それほど長く湯に入っていたはずもないのだけれど、ファネルが浴場から出てきたとき、二人はすでに浴場前の広場で涼んでいた。利用者の歓談の場になるよう、と誰が置いたものか簡素な木のベンチがある。が、二人はそこではなく木陰に直接腰を下ろす。足の不自由なエリナードのためだろう。木にもたれて彼は笑ってイメルと喋っていた。
「……待たせたか」
 友人同士の和やかな場に入って行くのがためらわれたわけはない。けれどそうとでも思わなければとても理解できない躊躇をした、とファネルは自覚している。
「おう。それほどでもねぇよ」
 からりと笑ったエリナードが片手を上げる。さっぱりと心地よさそうな顔をしているところを見ればよほど入浴したかったものと見える。気づかなかった自分をファネルは悔いる。
「あんたも入ってたんだな。イメルにさっき聞いたんだけどよ。神人の子ら用に個室みてぇになってるんだって?」
「専用じゃないって言っただろー。仲良しさん達でも使うんだぞ、エリナード」
 なんなら自分たちも使うか、とイメルが笑う。質の悪い冗談だ、と一蹴したエリナードがそれだけでは飽き足らないとばかりイメルを殴る。痛いと笑うイメルにいつにない苛立ちを覚え、ファネルは黙って手を差し出した。
「うん?」
 まるでもう帰るのか、と言うようなエリナードの眼差し。ファネルは唇を引き締め、彼の返答など待たずに抱き上げる。抗議の声が聞こえた気がしたけれど、耳を閉ざした。
「んじゃ、またな、イメル。次も頼むわ」
「あいよー、いつでもどうぞ」
「忙しいって言えよな、お前もよ。あんまり暇してると塔の後継者だってのを疑うぜ俺は」
 冗談にしては酷いことを言うエリナードの声にイメルの返事は聞こえない。さっさと歩きだすファネルの背中に届かない。
 無言のファネルにエリナードは内心で苦笑している。イメルが何かしたのか、とまで思いたくなる。ある意味では、していたかとも思う。
 確かに親しい友ではある。親友と言っていい幼馴染み。だがいまは明らかにファネルの目を意識してじゃれついていはしなかっただろうか、彼は。気にしすぎかもしれない、と思いつつもエリナードは疑っている。
「茶でも飲むか」
 小屋に戻りそう言うまで、ファネルは頑なに口を閉ざしたままだった。余人がいなくなり、初めてほっと肩の力を抜いたのがエリナードの目にも見えてしまう。寝台の上、柔らかにおろされてエリナードは心の内側で困惑していた。
「風呂上がりに熱い茶ってのは、ちょっとなぁ。ファネル、グラス貸してくれ、グラス」
「――これでいいか」
「おうよ。あと、そこの果物、半分に切って絞ってくれよ」
 ひょい、と渡されたばかりの硝子の酒杯を差し出せば、そこにファネルが果汁を絞り込む。採れたてらしい果実の爽やかな香りがした。寝台の端に座ったばかりのファネルがはっと腰を浮かす。
「おい、エリナード!」
「こんなの魔法使ったうちに入るかってんだ。基礎の基礎だ、全然問題ねぇよ」
「だがな!」
 酒杯にエリナードが手をかざせば、そこになみなみと湧き出す水。果汁とまじりあい、一層涼やかだった。
「平気だってーの。ほれ、飲めって。うまいぜ」
 にやりと笑えばむつりとしたままファネルが、それでも口をつける。その目が見開かれ、エリナードを見つめ、そしてそらされる。
「師匠直伝だぜ。風呂上がりにはこういうもんのがうまいよな」
 細かく氷の浮かんだ贅沢な飲み物だった。そっと口をつければ唇に氷の粒が触れては熱に溶けて行く。懐かしいような、哀しいような味がした。
「フェリクスは――」
「星花宮ではこういうもんが好きだったぜ。料理はてんでだめだったけどな。ささやかな贅沢は好きだった。つーか、贅沢だって認識してなかった気がするけどよ」
 星花宮ではこれが当たり前。自分の力で用意するただの飲み物だ。冬以外に氷がある、など王侯貴族の贅沢でしかないけれど、魔術師ならば己の才能で用意ができる。
 そしてそんな贅沢をして見せることで弟子に発破をかけていたのかもしれない、エリナードはふと思う。幼い弟子に用意してやれば、次は自分で作ってみたくなるのが子供というもの。うまく乗せられていたのかもしれない、今更気づいて苦笑した。
「……そうか」
「あぁ。料理はタイラント師がうまかったぜ。星花宮の食事も悪くなかったんだけどよ、それでもタイラント師は時々師匠にって手料理振舞うんだ」
「意外、だな」
「ん? 見たことあるのかよ?」
「あぁ、遠目にだがな。世界の歌い手を見たことは、あった」
「へぇ。だったらまぁ、確かに意外、だよなぁ。あんだけ派手な面しといてすっげぇまめで一途だったんだぜ、タイラント師」
 くすりとエリナードは笑った。つられるようにファネルの口許もほころぶ。すぐにまた硬くなってしまったけれど。
「お前は?」
「俺? 別に料理だなんだってのはやってできなかねぇけど、得意ってほどでもねぇかな。むしろイメルのほうが好きだぜ、そう言うのは」
 そんなことは聞いていない、とばかりファネルがそっぽを向いた。ここに至ってエリナードは完全に進退を失った。それを悟る。悟られたことに気づいたかのよう、ファネルが溜息をついた。
「……こんな時に、自分は闇エルフなのだと思う」
「なんだよ急に」
「――イメルだ。と言うより、他人だ」
 それだけはきっぱりと言ってのけたファネル。けれど視線は遠く外を見ていた。身じろげば、寝台のきしむ音。それが癇に障ったかのよう苛立ったファネルがそこにいる。
「なんと言うのだろうな。独占欲、とでも言うのか?」
「俺が友達とお喋りしてたのが気に入らねー、とか言わないよな、ファネル?」
 茶化したエリナードにファネルが真っ直ぐと向き直る。息が詰まったエリナードは、けれど視線を外さなかった。
「言っては悪いか」
 神人の子としては直接この上ない言葉だろう、エリナードは思う。だからこそ、どうしたらいいのか、どうするべきなのか。小さく溜息をついた。
「……私は言ったな、恋など知らずに旅立つ半エルフは少なくない、と。今更だ。今更ではあるが、こんな思いを抱くとは思ってもいなかった、私自身」
「おい――」
「ただ、理解はしている」
 天より青いファネルの目。射抜くと言うには哀しすぎる目をしている、エリナードはそう思う。だから黙って見つめた。
「恋ではないのだろうな、おそらくは」
 ささやかな溜息。そう言われればどれほどほっとすることか、思っていたにもかかわらずエリナードの内心がざわめいた。抑えつけようとした思いはどうしようもなく、無意味に手指が寝台のかけ布をまさぐる。
「我が同族は、まぁ、この場合は闇エルフも含めていいと思うのだがな。――恋をすると、端的に言えば見境がなくなる」
「はい!? 神人の子らの見境ってなんだよ!?」
「いや、だからな。相手のことしか考えなくなる、という意味だ。世界は自分と相手だけでできている、とまで思うものらしいからな」
 いったい何事か、と驚愕して尋ねたエリナードへの、それが返答だった。苦笑までしているものだからファネルがそうは感じていないのが嫌でもわかる。
「……私は、そうは思っていない」
 だめ押しのような言葉だった。だからかもしれない。ファネルがそんな自分を何かが欠けた者、思っているような気がしたせいかもしれない。
「その辺はあれだ、個人差ってやつじゃねぇの? あんたらだって色々いんだろ。情に厚いのがいりゃ淡白なのだっているだろうよ、生きてんだからよ」
 はっとファネルが頬を赤らめた。まるで喜ぶようなその表情にエリナードは唇を噛む。フェリクスが思い出されてならなかった。一時の感情で手を差し伸べれば、相手に害悪しかもたらさない場合がある。だからこそフェリクスは当初、アリルカとは一線を画していた。それがどれほど難しいことだったのか、こんな場面でよくわかる。
「そうか……私は……」
「ちょい待ち、ファネル」
「待たん。私は闇エルフだ。半エルフほど純でも気が長くもない。率直に言って――」
「だからそれを待て、と言ってるんだっつーの!」
「あぁ……そうか。現状、お前の面倒は私が見ているのだったな。気になるだろう? 大変に不愉快であるのは認める。それは否定せん。が、イメルのところにでも行くか? この上、同居はお前も気兼ねがするだろうからな」
「だから人の話を聞けって言ってんだろうが! 変なところで親子だぜ、あんたらは!」
 エリナードの言葉に一瞬ファネルがきょとんとした。ついで仄かに笑う。それから肩をすくめてエリナードの言葉を待った。
「あのな、ファネルよ。言うまでもねぇけどよ、俺は定命の子なんだ。長生きしたって五十年もしたらくたばんだ。――俺は、そう言う意味で、あんたに俺を送らせたくはねぇよ」
 その言葉に。今度こそファネルは莞爾と微笑んだ。いままで見た笑みの中でも比べ物にならないほど美しいと思う。フィンレイの太陽のような笑顔でも、ライソンの陽だまりのような笑みでもない。確かにここに異種族がいる。優劣ではなくそうとしか言いようがない。それでも、あるいはだからこそ、美しい。
「……同じことを言うのだな」
「うん?」
「フェリクスと。――あれが命の時を迎えるころ、いまのお前と同じことを言った。私があれの死を見るべきではない、と」
「師匠の優しさだって、わかってやってくれよ」
「わかっている。あれは、優しい子なのだろう。私は知らないが。彼を知る人はみなそう言うのだから。――だがな、エリナード。それとこれとは話が違うだろう。話をそらそうとしていないか、お前は」
「師匠とおんなじこと言ったって言ったなぁ、あんただぜ、ファネル。俺がそらしたんじゃねぇよ。でもな、わかってんだったら……」
「わかった上で、あるいは恋ではないかもしれないと理解した上で――」
 最後だけは囁き声のようだった。そればかりは神人の子としての理性が働いた、と言わんばかりに。エリナードは黙って首を振る。
「……俺は、あんたを闇に堕としたくはねぇよ」
 呟きか、歎きか。エリナードの言葉にファネルはそっと微笑んでいた。




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