当のところで見放してはいないことに気づいている。にこりと笑えばエリナードが肩をすくめる。それにもファネルは怖い顔のままだった。
「お前は、あの子供をどうするつもりだ」
 数日の間避けてきた話題だった。ファネルはイメルがいるのをよい機会だ、とばかりエリナードを問い詰める。その上、乾いたばかりの草地にエリナードを下ろして座らせた。動こうと思えばどうにかなるエリナードではある。が、ファネルの気持ちを慮って諦めて相談の体勢に入った。それを見てイメルも彼の隣に腰を下ろし、どうせならばと三人分の茶を用意する。
「こういうとき、魔術師って便利だと思うよな。いつでもどこでもすぐ茶道具が手に入る」
 にやりと笑って熱い茶を二人に手渡せばエリナードが片目をつぶる。ファネルは黙ったままだった。それでも茶に口はつけるからイメルに対して隔意はない、と言うことだろう。
「それで、エリィ」
 問い詰めているのか睦言なのか、それが問題だな、などとイメルは思う。ファネルがエリナードを呼ぶ声はどこをどう切ってもやはり、甘い。呼ばれた当人ではないイメルが居心地悪くなるほど。が、本人は苦笑していた。
「そりゃ、俺がどうこうする問題じゃねぇだろ? 責任とるのはデニス坊やの仕事だぜ。そもそも責任がとれねぇほどガキじゃねぇんだからよ」
「ならばお前は何をしている。子供の不始末、と言って……」
「だから、そりゃ師匠筋だから当然ってやつ。ここにカレンがいたら弟子の不始末は師匠の責任ってあっちこっち頭下げてまわるぜ? 俺はカレンの師匠だからよ、カレンの代わりにやってるようなもんだ」
「それにさ、ファネル。デニスがどうするかは、デニス本人にしか決められないんだよ」
「だが」
「ここで立ち止まって、道を引き返すのも一つ。ここから乗り越えて、頭使って考えて、立ち直って魔道を歩くのも、一つ」
「ずいぶんと後のほうが大変そうだと思うがな、イメル」
「それはそうだよ。魔道を歩くってのは並大抵の覚悟じゃできないからね。その辺、いまは学院でどうなってんのかなぁ。エリナード、知ってる?」
「あのガキ見てりゃわかんだろ。ずいぶんぬるい教え方してるみてぇだな。師匠が迷惑すんだからよ、きっちり振り落としとけってんだ」
 生半な覚悟で務まるものではない、魔術師は。学問として学ぶか、あるいはそこから魔術師として魔道を進むのか。それを振り分ける機能がかつてイーサウの魔法学院にはあった。いまはどうやら基準が緩くなっているらしい。それはそれで頭の痛いことだと二人は顔を顰める。
「それより、まずはデニスだ。お前たちは本人の、と言うがな。当のデニスは小屋に引きこもったまま出てくる気もない。被害の回復をする気も、お前たちを手伝う気概もない」
「お子様は絶賛落ち込み中なんだっつーの。そうせっつくなよ。どん底まで落ち込んでようやく見えてくるもんてのもあるんだぜ。――とはいえ、そろそろ活を入れるかな」
「エリナード?」
 イメルの不思議そうな声音にエリナードはにやりと笑った。




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