集会所には、避難してきた人がいっぱいだった。小さな子供たちや、赤ん坊を抱いた母親に老人たち。若い働き手はみな戦闘班と共に土嚢を積んだりと忙しいからここにはいない。 「なんで僕が」 扉の側に立ち、デニスは呟く。万が一のため、扉は開いたままだ。本当ならば閉めておいた方がいい。が、デニスはこれでも一応は伝令だ。すぐさま飛びだせる体勢だけは作っておくべきだろう、との判断だった。いまのところそんなことにはなりそうにもないのだけれど。 「あの、デニス君って言ったわよね?」 若い母親だった。振り返れば赤ん坊を抱いて、腰には小さな女の子が縋りついている。いずれも彼女の子供だろう。 「はい。なんですか」 首をかしげてしまうのは致し方ないこと、とデニスは思う。自分は魔術師で、若い母親の相手などしたことがない。 「あのね、うちの子もそうだけど、他の子もみんな怖がってるの」 彼女は集会所の中をぐるりと見回す。周囲はぐずって泣く子供でいっぱいだった。それも当たり前だった。慣れた家から引き離され、母親は殺気立っている。子供が怯えないはずがない。 「えぇ、そうですね」 だがデニスにはそれが、わからない。子供が泣くのは、あるいは当然だ程度にしか思っていない。ちらり、母親が苦笑した。 「だからね、何かちょっとしたことでいいの。魔法を見せてやってくれないかしら?」 「え――?」 「だって君、魔法の勉強してるんでしょう? なにか、できるよね」 それはできる。デニスは思う。何かどころではない、色々とできる。だがなぜ自分が。ここにいるのは子守のためではないし、そもそも魔法とはそのような使い方をするものではないはずだ。 「僕は――」 できないとは言いたくない。が、やりたくないとは言ってはいけない気がした。迷うデニスの視線がふと外へと逃れる。はっとした。 「いえ、それより!」 先ほどまで靴が濡れる程度だった水が、あっという間にあふれはじめている。いまはもう足の甲を洗うほど。このままでは集会所の中に水が入ってきてしまうだろう。 「下がってください!」 母親を中へと下がらせ、デニスはほっとしていた、子守などに魔法を使えと言われないで済むと。明確ではなかった、だがほんの少しは確かにそう思った。 「このままじゃ」 水が迫ってくるだろう。どうしたらいいのか。迷いは一瞬だった。本来ならば、デニスの仕事はここでディアナについた魔術師に連絡をすること、だった。そこからイメルに指示を仰ぐべきだった。 だがデニスはきっぱりと手を掲げる。一応は、と閉めた扉を背に守り、デニスは呪文の詠唱にかかる。さすがに緊張していた。さほど何度も使ったことがある呪文ではない。が、確かに自分にはできる。その意思だけで詠唱を続ける。 背中に庇った集会所には、大勢の人がいる。自分がここで彼らを守らず誰がする。口許には誇りに満ちた微笑が浮かぶ。 「――我が手に従い」 最後の言葉を言いきろうとしたその瞬間、デニスは突然の風に吹き飛ばされた。がつん、と背中から扉にあたる。酷く痛んで、けれど呪文だけは維持したまま。またも唱えようとしたその喉が締め付けられた。 「君は何をしてるんだ!」 はっとして声の主を探した。すぐさま見つかる。雨風の中、走り込んでくる人影、イメル。ようやく気づいた、呪文の邪魔をしたあの風は、彼の魔法だったと。 「イメル師! 師こそ、何をなさるのですか!? 危ないのが、見ておわかりにならないはずがない! 水がこんなに増えてきて――!」 「君は伝令だ。君は連絡をするのが務めだ。勝手な真似して、何するつもりだった」 打ち付けた背中をさすりつつ立ち上がろうとするデニスにイメルは一瞥をくれたまま手も貸さない。目は暴風雨となりつつあるものに向けられていた。 「見てごらん。君が不用意に魔法を使おうとするから、その余波で酷くなった」 「……え?」 「君は何をしようとした? 雲を動かし、雨ごとどこかに移動させようとした。そうだね? どこか別の場所にとりあえず雨雲を放りだせばいいって、魔法を使おうとした。それがこのザマだ」 言い捨ててイメルはゆったりとした詠唱をした。繊細極まりない、デニスにとってはそのようなものではどうあがいても静まりそうにもない風をなだめる声。だが現にほんの少し、風は弱まる。 「ですが、イメル師。そんなもので――」 「天気を操る魔法はものすごく細やかな気遣いが必要なもの。君にできるの。あぁ、雲を動かすだけ、だったらできるさ、そりゃね。でも被害を広げず、他に被害をもたらさず、それができるの。それとも、ここじゃないどこかで水害が起きてもそんなこと知らないってこと?」 雨に濡れ、風に髪を嬲らせてイメルが振り返る。その厳しい眼差しにデニスは声もなかった。 「悪い、エリナード。俺はこっちでやらなきゃならないことができた」 呟くイメルにデニスは不思議そうな顔をする。エリナードはどこかにいる。魔術師同士ならば精神の接触で会話するはず。それなのになぜ声に出す必要が、と。 「これでもまだわからないの、君は。いまエリナードは、接触ができないくらい緊張してる。集中してる。彼の側に声を届けてるけど、たぶんエリナードには聞こえていない。ファネルが聞いてると思うから、いいけどね」 「エリナード師は、いったい何を」 「――了解した。手間をかけてすまない、と伝言だ」 どこからともなくファネルの声が聞こえてデニスは飛び上がりそうになる。苦笑するイメルに、それはきっぱりと無視され、イメルの眼差しが変わった。 「さあ、君がめちゃくちゃにしたこのあたりの雲をなんとかしようか」 「まだ、何もしてません! その前にイメル師が!」 「魔法って言うのはね、発動する前段階で外界に影響を与えるものなんだ。そんなこと、学院を出た君にどうしてわざわざ言わなきゃならないの?」 「あ……」 「それと、エリナードは湖で水を食い止めてるよ。この町は、湖の下にあるからね、あれがあふれると全部水没しかねないから」 魔法回路を作り、森の中に点在する泉に派遣した魔術師の元までゆっくりと少しずつ流している、とイメルは言う。膨大な水量を、それほど緩慢かつ完全に制御するのはエリナードにしかできないと。それを各魔術師が細心の注意を払って付近の川に移動させている、イメルはそう言う。川の水量すら把握し魔術師たちを指揮する、エリナード以外に誰ができると言うのか。 「君はさっきエリナードが泉に急げって言った意味、わかってないね。エリナードは、転移をするなって言ったんだ、自力で走って行けって言ったんだ。なぜか。それだけエリナードは繊細な魔法制御をしてる。魔術師が転移する衝撃で壊れかねないほどの精密作業をしてる。それを、君は壊しそうになったんだからね」 「僕は――」 「そんなことやってないなんて言わないように。君は、エリナードがどれほどのことをしてるか、感じ取ろうともしなかった。感覚すればすぐにわかったはずだよ、君だって魔法を習ってるんだから。それをせず周囲の状況も考えないで雨雲を動かすなんて荒業をしかけたおかげで、エリナードはいま苦労してる、よけいな苦労をね。幸い、壊滅的な被害にはまだなってないけど」 小さな溜息をつく、イメルがそっと魔法を発動させる。それすらもエリナードの負担になる、と言いたげに。 「僕は、ここの人たちを守ろうと……」 「できもしないことをしようとして、君はアリルカの人たちを殺しそうになったんだってこと、もっと真剣に考えるように」 「でも!」 「善意があったんだから、結果は仕方ない、なんて言わないよね、まさかね?」 鼻で笑ったイメルが片目だけでデニスを見やった。その目に浮かぶ紛れもない冷笑にデニスは胆が冷える。 「魔術師は怖がられるんだから、だからこそ人の役に立たなきゃって君はエリナードに言ったそうだけど。だったら君がした結果でアリルカの人たちが死ぬようなことがあったら、魔術師はどうなると思うの。怖がられて、排斥されかねない、とか考えなかったの。それとも、頑張ったんだからしょうがないって言うの」 「アリルカは……でも……ここは……」 デニスのうわ言めいた言葉にイメルは反応しない。それより魔法の制御に忙しかった。デニスの目には何もしていないように見えるだろう、それほど細かいことを今イメルはしている。そっと風にかすかな魔法を当てる。何度も繰り返すうち、ようやく向きがわずかに変わる。その繰り返し。デニスがしでかしたことを修正するには、イメルほどの魔術師であっても困難を伴う。 「魔法ってね、デニス。ただ大きな力を振り回せばいいってものじゃないんだよ。知らなかったの」 呟けば、再起不能にまで叩きのめされたデニスの返答は返ってこない。むしろ、ぐだぐだと言い訳を何度も聞かされるよりはいいとばかりイメルも相手にしなかった、それまでは。 「悪い、イメル。制御しきれねぇ、うちのガキの不始末だ。そいつを魔力庫にしてでも食い止めろ。頼んだぜ」 はっとデニスが顔を上げた。その目に突如として水が映った。道幅一杯に、水が押し寄せてくる。ありえなかった。洪水が、建物をよけて突進してくるなど。 「デニス、手伝え!」 「え?」 「魔力だけこっちに寄越せ、あとは俺がやる!」 イメルの緊迫した声、咄嗟にデニスは従った。それだけは、かろうじてできた。イメルが編み上げる魔法に目を見張り、息もつけない。その体から、魔力が搾り取られて行った。くらりと目の前が揺らいで、なんとか集会所の壁に手を添えて立ち続ける。まだまだ魔力が必要だった。 「留まり来たれ大気の水、大地の水、異界の水、水ならぬ水――」 デニスの耳にぼんやりとイメルの声が忍び込む。そしてようやく覚醒する。見開いた目が驚愕に揺れていた。 「水系、最大呪文……」 馬鹿な、と思う。イメルは風の魔術師。彼になぜ、と思う。同時に、イメルはリィ・サイファの塔の管理者、そして魔術師同盟のかつての四導師の一人。 「――集まりて我が槍となれ。リュリルトゥ<水竜槍>」 迫ってきた水の壁が、集会所の寸前で形を変じた。まるで竜のように。息を飲むデニスの目の前、水の竜は鮮やかに集会所を避け、空を舞い、いずこかへと飛び去る。二人に襲いかかる豪雨、否、竜の残滓。激しい水飛沫に打たれたイメルが地に膝をついた。 |