顔を上げればそこに優しく微笑むファネルがいた。だからこそ、拒むべきだとエリナードは思う。ここまで思われて嬉しくないはずもない。だからこそ。
 長い年月、一人で生きてきたファネルが、今になってこの自分に心を傾けた、と言うのならば。ほんの数十年で自分は逝ってしまう。ファネルは、その自分を送らねばならない。
「それも……フェリクスが言ったな。本当に、まったく。お前たちときたら」
 くすくすと笑うファネルにエリナードは言葉もない。ほんの少し、嬉しい。微塵も血の繋がりなどないとはいえ、フェリクスと親子と言われれば今でもまだ嬉しい。そんな自分の頼りなさもまた、エリナードは自覚している。
「師匠が言おうが俺が言おうが事実は事実だろうがよ。あのな、ファネル――」
「それ以前に、だ。お前はどうするつもりだ」
「はい?」
「だからな、聞いただろう? イメルに身柄を預けるつもりならば今のうちに言え」
 どう言う意味だ、とエリナードは眉を顰める。単にイメルに頼みごとをするならば早い方がいい、という意味合いではなかった気がした。エリナードの表情に気づいたファネルがにやりと笑う。
「言っただろう? 私は闇エルフだ、と。遅くなれば、お前が嫌がろうとも離さんぞ。この家に隔離して誰にも会わせん――くらいのことをしかねん自分がいる、らしいな。どうも」
 それを楽しそうにファネルは言う。呆れてもいいような気がした。いっそ逃げてもいいような気がした。けれどエリナードは違った。共に、笑っていた。
「それこそあんた、俺の話聞いてたのかよ? 俺はあんたを堕としたくねぇ。そりゃ、そう言う意味だろうさ」
 肩をすくめたエリナードを、ファネルが唖然と見ていた。そのような顔をすれば超然と美しい神人の子などではなく、いやに生身めいて見える。それを確かめたエリナードはくすりと笑った。
 ファネルが微笑ましかった以上に、自分が不思議だった。どうしてこんなにもあっさりとファネルを受け入れたのか。ファネルを思う、と言う己の心を受け入れたのか。それでもすでに心の中、彼がいる。
「……なぜだ?」
「さぁな? まぁ、さっきイメルに言われて気づいたんだけどよ。ってヤな顔すんな! あれはダチだって言ってんだろうが!?」
「嫌なものは嫌だ。諦めろ。――もっとも、イメルと友人づきあいをするな、と言っているわけではないがな」
「知ってるか、ファネル? それ、ただの焼きもちって言うんだからな?」
 にやりと笑えば目の前の神人の子が赤くなる。悪い気分でもなかった。エリナードは思う。また、進む気になったのだと。それでもライソンの面影はまだここにある。
「それこそな、あんた。わかってんだろ? 俺はライソンを忘れるつもりはさらさらねぇよ。いまでも惚れてる。たぶん一生忘れねぇ」
 それでもいいのか、問うエリナードにファネルが今度は肩をすくめる。ちらりと笑ってエリナードの金髪に手を伸ばした。
「私がお前にフェリクスの面影を見るように? 何ら問題はない。互いに理解していれば、それで充分だ。それにな……ただ傷を舐めあうだけ、と言うわけでもないだろう?」
 黄金の髪を指で弄びつつ、ファネルの眼差しはその向こうに黒髪を見ている。エリナードもそれはわかっていた。恋ではない、だが愛ではあるもの。失ってしまった面影を互いに抱いて、それでもまた進んでいく。
「私の生の中、お前と共に過ごす時間は瞬きにも満たない束の間だろう。それでもお前と言う水は私を潤す」
 ぽつりと零された言葉にファネルの傷を見る思いだった。友もいた、仲間もいた。それでも一人きりだったファネル。闇エルフとはそう言うものだ、彼ならばきっとそう言う。けれどしかし。
「俺はただ水の扱いがうまいってだけだ。人を癒すようにはできてねぇんだよ」
「お前は水だ。フェリクスが希望であったように」
 確信めいたファネルの言葉。ようやくエリナードは気づく。彼は名前の本当の意味こそを読み取っているのだ、と。途轍もない褒められ方をしてしまったような気がしてエリナードは顔をそむけた。
「お前でも、そんな顔をするのだな」
「どんな顔したってんだよ!」
「若き神人の子のような顔、とでも言えばいいか? いやに純な顔をしていて、戸惑った」
「うっせぇわ! 目が悪い!」
 自分は決して純真無垢ではない。かつて経験してきた策謀の数々を知ればファネルとて呆れるだろうとまで思う。そしてなぜだろう。呆れても、ただ呆れるだけだと信じられるのは。
「まぁ、それが惚れたってことかな」
「なに?」
「いや、こっちの話。で、ファネル。一応聞くけどよ。あんた、俺を送る覚悟があんのか? 繰り返す、俺は定命の子だ」
「仮になくとも諦める気にはならん。さらに言えば、ある。そうだな……」
 ふっとファネルの表情が和らいだ。何かを心に決め、そして覚悟ではなく受け入れた顔。ファネルのそれをエリナードはじっと見ていた。
「そのときには……お前を送ったそのときには、私もまた最後の旅に出よう。そう思う」
 さすがにぎょっとした。自分は神人の子にこの大地での生を捨てさせるほどの者ではない。言い返そうとしたけれど、無言で微笑むファネルに止められた。もう充分に長く生きたのだ、と。
「最後の時間を愛する者と共に歩く、と言うのは悪くはないだろう?」
「それが俺だってとこがそもそもどーかと思うけどよ。俺はそんなご立派な生きもんじゃねぇぞ」
「私がいいと言っているのだからお前がいい」
「――神人の子にしちゃはっきり言うよな、あんた」
「定命の子のくせに照れるな、私がおかしいような気がしてくる」
「どっちもどっちって言うんだ!」
 からりとエリナードは笑った。そして手を伸ばしてはファネルのそれに触れた。初めて触れたとき、柔らかな手をしているのかと思った。神人の子の繊細な手は、けれど予想を覆して硬い。武器を取り続けている手をしていた。ライソンと同じ、剣を持つ者の荒れ方をした手。胸の奥が痛みながらもなお、懐かしい感触。それでもエリナードは、自分の中のどこかがゆっくりとほどけて行くのを感じていた。ライソンとのことを思い出す。彼と共に歩くと決めた日、こんな思いをしたものだったと。無言でエリナードはファネルの手を取っていた。
「なぁ、ファネル。俺は定命の子なわけで。惚れた腫れたにゃこう言うことが付き物なわけだけど?」
 言い様に手を引いた。驚いて体勢を崩したファネルの首筋を反対の手で掴む。そのまま軽くくちづけた。昔、ライソンにも同じことをしたな、と思いつつ。
「……おい、いま違うことを考えただろう? さすがに失礼だぞ、それは」
「って突っ込むのそっちかよ!?」
「なぜ嫌がらねばならん。言っているだろう、私は闇エルフだ、と。続きを催促しようか? それとも?」
 にやりと笑う神人の子に、エリナードは呆れて笑った。確かに闇エルフだ、と思う。良くも悪くも人生の最後、これはこれで楽しく過ごせそうな、そんな気がした。
「そりゃ、それとも、のほうだよな?」
 言えばちらりと口許に笑みを浮かべたままファネルがくちづけをくれた。意外と下手ではなくて、それがまず驚きだった。
「なにが言いたい?」
「いや、けっこう巧いな、と思ってよ。仕込み甲斐がねぇな、おい」
「褒められた、と思っておくぞ」
「褒めてんだっつーの」
 言い合い、目を見かわし。なぜとなく照れてしまった、互いに。少しずつ実感がわいてきたのかもしれない。体が痛まないように、と気遣ってはそっと腕に抱いてくるファネルのぬくもり。胸に頬を預ければ、温かい。眠りに誘われそうな、そんな心地よさだった。
「エリィ?」
 呼ばれた瞬間。エリナードは飛び起きる。何度も目を瞬き、そこにいるのがファネルである、と確かめる。
「どうした、おい。いや……私のせいだな。すまない、馴れ馴れしかったか」
 慌てているのだろう、おそらくは。それでも表情があまり変わっていなかった。そのぶん、ファネルが照れているのがわかってしまう。エリナードはついに笑いだす。
「違ぇよ。あんた、いま俺をなんて呼んだ? ったく、この親子め!」
「なに?」
「今更名乗るまでもねぇ、俺の名はエリナード。エリンって呼ぶやつらもいるけどよ」
 ファネルにも覚えがある。かつてイーサウで出会ったライソンもまた、彼をエリンと呼んでいた一人だった。
「でもな、師匠だけは俺をエリィって呼んだんだ」
 言葉がなかった。ただエリナードの髪に指を滑らす。胸に迫る何かが喉を塞いで声が出なかった。
「ほんと、妙なとこで親子だぜ」
 小さく笑い、髪に触れている手をエリナードは首の一振りで払い落とす。その代わり、落ちてきた手を両手で取っては挟み込む。
「どうやったら男の俺をエリィなんて珍妙な呼び方できんだかな。なんか知らねぇけどってたぶん、呼びやすかっただけなんだろうけどよ。師匠は昔っから俺をそうやって呼んだんだ」
「……そうか」
「あんた、師匠と声がちょっと似てるからな。なんかすげぇ変な感じ」
「嫌だったら――」
「んなこと言ってねぇっつーの。ほんとあれだな。師匠がもう少し成長してたらあんたと誰が見ても親子ってわかるくらいそっくりだったと思うぜ」
「似て……いや、似ていなくて……いや……」
「なんか懐かしいなってだけだ。気に障ったら詫びる」
 きっぱりと、けれどさらりと言うエリナードにファネルは目を細めた。彼の声に救われた、そんな気がした。恋ではなくとも愛であるものがいまこの手に。彼の向こうにフェリクスを見つつ、巡り巡ってエリナードを見ている、不意に悟ってファネルは笑う。
「では、やはりやめようか」
「なんで? 別にいいけど?」
「フェリクスと声が似ているのだろう? よく似た声で愛を囁くのか? それで喜ばれても私もさすがにどうかと思うが」
「喜ぶ前提ってとこに妙な自信を感じんのは気のせいか? まぁいいけどよ。だいたい親子だ、似てても当たり前なんだから変な気遣いはやめてくれ。呼びたきゃ呼んでくれて全然かまわねぇよ」
「まぁ、親子だからな」
「だろ? あー、そっか。そうだよなぁ、師匠の親父さんだもんなぁ。今更だけどよ。だよなぁ」
「なにが言いたい?」
「いや。俺、師匠の息子だし。てことはあんたは祖父ちゃんだし。なにこの物凄い近親相姦感」
「言うな!」
 赤くなって怒るファネルにエリナードはからからと笑っていた。すぐそこにあったライソンの面影を胸の奥へと。忘れはしない、けれど生きて行く。内心に呟きファネルの手を取り頬に押しつける。まるで感謝のようだった。祈りのようだった。




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