エリナードは言った、なぜ魔術師になりたいのか、と。ただ人の役に立ちたいだけならば便利屋でもやれ、とも言った。 「意味が……」 まだ、わからなかったデニスだった。魔術師になって、人の役に立つ。それはデニスにとって不可分のものであって、分けて考えるようなものではない。そもそも分けて考えなければならないものだと思ったことがなかった、ここ、アリルカに来るまでは。エリナードに叱られるまでは。 「違う――」 デニスの顔がさっと青ざめた。滞在中、使うといいとイメルに言われた樹上の小屋の木の根元、エリナードの元にもいかず座り込む彼だった。 「師匠は」 カレンはもしかしたらずっとこのことを言っていたのかもしれない。自分は聞き流していたのかもしれない。なにを馬鹿なことを言っているのだろうと気に留めても来なかった、そんな気がした。だからこそ、覚えていない。 青くなるデニスは、そのぶん少しは成長したのだろう。イメルが見れば安堵するはずだった。手に負えない我儘な子供、としか思っていないイメルだ。だがエリナードならば違う。いまだデニスを信用できないでいる。 どことなく、デニス本人もそれを感じなくもなかった。嘲笑はされていない。けれど冷笑はされている。そんな風に感じることが多々ある。自分はカレンの弟子なのだ、と時には言いたくなってしまう。 「師匠は、僕を選んで弟子にしてくれたのに」 イーサウの魔法学院を出たからと言って、誰かの弟子にみながなれる、というものでもなかった。教導する気のある師範級の魔術師が弟子に取る、と言ってくれなければ話にならない。そしてデニスは最低限、そこは越えている。カレンが弟子に、と言ってくれた。 「でも、どうしてなんだろう」 今になって、そこを不思議に思うようになったデニスだった。カレンに選ばれたときには、当然だと思った。自分は立派な魔術師になって人の役に立つのだ、そんな正しい理念を持った自分が魔術師になれないはずがない。どこかでそう思っていた。 けれどエリナードはそれは魔術師の正しい姿では、ない、と言う。魔術師はただ魔法を進めて行きたいだけだと。他人のため、誰かのため、そう考える魔術師など普通はいないと言う。もっとも、いて悪い、とも言っていないのだけれど。 「だったら僕は」 そんな魔術師になる。――そう言いきれない自分がいる。そんな魔術師になりたい、できれば、なれればいい。かろうじて、いまはそう思う。 決して誰かの役に立つことが悪いことではないはずだ。エリナードもそれ自体は否定していない。そしてデニスはまだ気づいていない。自分の力で歩いて行く、進んでいく、そのための基準が他者の言葉によって揺らいでいるとは。わかって揺らしているエリナードを意地が悪いとは言えないだろう。 結局、あれから数日というもの自分の小屋の側で今まで習い覚えたことを復習したり、ただじっと座って考えていたりして過ごしている。エリナードの元には一日に一度顔を出すけれど、ずっとそこにいろ、とは言われない。 「言ってくれれば……」 なんでもするのに。イメルの手伝いをしてこいでもいい、誰かの何かをして来いでもかまわない。言ってくれれば、とデニスは思う。けれど言われないから、何をしていいかわからないでいた。悶々と過ごしているのは、あるいは天気のせいもあるかもしれない。ずっと雨続きだった。木の根方にいればずぶ濡れになる、と言うことはないのだけれど、それでも気は塞ぐ。 「さぁ、今日はどうしようかな」 空を見上げれば、やはりひどい雨。この調子では今日あたりは木陰にいてもびしょ濡れになってしまうかもしれない。それでも立ち上がろうとしたデニスの元、若い魔術師が飛んできた。 「イメル師が呼んでる。早く!」 「え――?」 「いいから、早く! 広場だ!」 どうやら伝令らしい。慌てて広場に走り出そうとしたデニスの頭上、大きな雨粒が当たった。あっという間に衣服がしとどに濡れる。 駆けつけた広場には、大勢の魔術師がいた。ここは魔術師の多い国、そう言ったエリナードの言葉が実感できる。 「来たね」 真剣な顔をしたイメルだった。見ればその向こう、ファネルに抱きかかえられたエリナードもいる。全員が雨に濡れたまま、意にも介していなかった。それが事態の深刻さを語っているようでデニスは青ざめる。 「エリナード師、いったい――」 何事だ、問いかけようとすれば腕の一振りで黙れとたしなめられた。唇を引き締めるデニスを確かめたよう、イメルが言葉を発する。他の全員はじっとイメルの言葉を待っていた。 「湖が、決壊しそうなんだ」 わかっているだろう、とでも言うようなイメルの声。魔術師たちが総じてうなずく。さっと別れては別の塊を作っていく魔術師たち。みなが己のすべきことを理解している証のようでデニスは戸惑う。 「そろそろ真面目に用水路づくりを考えなきゃねって言ってたところでこの雨だ。ちょっと持ちそうにない。あぁ、ディアナ。ここだよ!」 さっとイメルが手を上げた。見ればほっそりとした美しい女性が歩いてくるところ。が、デニスは目を疑う。彼女は腰に剣を下げている。それも使い込んだのが一目瞭然の剣を。 「戦闘班にできることがあるはずだと思って、ディアナに来ていただきました」 ふ、と口を挟んだのは神人の子。誰かがエラルダ、と呼んだ。デニスにはファネル以外の神人の子の区別がつかない。と言うより、エリナードを抱いているから区別がつくのであって、ファネルでさえ神人の子らの中に入ってしまうと探すのに一苦労する。だからエラルダ、と呼ばれた神人の子がアリルカの束ねをしている、と言われてもぴんとはこなかった。 「助かるよ、エラルダ。さすがだね。ディアナ、戦闘班を借りてもいいかな?」 「内容にもよりますね。我々はこれから避難誘導をする予定なので」 「それそれ! それも頼みたかったんだ、って余計なお世話か。あと、何人かは貸してもらえるとありがたい。伝令がいると思うんだ」 「えぇ、それならば。こちらも魔術師を貸してもらえればいいので。それで相殺、と言うことで」 にこりと笑うディアナの、たぶんそれは冗談だったのだろう。イメルが笑っていたし、エリナードも苦笑している。デニスはふと気づく。ファネルが戦闘班の長の座を譲った相手、とは彼女なのだと。 「んじゃ、いいな? 水系は俺の指揮下に入れ。各人、森ん中の泉に急げ。あとは現場でわかるようにしとく。配置についたらイメルに連絡しろ。イメル、中継は頼んだぜ」 「あいよ。全員が配置についたら知らせる。それでいいな?」 「おうよ。んじゃ、ディアナ、悪いがファネル借りるぜ」 「かまいませんよ。ファネルはあなた専属だと思ってますから」 「一応は悪いと思っちゃいるんだぜ?」 肩をすくめるエリナードに気にするな、とディアナは笑う。ファネルが改めてエリナードを抱きなおす。 「待ってください、エリナード師!」 どこかに行こうとするエリナードを、慌ててデニスは止めた。このまま置いて行かれてはなにがなんだかわからない。泉に行け、とはどういうことなのだろうか。 「あの、泉とは! 僕はどこに行って何をすればいいんでしょうか」 「お前は水系じゃねぇだろうが。まだそれ以下のガキっつーか、それ以前だな。ひよっこ? お前は俺の下じゃなくってイメルの下。使い走りでもしてろ。急いでんだ、これでも」 言い捨ててエリナードは行ってしまう。ファネルは一言もなかった。本当に、急いでいるらしい。湖が決壊しそうだ、と言っていたから慌てているのは当然かもしれない。そう思うものの実感はなかった。 「デニス」 「あ、はい……」 「ぼーっとしてるんだったらディアナのところで使い走りして」 「イメル? ぼけっとしたのはうちでも要らないんですよ?」 「あ、だよな。悪い」 にやりとしたイメルだった。ディアナには質の悪い冗談とわかったけれどデニスにはわからなかったらしい。ぎゅっと唇を噛む仕種が少しばかり哀れだった。 そうこうしていくうちに、エリナードの指揮下に入った魔術師たちが走っていく。どうして転移しないのだろう、デニスはぼんやりそんなことを思う。急いでいるのならば、そのほうがずっと確実なのに、と。 「だから、デニス!」 「あ、はい! すみません! 何をしたらいいでしょうか、イメル師!」 「君の大好きな、人の役に立つってやつだ。頑張ってね」 「……え?」 「精神の接触程度はできないとは言わせないよ? だから君は伝令だ。ディアナ、五六人でいいかな?」 「充分です。それぞれ配置につけるのはこちらで」 「任せた」 力強く言ってイメルは数人の名前を呼ぶ。呼びつけられたみながしっかりとディアナに向かって頭を下げる。一人デニスだけが不可解だった。むしろ、内心では不服だった。 「伝令、ですか?」 早く来い、と言われてディアナに従う。が、納得できない。自分は未熟とはいえ魔術師だ。何かできることがあるはず。それなのにたかが伝令とは。 「どこで何が起こっているか、それを知るのがどれほど重要なことなのかわからないの? ちゃんと伝えてね」 ディアナの側につく若い魔術師が、伝令の束ねをする、と言う。そこからディアナは情報を得てイメルに指示を出し、あるいは戦闘班の動きを決める。デニスにもそれはわかるが、なぜ自分がとはやはり思う。 「君はこのあたりを頼むわね」 さっと手を一振りしてディアナは行ってしまった。一人残されたデニスは意味がわからない。周囲を見回せば、すでに避難してきた人たちでいっぱいだった。 「こんなとこ、僕にすることなんか何もないじゃないか」 呟きは、幸いに誰にも届かない。あるいは早く届いてしまったほうがよかったのかもしれない。後々のことを考えれば。 刻々と雨が酷くなってきた。建物の中にいるはずの人々も、時折窓から顔を出して外を窺う。心配そうなその顔に、デニスはけれど何もできない。あるいはしようとしない。 「だって」 この人たちは魔術師を必要だとは言っていない。デニスは内心にそう呟いていた。 |