エリナードをイメルに渡したファネルもまた、浴場にいた。いずれにせよ体を拭うのならば、何も一人で森の泉に水浴に行くこともない。
 神人の子らの多くも、いまはこの公共浴場を使うようになっている。以前は違った。殊の外に肌を見られるのを嫌う種族のこと、一人一人が泉や小川など気に入りの場所で密やかに水浴をしていたものだった。人間ではないのだから、たとえ真冬のさなかでもそれで体調を崩すこともない、充分だ、と誰もが思っていた。
「これはこれで……心地よいものだがな……」
 だからこそ、ゆったりと湯につかる、などと言うことをしたことがないものも多くいたのだ、神人の子らであっても。
 ファネルは違った。かつて、神人と呼ばれた父なる種族がこの大地に君臨した時代を彼は知っている。それはある意味では平穏を意味する時代でもあった。
 その時代には、神人の子らの集落がいくらでもあったものだった。平和で、穏やかで、安全な集落が。その中で自分たちはいまのような心地よい生活をしていたものだ、とファネルは思う。もっとも、ファネルにとってはさほど長い間ではなかったのだけれど。シャルマークの大穴。魔族の氾濫。そして神人の撤退。それらがこの世界を変えてしまった。神人の子らの穏やかな生活など、消えてなくなった。
 ファネルは湯につかったまま両手を掲げる。するすると水滴が肌の上を滑って、また湯へと戻っていく。いつもは緩く結んだ長い髪も、いまはほどいて湯に散り乱れていた。
「この手で」
 どれほど何をしてきたのだろう。長い時間だ、とファネルは思う。いまとなってはほとんど同世代の子らはいない。みなとっくに旅立ってしまった。ふ、とファネルの口許が歪む。
「お前なら、どうした? サイファ」
 呟いてみてから、己で驚く。自分が何を言ったのかと思った。すぐ隣でおそらくはイメルとエリナードが入浴している。聞こえない、気配も窺えない、そのように魔法がかかってはいる。けれど、すぐそこに、同じ湯に。さっとファネルの肌が湯の熱さにではないものに赤くなる。
「サイファ――」
 もう一度、今度はしかと口にしてみた。なぜ急に、古い幼馴染みのことを思い出したりしたのだろう。エリナードに話したから、ではないだろう。原因は一つ。
「お前は、なぜ人間を選べた?」
 サイファは、人間の戦士と人生を共にし、そして彼と共に最後の旅に出た、と聞く。羨ましいような、哀しいような決断だ、とファネルは思う。サイファは最後の旅路のその果てまで、彼と共にあることができたのだろうか。
「私は――」
 無理だ、と思う。エリナードにそこまでの決意を抱かせることはとてもできない、と。そしてはっとした。
「なにを」
 自分はいま、何を。動揺するファネルの周囲、湯が波立っていた。身じろぎに層倍して湯が騒ぐ。ファネルは一人、息すら止めた。それでもまるで鼓動のように湯は荒立った。
「エリナードは、違う。そうではない、違う」
 繰り返す言葉。自らに言い聞かせるように。首を振ればほどいた髪がまとわりついた。掲げたままの腕を下ろし、顔を覆う。
 確かに、エリナードに深い興味を抱いてはいる。それは彼の向こうにフェリクスを見るせいだ、それだけは、間違いのない事実だ。
 闇エルフのファネルにとって、フェリクスは希望だった。我が子であると言う以上に、光だった。闇エルフである自分に子があると知っていて、なおかつその子と巡り会う、そのような奇跡があるなどとても信じがたかった。それでも、一目見て彼を我が子と知った。
 ファネルの長い生の中、闇に堕ちた同族など多くいる。その多くの中でも、我が子があると知っている者などいないに等しい。探せばもしかしたらいないこともないかもしれない。けれどファネルは知らない。闇エルフとは、そう言うものだ。自分こそ、例外なのだとわかっている。その例外が、出会った奇跡。
「フェリクス。お前は――」
 エリナードの傍らにあることを許してくれるだろうか。エリナードに、フェリクスのような安らぎを得ている自分。すぐそこにいるだけでいい。生きて、そこで泣き、笑い、生きているだけ、それでいい。フェリクスができなかった様々な時間を生きる彼を見ているだけで充分だ、そうも思う。思うのに、気づけば拳を握っていた。
 首を振り、浴槽の縁へと上がっては腰かける。髪から零れる湯を絞れば湯に煌めきが移るかのよう。艶やかな髪を背にさばき、ファネルは嘆息する。
「どうしたものかな」
 どうもこうもない。おそらくは女性に興味がない、などと平気で言ってのけたエリナードに影響されているだけだ。
 思うものの、違うとも思っている。先ほどのイメルに見せたあの笑顔。自分に見せるものとは違う、その決定的な差異にファネルは嫌でも気づいた。
 当然だ、とも思う。自分とはさして長い時を過ごしたわけでも、短くとも太い絆があるわけでもない。イメルは長い間共に歩んできた彼の親友だ。違って当然。頭では、理解している。
「闇エルフだな、私は」
 呟いて、苦笑した。嫌なものは嫌だ、とはっきり口にする半エルフは少ない。ましてこのような個人的な関係に不快を抱く者は多くはない。闇エルフは、違う。感情の起伏が半エルフより激しい、それもあまり倫理的ではない方向に。溜息が小さな浴室にこだまする。
「恋ではないと、わかっているのに」
 もしもこれが恋であったなら、自分は間違いなくただひたすらに突き進んだろうとファネルは思う。フェリクスが息子と呼んだ相手であろうが、エリナード自身がいまだライソンを愛していようが知ったことではないとばかりに。
 突き進むことのない自分だからこそ、これは恋ではない、そう思う。それがどことなく、寂しかった。エリナードが、誰より愛しげな目を向けた相手をファネルは知っている。その目を見たいとふと思う。見たいのではない、こちらを向いてほしいと思う。
「それでも、恋ではない――」
 あるいはそれは、エリナードの向こうにフェリクスを見つつ、彼がタイラントに向けた眼差しを見る行為なのかもしれない。フェリクスが幸福であった時代を瞥見したい、それだけなのかもしれない。
「エリナード」
 唇に彼の名を転がせば、涼しげな甘さ。はっとして口許を押さえてファネルは首を振る。恋ではない、そう言った唇にいま自分は何を感じたか。苦笑して、再び湯につかれば熱いほどの湯が肌に痛い。
「イメルとお前はいま、何を話しているのだろうな」
 仕切り板のすぐ向こうにいるのだろうエリナードとイメル。不意にファネルの視線が下へと流れ、慌てて上へと戻った。
「私はあまりにも愚かだ」
 板の向こう、エリナードがいる。己の行為にファネルは顔を赤らめ、溜息をつく。
「神人の子とは我ながら思えんな。まったく――」
 だから自分は闇エルフなのだ、と開き直ってしまいたくなる。かといって、自らの行為に弁明などできなかったけれど。
 思えば思うほどエリナードとイメルに思考が向いてしまう。否、イメルにどんな話をしているのか、イメルにどんな態度で接しているのか、そしてイメルにどのように肌に触れさせているのか。
 そこまで至ってファネルは息を飲み、思い切り口許を押さえた。誰が見るでもない、一人きりの浴室。それでも辺りを見回した。自分が何を考えたかを思えばこそ。
「まいったな……」
 イメルは友人、裸を見られて困るような仲ではない。言い切ったエリナードだった。それなのに。
「嫌がるだろうな」
 次は自分が入れてやろう、などと言えばエリナードは嫌がるだろう。ましてこのような下心などというものではない、劣情同然のものを抱かれていると知れば。
「どうしたらいい?」
 呟く相手はフェリクスか、あるいはリィ・サイファか。いずれにせよ答えなど返ってくるはずもないこと。そして気づいてしまった。
「どうも、こうも……ない、か」
 もうエリナードが欲しい。恋ではないかもしれない。それでも、欲しい。側で見ているだけでもいい。それで充分ではある。
 けれど、友人では在れない。そのような目では見ることはもうできない。いつからなのだろう。ただ、怪我人を引き取っただけだったはずなのに。
「看病慣れしているからだ、と思っていたのだがな」
 アリルカ独立戦の時、そしてその後も、いったいどれほどフェリクスの看病をしたことだろう。何もできないシェリと言う名の真珠色の竜。タイラントの魂の欠片。その手助けをしているだけ、のつもりだった。タイラントの手足になっているつもりだった。本心は、違ったけれど。シェリも、フェリクスとシェリの友人であったリオンも、気づいていた。知らなかったのはフェリクス一人。ファネルがどのような気持ちで彼を見ていたのかは。
 そしていま、エリナードの看病に、あの時と似た思いを抱いている。それは否定できない事実だ。たとえエリナードが欲しくとも、彼にフェリクスを見ているのも事実だ。
「嫌、だろうな」
 エリナードがそれを知れば不愉快だろうと思う。恋とは、そのような形でするものではないだろう。相手の向こうに誰かを見るなど、冒涜だろう。まして我が子の影を追っているのだから。
「だからこそ――」
 言えはしない、とファネルは思う。ほんのりと、この思いを抱いたまま、誰にも気づかせずにエリナードの看病を続けるのが平穏、というものだろう。
「――その、あとは?」
 呟いてしまった、己に。ファネルは拳を握りしめ、天井を仰ぐ。いずれ、ある程度一人で生活できるようになったならば、エリナードは出て行くことだろう。すでに彼の家はあるのだから。そこから無理に連れ出したのが自分なのだから。
「また――」
 一人になる。元に戻るだけ。フェリクスが住み暮らしたあの家に、また自分だけで住む、それだけだ。遠くに行くわけでもないだろう。エリナード本人はどうやらアリルカに定住するつもりらしい。ならば言葉を交わす機会もある。顔を見ることも、姿を眺めることも。
「それでも」
 一人になる。決して孤独が苦手なわけではない。むしろ、人付き合いは苦手だ。嫌でもせねばならないから、している。それがアリルカと言う国だ。同族だけで固まって暮らしているわけではない。誤解も間違いも多発する。だからこそ、言葉も態度も惜しんではならない。その上で、押しつけてはならない。人間が元々嫌いなファネルには、難儀で面倒でもある。けれどここはフェリクスが生きた国。
「お前も……人間だな。エリナード」
 今更の事実に気づきファネルは苦笑した。あの生き生きとした表情を、くるくると変わる感情の波を、すぐ側で感じていたかった。
 だからこそ、理性は呟く。無理だな――と。




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