間違ってもエリナードに魔法を使わせるな、とくどいほどに言いつけ、公共浴場の前、ファネルはイメルに彼を手渡す。
「意外と過保護だよなぁ、ファネル。ちょっと驚いたよ」
 手早くエリナードを裸に剥き、イメルは笑った。エリナードとしては溜息でもつくしかない状況だった。どうにもこの長い人生、誰かに常に過保護に扱われている気がして仕方ないエリナードだ。一つ肩をすくめれば、それをもイメルは笑った。
「ここ、すげぇな?」
 話を変えよう、とばかりエリナードは言う。公共浴場の、湯船につかっていた。たっぷりとした大きな湯船は十数人が一度に入っても充分に広い。それにしても不思議だった。ここはイーサウではない。
「温泉も出ねぇのに、よくこんだけ維持してんな?」
 湯を沸かすには金がかかる。水だけは潤沢にあるアリルカだ、そちらは問題ないとしても燃料はどうしているのだろう。昔の星花宮にはこれと同じほどか更に広い浴場があったけれど、仮にも国王直属機関だ。予算に不足はなかったし、なにより魔術師の住処だけあって多くの小型火炉を整備し続けてもなんの問題もなかった。それを問うエリナードをイメルが笑った。
「いやいや、単純なんだよ? ミスティの一派がさ、火炉の研究しててね。と言うか、むしろ火系魔法の魔法具化の一種って言ったほうが正確かな? その研究中にさ、偶々大型魔法具を作ったら成功して。で、順調に研究は成功してさ。って言っても、だったらそれをどうするよって問題になってね」
「あぁ、使い道がなかった? まぁ、魔法の研究なんてそんなもんだわな」
「だよな。でも無駄にするのもなんだしってことで、じゃあ火炉にして浴場を作ったらどうかって。この国は元々が神人の血を引く人たちばっかりだったろ? だから公共浴場ってもんがなかったんだ、最初は」
 神人の子らは一様に人目に肌をさらすのを異様なまでに嫌う。結果として、公共浴場、などというものは想像の埒外だ。だがアリルカ建国以来、神人を祖父とする子らに加えて人間も、と定命の子らが増えた。神人の子らのよう、頑丈ではない種族だ、できれば身体の汚れは温かい湯で拭いたい。かといって各戸で風呂が用意できるほど裕福な国ではない。
「それができなかったころはさ、かなりの頻度で病気が発生しててね。いまはずっと改善されたよ」
 魔法の研究が実用化され、社会に有為であった稀有な一例だ、とイメルは笑う。事実、魔法の研究とはそう言うものでもある。
「まぁ、あったかい風呂ってのは贅沢なもんだしよ、ありがたいがな」
 もうもうと湯気の立ちこめる浴室にいるだけで、痛みが軽くなる気すらした。冷やせば痛むのだから、温めれば軽くなるのは物の道理、というものかもしれない。ふとエリナードは笑う。
「でもよ、恩恵にあずかってんのは定命の子だけかよ?」
 少しばかり気になった、それが。同じ神人の血を受けていてもその子らとは違う。神人の子らは決してここを利用することはあるまい。エリナードは思う。ファネルもイメルに自分を手渡して、消えてしまった。己で拒んだくせに、なぜか気にかかる。
「いいや? ほら、あっち。壁で仕切ってあるとこ、あるだろ。でも見なよ、湯船は繋がってるんだ」
 イメルに言われてそちらを見やれば確かに壁はあり、湯船の半ばまで達して仕切られている。
「あっちは神人の子ら専用。あぁ、別に専用ってわけでもないかな。使ってなかったら誰でも使うからね。恋人同士がいちゃついてることもあるみたいだよ」
「そりゃまた色っぽい」
 からりとエリナードが笑った。思い出していた、ライソンのことを。イーサウは温泉の町。二人で個室になった浴場を借り切ったことが何度もある。
「でもなぁ、あれだよな。難点っつーかよ、声が聞こえちまうのがなぁ」
「……エリナード、お前は公共浴場で何するつもりなんだよ!?」
「そりゃナニを?」
 にやりと笑うエリナードを戯れにイメルが叩く。奇妙に子供に返った気分だった。幼かった頃は信じがたいことにあまりにもお互いに内気すぎてこのような遊びをしたことはないのだけれど。
「ほんっとに! 絶対にやめろよな!?」
「やる相手がいねぇですし」
「あ……」
 軽く言った言葉にイメルが強張った。気にするなと肩を叩けばわずかにうなずく。粗忽なところは相変わらずでそれはそれで心が和む。
「じゃあ、ファネルも使ったりするわけか、あっち?」
 話題をそらせば硬い笑みが返ってくる。それがすぐさま悪戯っぽく輝くのもイメルらしい。エリナードはこんなものにほっとする自分を感じて驚いていた。どれほどイーサウで必死だったのかわかるというもの。
「いまも使ってるかもね。話が聞こえてたりするかもなー」
「おい!」
「聞こえてまずいことは話してないと思うけど、エリナード?」
「いや……そりゃ、そうなんだけどよ」
 ちらりと浴槽の中を見やってしまった。満々とたたえられた湯の向こう、覗けば彼が見えるのかもしれない、そう思ってしまった。慌てて視線をそらせばイメルが笑う。
「覗くなよー? ま、覗いても見えないし、そもそも音遮断の魔法かけてあるからね、話も聞こえないようになってるよ。神人の子らは繊細だからね、気になっちゃうとのんびりできないみたいだから」
「――イメル」
「待て、エリナード。風呂ん中で魔法飛ばすんじゃないよ!」
「お前が悪い!」
 すっかりと温まった体はまるで怪我の前のように楽だった。ここまで手助けしてくれたイメルに礼代わり、暴れて見せる。
「だからちょっと待てって! ほんっとに、もう……。風呂入ったらいきなり元気だよな、お前」
「そりゃ俺はエリナードだしよ」
 意味の通らない言葉だった、余人には。けれど相手はイメル。星花宮のイメルだ。にやりと笑う彼にエリナードもまた笑みを返す。
「さすが水の申し子って? さすがだよな……、フェリクス師。名前を付けたときに、もうお前のことがちゃんとわかってらしたんだ」
「当然。俺の師匠だぜ?」
 ふふん、と鼻を鳴らすエリナードの肩にイメルは湯をかける。冷えてしまわないように、と。それなのにイメルはもう熱いのだろう、浴槽の縁に腰かけて熱を冷ましていた。
「フェリクス師が逝ってしまわれて、もう二十年くらいになるのかな? 色々あったよな」
「まーな」
「お前は、どうするの、これから」
 真剣なイメルに見下ろされ、エリナードは顔を顰める。痛みが軽くなっているとはいえ、自力で動けるような体ではない。イメルと同じ場所に上がりたくともできなかった。見下ろされる眼差しなど気にするものか、と目を閉じて苦笑する。
「どうって? 一応、言ったよな? イーサウの表の稼業からは全部退いたしよ、こっちで研究三昧できりゃ大喜びってとこなんだけど?」
「違うよ」
 そっとイメルが首を振った。その拍子に短い髪から水滴が飛び散りエリナードに降りかかる。フェリクスに切られた髪だった。それ以来、イメルは髪を伸ばすことをやめたらしい。反省の印、のつもりだろう。
「ファネルのこと」
「はぁ!? ちょい待ち。なんでファネルの話になんだよ!」
「だって、ファネルが変わったように見えるから。お前が来てからだよ? と言うか、あんなに強引に自宅に引き取るなんて言うと思わなかったよ、俺は」
 あれから少し時間が経って、イメルにもわかっている。エリナードが、友人の前だからこそ無理をして強がって見せていたのだと。そうせざるを得ない心境だったのだと。そしてファネルが何をして、何を言ってくれたのだろう、いまこうしてまた手を貸せ、と言ってくれるまでになった。それだけで何度礼を言っても足りない気分だった。
「変わった? そうか? どっちかって言ったら俺が知ってた、昔イーサウに来てたファネルだぜ?」
「うん、そこまで戻った感じ。だからさ、エリナード。わかってる? フェリクス師が逝ってから、二十年だ。神人の子でも、時間は流れる、俺たちと同じようにではなくっても」
 真摯なイメルの声にエリナードは無言だった。ファネルが我が子を失ってからの二十年。少し、わかる気がした。彼はフェリクスの父。エリナードの目にはよく似ているように見える二人。
「……俺は、師匠とある意味で繋がったまんまだったからな。タイラント師を殺されて、どんだけ師匠が絶望したか、狂いもできないで生きた気分ってのが、少しわかる。感じてたって言ったほうが正しいか」
「うん。全然意味は違うんだけど、たぶん、違うと思うんだけど。ファネルはフェリクス師を愛してた、いまもまだ、だよね、当然。――なんていうかな、師の姿に、少し似てた、そんな気がするよ。独立戦争が終わって、淡々と生きてたころのフェリクス師にね」
 それがエリナードがアリルカに来て変わった、イメルは言う。生き生きと、楽しそうにしていると。エリナードは答えず湯面を見ていた。
「お前もさ――」
「また進め、なんて軽く言うんだろ、お前はよ」
 かつてフィンレイを亡くしたエリナードにイメルが言った言葉。渋い顔をするイメルにエリナードは笑う。
「ライソンも、言うと思うぜ? でもな、よく考えろ。なんでファネルなんだよ?」
 世話になっているならついでにそういう仲になれ、と言うのではあまりにも短絡的にすぎないか。顔を顰めるエリナードにイメルは取り合わない。
「だって、気になるんだろ? 気になってるから、俺に風呂を手伝えなんて言う。お前、友達に裸見られて動揺するような可愛い性格してないだろー。ファネルに見られたくないって、そりゃ意識してるって言わねーのー?」
「おっ前なぁ!」
 図星だった。腹立ちまぎれに水面を叩けば盛大に上がる水飛沫。いささか盛大に過ぎる、とイメルが気づいたときには思い切り魔法を食らっていた。
「だから! 風呂で魔法放つな! ていうか! 魔法使うな! 俺がファネルに叱られるだろ。あれだけしつっこく言われたんだぞ!?」
「こんなの使ったうちに入るか!」
「で、エリナード。どうするの?」
「……どうもしねぇよ」
 たぶん。心の中で付け加える。そっと眼差しを落としたエリナードを、イメルは追い詰めなかった。言うべきことはおそらくすべて言った。この見かけによらず繊細な友人が、ひと時でも心安らぐ時間を持てればいい。そんなことを思う。小さく笑ったイメルをエリナードが見咎めた。
「いや……俺は恋愛問題起こしたことないなぁ、と思ってさ」
「悪かったな、色恋沙汰ばっかりでよ」
「後世、お前は『恋多きエリナード』とか言われるようになっちゃったりしてね。ま、気にするなよ、もてない男の僻みだからさ」
 嘘をつけ、とエリナードは溜息をつく。本人にその気がまるでないだけで、イメルに恋焦がれている男女が多々いることをエリナードは知っていた。だがそれ以上に、話題がそれてほっとしていた。




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