幸か不幸かデニスの実家は商家だった。おかげでわかりたくもないのに伝票の処理ができてしまう。一人きり、机に向かえばそれでも文句は出る。
「なんでだよ」
 もう何度言っただろう。なぜ自分がこんなことをさせられているのか、まったく理解できない。ただ、文句を言いつつも仕事だけはしているのだからそのあたりだけは褒めていい、とこっそり見守っていたイメルは思う。
「そろそろ終わった?」
 見ていたのだから終わったも何もないものだったけれど、頃合を見計らった、そんな顔をしてイメルが顔を出せば慌ててデニスは表情を繕う。中々可愛いものだ、とまたも思ってしまった。はなはだしい勘違いと熱心すぎる情熱と自己に対する理解不足は否めないものの、仕込めばものになるだろう、とも思う。
「あ、はい……」
 冴えない顔をしているのも当然だった。なんとか顔を作りはしたけれど、そこは若者のこと、イメルに隠せるとまではさすがに自分でも思っていないだろう。結果、不自然に珍妙な顔となっているのにデニスはたぶん気がついていない。その若さがイメルには面白かった。
「どうかしたの?」
 ぱらぱらと伝票を確かめつつイメルは時折うなずいている。こちらは評価してはもらえたらしい。けれど自分は魔術師だ、とデニスはやはり思ってしまう。
「なぜなのでしょうか」
 ずっと一人で呟いていた文句とあまりにも変わらなくてイメルは笑いをこらえるのが大変だった。せいぜい生真面目な顔をしてデニスに向けて首をかしげる。口を開けば吹き出しかねない。
「ですから……。エリナード師は仰いました、イメル師のお手伝いをするように、と」
「してもらったよな? 助かったよ、人手が足らなくってさー」
「そうではなくて!」
 声を荒らげてしまってから相手が誰だか思い出す、そんな態度にイメルは懐かしくなってしまう。己の若き日を見る思いだった。
「僕は! 魔術師です。なのに、どうして購入伝票なんか!」
 それでもデニスは怯まず言い切った。そのあたりは自分とは違うな、とイメルは思う。当時のあの内気さを思い出すにつけ、どうして自分がこのようになってしまったのか不思議でならない。友人が悪いのだとしか思えなかった。もっとも当の友人も同じことを言うだろうけれど。
「ん? 伝票の中身、見たのか? それ、うちの魔術師たちが買った物品の伝票だし」
「でも!」
「あぁ、だったら魔術師じゃなくって常人の誰かにやらせりゃいいじゃんってこと?」
 にっこり微笑んで言うイメルの言葉にうなずいてはいけないことくらいデニスにもわかった。が、内心ではそのとおりだ、と思っている。
「あのな、デニス坊や。自分の仕事は自分で完遂する、それがまともな大人ってもんじゃないのか?」
「――そのために、分業というものがあるのだと思います」
「それはそれで一理ある。でも、ここでは自分の仕事は自分でするの、わかる? だから伝票の整理も魔術師の仕事。だいたいね、君はどう考えてるのかなぁ。魔術師だって日常の雑務はするよ?」
 あまりにも当然のことだ、と言われてデニスは戸惑う。ついでとばかりイメルはカレンもしているはずだ、とまで言ったのだから。イメルの嘘でないのならば、自分がただ知らなかっただけ、と言うことだろう。
「でも、魔術師の本来の仕事はもっと偉大なものだと思います!」
 はじまったか、とイメルは内心で溜息をつく。エリナードから事のあらましは聞いている。むしろ昔話をしている段階で、彼から精神の接触があった。そちらでも聞いておいてくれ、と。同じように今イメルはエリナードに接触している。心の向こう側、エリナードが天を仰いで文句を垂れた感触。イメルは内心で小さく笑う。
「ふうん、たとえば?」
 エリナードがぶつぶつと言っているのを感じながらイメルはデニスに微笑んでみせる。さすがは吟遊詩人、と自惚れればエリナードに怒られた。
「たとえば――たとえば。あの! エリナード師の偉大な業績の一つにイーサウの人造湖があります!」
「あぁ、あれな」
「エリナード師は人々のために、と灌漑用人造湖をおつくりになられました。そのおかげでイーサウでは旱魃も水害も克服したんです!」
 イメルはぽかんとしてしまった。つい今しがた自惚れたばかりだと言うのに、吟遊詩人の自信が木端微塵になりそうだ。ほらな、と言わんばかりのエリナードの心の声が聞こえた。
「君、なに言ってるわけ?」
「ですから、エリナード師の偉大な――」
「そりゃさ、作ったエリナードはすごいよ? それは事実だ。でも別に無償奉仕じゃないし、あいつだって人のため、とか思ってないよ?」
「は……?」
「だからね、デニス。あれは当時の連盟議長だったサキア女史の要請で魔法学院が請け負った仕事だったはずだよ。魔法的に素晴らしい技術だってのは本当だけどさ、君は何か勘違いしてるよな?」
「そんな! だって、イーサウの英雄が!」
「英雄だって食べて行かなきゃならないんだってば。それに当時は学院も金がなかったからねぇ。これでやっと学生の寮を建てられるってほっとしてたからな、あいつも」
 デニスが誤解しているような慈善活動ではなかった、とイメルは断言する。そしてその上でデニスの目を覗き込む。
「さて、デニス? だったらさ、君はいまの俺の話を聞いて、事実を知って、エリナードがしたことが変わったと思う? 仕事でしたら卑しくって、慈善だったら立派なの?」
 デニスには答えられなかった。考えたこともなかった、と言ったほうが正しい。まさかそのようなことが魔術師の仕事だ、とは思ってみたことがない。むしろ、魔術師の仕事とは立派な人助けだ、としか思ってこなかった。ならば人助けとは何か、とは考えたことがない。
「うん、デニス。他には何かある?」
 この際だ、いままでの常識を吹き飛ばしてくれよう、とイメルが考えているなどとデニスにわかるはずがなかった。少し考えて事例を思い出す。
「――イーサウ独立戦争の時のことを聞いたことがあります。エリナード師はまったくイーサウとは関係を持っていなかったと言うのに、義を見て助けざるは勇ならずと参戦なさったのだと聞きました!」
「あ、それも違うから」
 あっさり言われてしまった。ここまでくればさすがにデニスにもおぼろげにわかりはじめてきた。どうやら自分が聞いている話は伝説に彩られた、事実とはかけ離れたものらしい、と。
「どう……違うのでしょうか」
 それでもまだ認めたくない。違うのだ、と言う確たる証拠が欲しい。認めたくない、言えば言うだけ、今現在のエリナードの姿が浮かんでしまう。
「あのときはさ、イーサウ攻撃軍にエリナードの彼氏がいたんだ」
「はい!?」
「ちなみに暁の狼って傭兵隊でね、そこの騎兵のライソンって言うんだけど」
 ぽかんと口を開けたデニスは、当時ライソンがラクルーサに雇用されていた、とは知らなかったらしい。むしろ自分に都合のいいことしか知らないのではないか、と疑いたくなっていたけれど。
「だからあいつはイーサウに行ったんだ。外壁に乗っかって、彼氏を魔法で守ってやれるようにね。まぁ、政治的に色々あったから、狼と一緒に従軍することができなかったあいつのせめてもってやつだよ」
 本当は違う、とすでにイメルも知っている。あのときエリナードはフェリクスの命で動いていた。星花宮の魔導師の命を繋ぐ一手となるべく動いていた。が、それをここでデニスに言えばまた類稀なる自己犠牲などと美化するに決まっている。
「イーサウがどうのじゃないよ、エリナードはただライソンを庇いに行っただけ」
「――イメル師は、ライソンさんのことをどうお考えなんですか?」
「いい友達だったよ。彼のほうがずっと年下なんだけどさ、なんか対等の友達。むしろ俺のほうがたしなめられたりしてね。懐かしいよ、とても」
「それですよ! だったらどうして、エリナード師が……!」
 イメルもここに至ってやっと悟った。このデニス、勘違いの凄まじい子供ではある、が、何はともあれたとえ偶像であろうともエリナードに憧れているのだ、と。考えた瞬間、冗談じゃないと心の中でエリナードが文句を言った。
「ライソンさんの友人だって言うなら、どうしてイメル師はファネルのことを許すんですか?」
「そりゃファネルだって友達だし。俺はエリナードが暗い顔してるのは見るのも嫌だからね。ほんっとに鬱陶しいからさ。それにファネルだってそうだ。長年一人で歩いてきた友達が誰かと歩くって言うなら、それはそれでいいことだと思うよ」
「でも……」
「なに、君はさ、デニス。エリナードが誰かを好きになっちゃだめだって言うの? 君が憧れた英雄だから、君が幻滅するようなことするなって?」
「そんなことは……。ライソンさんが、どう思うかとか、残念だろうなとか……」
「ばっかじゃないの? ライソンは絶対にファネルにありがとうって思ってる。俺のエリンを大事にしてくれてよかったって思ってる。それは友達として断言できるね」
 エリナードもファネルもそう言った。いまここで友人だったイメルまで同じことを言う。デニスは唇を噛みしめていた。
「……イメル師は、ご存じなんですか? エリナード師は仰いました。ファネルにライソンさんを重ねてるって。ファネルもエリナード師にフェリクス師の面影を見てるって。そんなの愛情じゃないと思います」
 この聞き分けのない子供をどうしてくれようか。だいたい、とイメルは思う。確かに神人の子らは慣例的に名だけを呼ぶ。デニスもそれが常識だから、と疑いもせずにそうしているのだろう。が、ファネルは自分の友人であり、エリナードの伴侶だ。それを堂々と常識を盾に呼び捨てる根性が気に入らない。たとえファネル本人が気にしていないとしても。さすがに苛々としてきたイメルの心をエリナードがそっと撫でる。こらえてくれ、と。溜息をついてイメルは、けれど厳しい目でデニスを見据えた。
「あのね、デニス。愛情って、何?」
「なにって……人を大切に思う気持ち、でしょうか」
「だったら、どうして他人の君が口出しするの? 二人とも、相手に違う誰かを重ねてるかもしれない。それでも、いい? ここが大事なんだよ、いい? それでも! それでも、ちゃんと二人は相手が好きなんだ。とても大事なんだ。他人にわかれとは言わないし、他人がわかる必要もない。本人たちが納得して、幸せに過ごしてるんだ。どうして赤の他人の君がごちゃごちゃ言うの? ただ君の理想の英雄が他の人を好きになったって言うだけで、どうして非難されなきゃいけないの?」
 非難などしていない、言いかけてデニスは口をつぐむ。正に自分がしているのはそう言うことだと、この瞬間に理解した。さっと青ざめるデニスに、ようやく話が通じたか、とほっとイメルは息をついていた。




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