デニスがエリナードの家を訪れると、今日は違うところへ行く、と言う。何か新しい魔法を教えてもらえるのだろうか、胸を高鳴らせるデニスを見てとってエリナードは内心で溜息をつく。彼を抱いたファネルも小さく苦笑していた。
「ほい、悪いな」
「気にするな。私はそのあたりにいる――が、邪魔か?」
「いいや、平気だ。別に見えるとこにいてもいいぜ。それくらいで集中が乱れるようなやわな修行はしてねぇよ」
 ファネルに下ろされたままにやりと笑えば彼もまた微笑む。フェリクスがどれほど弟子を思いやって修行を繰り返させたのか、わからないファネルではなかった。
「エリナード師、ここはなんでしょうか」
 いつもと違うところ、などというものだからまったく別の景色を予想していたらしい、デニスは。だがここは普段の湖のほとりでこそなかったけれども同じ水場だ。
 アリルカは森の国。国を囲む鬱蒼とした森にはいくらでも泉が湧き出る。ほとんどが地下で湖と繋がっている、とエリナードは知っていた。その泉の一つにいま、三人はいる。
「見りゃわかんだろ、泉だ泉」
 その意味を聞いているのだ、と言えるほどデニスの胆が太かったならば自分はこれほど苦労しないのではないだろうか、とエリナードは思う。自分の修業時代を思えば少しフェリクスは楽をしていたのではないかと疑ってしまうほど。
「では、そのあたりにいる」
 用があれば声をかけろ、と言いおいてファネルは姿を消した。かまわない、と言っているのに気を使ってくれたらしい。
「エリナード師、彼はどこに行ったのですか?」
「自分の剣の練習に行ったんだろ」
「え?」
「あのな、ファネルは戦闘班にいるの。前は班長やってたんだけどよ、いまはダチの一人に班長の役は譲った。なんでかわかるか」
「その……たとえば長く務めていたから、ですか?」
「そりゃなげぇけどよ、独立戦の時からなんだからよ。問題はそこじゃねぇだろ。だったらもう一歩答えに近づけてやろう。ファネルが班長を譲ったのは、俺と付き合いだしてからだ」
「あ! わかりました!」
 絶対にわかっていないだろうな、とエリナードは浮かびかけた苦笑を押しとどめる。案の定だった。
「エリナード師は偉大な、力ある魔術師でいらっしゃいます。その師の傍らに、戦力のある者がいるのはよくない、そう言うことなのでしょう?」
「お前、馬鹿?」
 どうだ、と言わんばかりに胸を張ったデニスの言葉が終わるや否やエリナードは一刀両断する。唖然としたデニスに憐れみでしかない眼差しを向けた。
「別に班長譲ったからってファネルが戦えなくなるわけじゃないだろ。いまだって立派に戦力だっつーの。そもそもアリルカは魔術師が多い国なんだ、万が一の戦闘の時にゃ魔術師には物理攻撃手がつくのが基本だっての」
 だから自分と言う魔術師の側にファネルと言う戦力があるのを厭われるはずがない、むしろ歓迎されることだとエリナードは言う。
「わかんねぇのか、ほんとに? 俺の足だっての。俺は自力ではほとんど動けねぇ。まぁ、短時間ならなんとかできなくもねぇけどよ。だからなんかあったらファネルは俺に付き切りになる。戦闘班の長が、それじゃダメだろ? なんかの時に体張って戦うのが役目なんだからよ」
 それができない、と判断した時点でファネルは班長の座を降りた。そして近年、力をつけていると楽しみにしていた若い友人に後を頼んだ。そのことをエリナードは後で知ってずいぶん驚いたものだったけれど。
「戦う……」
「なんかの時にゃ俺だって出るぜ? つか、出たことがあるしな」
「え!?」
「その体で、とか思っただろ。俺は魔術師だ。座ってたって魔法は使えんだっての。遠距離支援だったら今でも充分だぜ」
 にやりと笑ってエリナードは泉に向けて手を差し伸べる。まるで水のほうから彼を慕うよう、ふわりと漂ってきた、デニスの目にはそのようにも見えていた。
「エリナード師は、今日は何をなさるのでしょうか」
 見て覚えろ、直接に教えることはしない。最初のころに断言された。実際、呪文がどうのなどは決して教えてくれない。その分と言うわけでもないのだろうけれど、魔法は頻繁に見せてはくれている。もっとも、デニスにとっては取るに足らないとしか思えないような魔法ばかりだったのだけれど。
「んー、研究? ミスティんとこの一派が昔、火系魔法具で大火炉を作ったんだけどよ、水でおんなじことができねぇかってなぁ。けっこう長いこと色々試してんだけどな、これが難しいんだわ」
「大火炉、ですか?」
「お前、公共浴場使ってんだろ? あれの熱源がそれだ」
 聞かされてデニスは仰け反るかと思った。唖然としてエリナードを見る。彼の両手の間、水がまるで細工物のようにこねまわされていた。
「あの……師よ。魔法は……そのようなものに、使うものなのでしょうか」
「いいんじゃね? どうせ大火炉だって偶々作っただけだし。できたもんを有効利用しただけだろ」
「有効利用って! だって、だったらなんのために作ったんでしょうか?」
「だから、偶々。なんのためもかんのためもねぇよ。研究中にやってみたらできたっつか、魔法具の大型化を研究しててやってみたってとこだろ」
「なんのための研究なんでしょうか」
「そりゃ研究のための研究、だな」
「そんな……だって。使うあてがない魔法の研究なんて、なんの意味もないじゃないですか」
「お前はそうなのかもな。俺は違うけど。ミスティたちもイメルも違う、俺の師匠もカレンも違うな」
「え……」
 苛立ったのだろうか、エリナードの両手の間の水が鋭く長く伸びて行く。はっと気づいたときにはそれは水の槍ともなって泉の対岸めがけて飛んでいった。そして再びエリナードの手に水が宿る。
「俺たち魔術師は、誰かの役に立つために、なんてこと考えて魔法の研究してねぇよ。ただ知りたいからやってる。見たいからやってる。先がどうなるか自分の目で確かめたい、それだけだ」
 今度は水が輪となり、また一つ内側に輪を作り、そして何度も繰り返す。いつの間にかゆらゆらと揺らぎ、回転をはじめた輪の一つ一つが少しずつずれて行く。エリナードの手の上、回転する球体めいた水の輪の重なり。
「お前はどうして魔法を学びたい、デニス?」
 自分の手の上の水を見つめつつエリナードは尋ねていた。決してデニスを見ない、それが気遣いだとは若い彼にはわからないだろう。
「人の役に――」
「役に立ちたいってのは聞いた。なんのために、人の役に立ちてぇんだって聞いてんの、俺は」
「ま、魔術師は恐ろしい力を持っているんです。だから、人の役に立つのは当然です!」
「あぁ、そこか。お前の勘違いは」
 いつの間にか立ち上がっていたデニスがすとんと腰を落とした。エリナードの言葉に、腰が抜けるほど驚いたのだけれど、驚愕が過ぎてそれにも気づかなかった。
「恐るべき力なのは、魔法そのものであって使い手じゃねぇっての。確かに使い手次第だぜ、魔法もな。でもな、だったらお前、ファネルが他人のために絶対的に尽くさなきゃならねぇとか思うか?」
「どうしてそんな話になるのか、それがわかりません」
「ファネルが凄まじい剣の使い手だから、だ」
 エリナードがデニスを見据える。その深い藍色の目に射抜かれるかと思うほどデニスは恐怖していた。
「ファネル、ちょっといいか?」
 デニスを見たまま言うエリナードに彼が首をかしげそうになったとき、どこからともなく神人の子が現れる。驚いて息を飲むデニスをよそに、話の大半を聞いていたのだろうファネルがなんの前置きもなく話しはじめた。
「この手は、命を奪う手でもある」
「はい!?」
「独立戦の時のことが一番の好例、かな。あの時の私はフェリクスの物理攻撃手を務めていた。彼は最前線で魔法を展開していたからな」
「しかも防御とか身を守るとかそっちのけだろ?」
「いいや、そうでもない。他人の身は守っていたぞ? 自分はどうでもよかったみたいだがな」
 だから自分が彼を守った、とファネルは肩をすくめた。瞼の裏、いまでもまだ新しい情景。血まみれ埃まみれで魔法を放ち続けるフェリクスの表情。エリナードは見ていたわけではないけれど、それをどこかで感覚していた自分を思い出す。
「この手は、大勢の命を奪った手だ。誰かを守るため? ならば許されるとでも? そのようなはずはない。命はいついかなる時でも命だ。それでも、私はフェリクスを守りたいから守った。完全に私利私欲だ。綺麗ごとではない」
「その血だらけのファネルの手だ。さぁ、デニス坊や。この手はものすごく危ない手だぜ? だったらファネルは他人に尽くして危険じゃねぇって思われないように努力しなきゃならねぇの?」
 思考の巡りに言葉もないデニスだった。考えたこともない、としか言いようがない。またも、だった。アリルカに来て以来、どれほどこの思いを味わったことか。
「まぁな、それでもお前が人の役に立ちてぇってんなら別に止めねぇよ。それは趣味の問題だからな。だったらデニス、お前はどうやって暮らしてくつもりだ?」
「それは……その……なんとかなるかと……」
「ははぁ。つまり、すっごい魔術師さま、色々助けてくださってありがとうございますーって他人が面倒見てくれるとでも思ってんな? お前なぁ、自分の考えくらいまとめとけよ? お前はおっかない魔術師なんだから怖がられないよう他人に尽くさなきゃいけないんだって言った口で、役に立てば誰かが褒めて感謝して礼言って養ってくれるって言ってんだぞ? そんな馬鹿な話があるかってんだ」
「僕は別に!」
「だったらどうやって生きてくんだっての。いくら魔術師だって魔力食って生きてんじゃねぇぞ。食い扶持はどうすんだ、え?」
「魔術師とは――」
「魔術師だろうが傭兵だろうが農民だろうが食わなきゃ死にます。どんだけ偉そうなこと言ったって、てめぇの食い扶持一つ稼げねぇやつはダメだろ。そう言うのなんて言うか知ってっか? ガキって言うんだぜ」
「デニス、お前は働いて食事を得ると言うことを下に見ていないだろうか。自分で稼ぐと言うのは大変なことだぞ」
 正直に言えば、いまだ修行中の身だ。独立が許されたあとのことなど考えたことがない。そしてふと気づく。師であるカレンに自分は養われているのだ、と。衣食住すべての面倒を見てもらっていたのだと。気づいたデニスにエリナードがゆっくりとうなずいていた。




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