戦闘に邪魔だから、とファネルは神人の子にしてはきちんと髪を結ぶのが習慣になっている。それでも定命の子よりはよほどゆるく結ぶのだけれど。その一つに結った髪が、エリナードの髪紐で飾られていた。歩くたびにゆらゆらと煌めく。
「私を着飾らせて楽しいか?」
 一度家に戻っていた二人は再び湖に向かっているところだった。腕に抱いたエリナードがくつくつと笑う。
「楽しいから作ってんだぜ?」
 ひょい、と伸びてきた腕が結び目に触れた。それにも飾り紐は輝いたことだろう、と思えばファネルはくすぐったくてならない。このような形で愛情をあらわにするのは神人の子の習慣にはないこと。それでも、エリナードならば許せてしまう。
「我ながら、なるほどと納得する思いではいる」
「なにがだよ?」
「我々が恋をすると他が見えなくなる、と言う話だ。まったくそのとおりだな、と」
「言ってろ」
 からりと笑ったエリナードの顔を覗き込めば夕焼けに染まっただけではない赤さだった。湖への道は普段とは打って変わって人が多い。歌祭りだった。
「あんた、リオン師が作ったの、見てたんだろ?」
 湖の小島にすっくと立つリオンの杖。それがこのアリルカと言う小さな国を守っている。エリナードは感嘆すべきか呆れるべきか、いまだ決めかねている。たった一本の杖が、と驚けばいいのか、それともたかが国を守る程度のことに命をかけたリオンに茫然とするべきか。
「あぁ、あれは……腹が立ったな」
「はい?」
「知っているのだろう? あれがどのようにして作られたか」
 思えば今まで一度としてこの話をしたことがなかった。不思議なことだ、とエリナードは思う。もうファネルと共に暮らすようになって十年以上は経っているというのに。
「あぁ――まぁ、知ってるっつーか、予測はしてる」
「ほう?」
「俺じゃねぇよ、オーランドだ。あいつはリオン師の後継者だろ。その後継者が言ったんだ、リオン師が杖にかけたのは自分の命だろうってな。むしろ、エイシャ女神への祈りなんだろうって」
「そのとおりだ。リオンは立派な弟子を持ったな」
「そう思う。星花宮の四魔導師の後継者ん中じゃ一番まともだと思うぜ?」
 にやりと笑うエリナードにファネルは苦笑する。本当は、みなが素晴らしいと思っていた。フェリクスが過ごしてきた時間を思わせるからかもしれない。
「でも、なんでだ? リオン師に腹立てたってしょうがねぇだろ。あの人は、なんつーかなぁ。すっげぇ人当たりがいいんだけどよ、実は一番辛辣って言うか」
「なるほど」
「実は一番優しかったのは、あんたも知ってのとおりうちの師匠だしな」
 ほんのりとしたエリナードの眼差し。すぐそこで微笑むフェリクスの弟子、否、息子。血の一滴たりとも繋がっていなくとも、フェリクスの心が繋がっている。
「ちなみに、一番厳しいのは誰だったんだ?」
「ん? 他人に厳しいって意味なら、たぶんタイラント師だぜ」
 その言葉に、ファネルは驚く。戯れで尋ねたはずだった。そのような師はいない、との返答が返ってくるもの、と思っていたせいもある。
「タイラント師は……優しいんだ、すごく。イメル見てもわかるだろ? すぐおろおろして悲鳴あげて、わーって騒いで笑ってる。誰にでも優しいし、楽しく過ごしてた。――そう言うやつって、たいがい他人に対する目ってやつが厳しいんだ。他人に期待してねぇから、どうでもいいから、優しくなれる。そういうもんだろ?」
「……フェリクスは」
「だからそんなタイラント師の、鉄壁の無感情を突き抜けたうちの師匠はすげぇよな。心底溺愛してべったべたに甘かったからな、師匠には。――タイラント師にとって、うちの師匠だけが、たぶん生きた人間だったんじゃねぇのかな。はじめて会った、たった一人の生身。たぶん、師匠にとっても」
「……つらいな」
「だよな。二人、出会うまでどうやって生きてたんだろうって俺なんか不思議でしょうがねぇもん。昔、師匠が言ってたんだけどよ、お互い相手がいなかったら出来そこないの絡繰り仕掛けみたいなものだってさ。言い得て妙だよな、きっとさ」
 それくらい二人でしか生きていられなかった彼ら。彼らの周りには大勢の人がいて、友人や師や弟子がいて、それでも互いしかいなかった二人。デニスに聞かせてやりたいと思う。聞かせても理解はできないだろうから、いまは語るつもりはないけれど。二人は、幸福だった。けれど厳しい生き方をしてきたのだと。
「まぁ、それでも所構わずいちゃつく程度にゃ楽しく過ごしてたからよ、いいんじゃねぇのかな」
「――想像できん」
 以前ならばファネルのその言葉は痛みを伴うものだった。フェリクスの幸福の情景を見たことのないファネルだから。けれどいまはフェリクスの弟子が語る師の姿を瞼の裏に思い描くことができる。エリナードを見ていると、彼の師の姿が思い浮かぶ。それがたまらなくありがたかった。つらいばかりではない我が子の姿を知る機会を得たことが。それ以上にエリナードが。
「んで、ファネル。話が遠くなってるぜ?」
 にんまりとするエリナードにファネルは苦笑して首を振る。さらりさらりと鳴る飾り紐に水の音を聞く。エリナードだ、とファネルは思う。自分はタイラントではない。世界の歌い手の耳はない。それでも彼の思いの音に聞こえた。
「リオンの杖に腹を立てた理由か? 見当がつくだろうに。あの儀式魔術に、リオンは確かに己の命を捧げた。私はその場にいたが、現場でそれを知ることはなかったからな。だから、私は自分が感覚したものに腹を立てたわけだ」
 わかるか、と首をかしげるファネルに今度はエリナードが苦笑する。自分の師も中々に過保護ではあったけれど、その父ときたらなんと言う過保護だろう。思えば笑ってしまう。
「師匠が魔力を提供したからって? ほんっと過保護だよな、あんた。ヤな血筋もあったもんだぜ」
「私にはフェリクスだけが魔力を提供したように見えたからな。リオンは何をしているのだ、と腹を立ててなんの不思議がある」
「胸張って言うんじゃねぇよ、過保護親父」
 ファネルの腕の中、エリナードが身をよじって笑っていた。そうすることができるだけ、エリナードは回復している。アリルカに来た当初は、本当に自力では動けなかったのだから。魔法を使うしかなかったころに比べれば、こうして多少とはいえ動けるようになった今が素晴らしいものに思えるエリナードだ。
「お、みんないるぜ」
 もう歌祭りはじまっていた。むしろ、朝からはじまっている、と言ったほうが正しい。陽が昇るとともに誰からともなく歌いはじめ、湖に集まりだし、気がつけば満員になっている、それがアリルカの歌祭りだ。
「イメル!」
 エリナードが片手を上げれば群衆の向こうから背伸びをしてイメルが手を振り返す。その満面の笑みにエリナードも笑い返した。
「稼ぎ時って顔してやがるぜ。相変わらずだな、あいつ」
「吟遊詩人でもあるのだから、当然だろう?」
 体の自由が利かないエリナードだ。気づいた人たちがひょい、と何気なく移動して木の根元に座る場所を作ってくれた。ファネルが笑みと共に目礼する。
「おう、悪いな、邪魔しちまったか? 助かるぜ」
「歌はどこでも聞こえるからな。あんたはその辺がちょうどいいだろ。ファネルだってずっと抱きっぱなしじゃ腕が疲れるだろうよ」
「いやいや、意外とファネルさん頑丈だからなぁ」
「抱いてた方が実はよかったりして?」
「神人の子をからかうんじゃねぇよ!」
 大きく笑ったエリナードの声にファネルは微笑む。心の中、フェリクスに語りかけてみる。お前の愛したタイラントが望んだだろう国がいまここにある、と。
「昔さ――」
 誰かが持ってきてくれた冷えた葡萄酒に口をつけつつエリナードが話しはじめた。目はイメルを見ているけれど、遠い。ファネルもまた冷たい葡萄酒を楽しみながらエリナードの横に座っていた。
「ライソンとまだ付き合う前だな。降臨祭の晩にさ、あいつがご馳走作ってやるって俺の家に来てて」
 大惨事だった、とエリナードは笑う。なんとなく居心地が悪くてうっかり出かけてしまったのが運の尽き。自分の留守中にイメルは来るフェリクスは来るでライソンが大変な思いをしたらしいと。
「そんときにもイメルはあんな顔してたよなぁと思ってさ」
「降臨祭か。稼ぎに行く前にお前の家に寄った、というところか?」
「おうよ。もうすっげぇ楽しそうで怒るに怒れねぇ。こっちはライソンと二人でどーしようかって思ってたんだから……まぁ、ありがたかったんだけどよ」
「どう、とは?」
「だから、まだ付き合う前だったんだって。あいつが俺に惚れてるってのは知ってたし、あいつも宣言はしてた。でもこっちは全然そんな気じゃねぇ……ってのは嘘だな。気になってるってのがせいぜいで、そっからどうするかなんかまだ全然ってとこだったからな」
「初々しいものだ」
「ほっとけ」
 いまの恋人にする話題ではない。けれどファネルはそれを許してくれる。むしろファネルのほうが聞きたがることもままある。エリナードが生きて過ごしてきた時間だから、と。
「エリナード師! ここにいらしたんですね!」
 人混みを縫ってデニスが駆けてきた。思い切り嫌な顔をするエリナードと苦笑するファネルにもめげずデニスは笑顔だ。
「ここにいらしたんですね、じゃねぇよ。祭りだ祭り、ちったぁ気を使えってんだ。俺はしっぽり逢引中なんだ、邪魔だガキめ」
 ひらひらと手を振るエリナードに一瞬デニスは怯む。が、ファネルの横に結局は腰を下ろした。ちょうどそこに聞こえてくるイメルの歌。
「――あの野郎。あとでとっちめてやる」
 ぼそりと言い、そしてエリナードはこらえきれずに笑いだす。陽も暮れて、小島の近くにいるであろう魔術師の誰かが魔法の明かりをいくつか灯した。水面にちらちらと照り返し、なんとも言えずに美しい。
「エリナード師?」
「あのイメルの歌だ。『悪魔と小悪魔』って戯れ歌なんだけどよ?」
 言った途端、悟ったのだろうファネルが吹き出した。処置なし、とばかり肩をすくめるエリナードにデニス一人が不思議そうな顔をする。
「悪魔、か? あれが?」
「むしろ小悪魔のほうに突っ込めよ、なんだよ小悪魔ってよ」
「拗ねるな。正に小悪魔、と言いたくなってくる」
「言ってろ。神人の子が!」
 ぷい、とそっぽを向いて、それでも笑っているエリナードと口許を隠しつつ笑いをこらえているファネル。双方を見比べて、それでもデニスにはさっぱりわからなかった。




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