こんなことが気になるとは自分もずいぶん回復したのだ、とエリナードは思う。ファネルが近くに来るたび、気になって仕方ない。
「動くな、おとなしくしろ。手当てがしにくい」
 いまもまた、怒られた。傷自体は何一つとして残っていない足ではあるけれど、その体の奥深いところがだめになっている。ファネルが処方した鎮痛作用のある軟膏が殊の外によく効いた。
「あー、うん。わかってる」
「何を今更気にしている。言いたくはないが、私が気にしていないと言うのにどうしてお前が気にする?」
「そりゃこっちにもいろいろ事情っつーもんが……」
 言い返せば睨まれた。ここはおとなしく手当てされていた方がいいだろう。とはいえ、軟膏を塗るより先に言った方がいいような気もしてきた。
「なぁ、ファネル。ちょっと頼みがあるんだけどよ」
「なんだ」
 手当てが先だ、と言わんばかりのファネルの手をエリナードは掴んで止める。そうでもしなければこのまま続けられてしまいそうだった。
「言うまでもねぇと思うけどよ。俺、頭のほうは元気なわけよ。枕も上がらねぇ病人ってわけでもねぇし」
「自力で動こうとしなければもうしばらくでずいぶん楽になるはずだぞ」
「わかってるって。無茶はしねぇよ。そうじゃなくって……。なんつーか、その。はっきり言って――」
 がりがりと己の頭をかきむしる。どうしてこんな他愛ないことが言いにくいのか。相手が神人の子だからではない。ファネルだから。その理由までは考える気にはなれなかったけれど。
「あのよ、風呂入りてぇの。せめて体を拭きたい。もう自分で自分が汚れてるのが気になって気になってどうしょもねーの!」
 あれ以来、エリナードの言葉に忠実に従ってくれているつもりかファネルは毎晩横に寝ている。今更近づくなとは言えなかったし、それを嫌がっているわけでもない。それでも、自分の臭いが気になる。そっぽを向いたエリナードをファネルが小さく笑った。
「あぁ、なるほど。そう言うことか。ずいぶんと回復したものだな。――では、公共浴場にでも連れて行くとするか」
 何気なく立ち上がり、ファネルは支度をする。どこからともなく石鹸だの浴布だのが出てくるに至ってエリナードは自失から立ち直る。
「ちょっと待て! 念のために聞くけどな!? あんたが入れてくれるつもりじゃねぇだろうな!?」
「他にどうしろと? それこそ念のために聞くがな、エリナード。自力で入浴して、そしてまた体を傷める羽目になるのか。それほどお前は愚か――」
「やめてくれ! 頼むから、やめろよ!? あんた、俺が言ったこと忘れたのか!?」
「なにをだ?」
 神人の子に向かって忘れたか、とは中々に面白い問いだと思いつつファネルはエリナードを助け起こす。それまでは嫌がらなかった。
「だから!? 俺は女に興味ねぇの!」
「それは聞いたし覚えている」
「だったら察してくれよ! 野郎に裸見られんのだって気になるんだっつーの! おまけに風呂入れられるだ!? 頼む。勘弁してくれ」
 頭を抱えるエリナードにファネルは笑う。怪我人の看護だ、それだけだと思えばいいだろうに。どうにもそうは思えないエリナードらしいと思えばずいぶんと楽しい。
「ではどうするつもりだ? まさか……」
「自力でなんとかしようなんて言わねぇよ。んなこと言ったら連れて行かねぇってあんた、言うだろ?」
 そのとおり、と深くうなずくファネルにエリナードは溜息をつく。神人の子の無垢さは話に聞いていたほどではなく、彼らとて生身の生き物だ、と思ったのはどうやら勘違いだったらしい。
「――イメル呼んでくれ」
「うん?」
「あんたに入れられるよりイメルの手ぇ借りた方がよっぽどマシだ!」
 これが吐き捨てるようだったならばいかにファネルとはいえ傷ついたことだろう。が、エリナードはお手上げだとばかり笑っていた。致し方ない、とファネルは肩をすくめエリナードを抱き上げる。
「おい、ファネル」
「なんだ」
「せめて担いでくれ。抱き上げられるのは――」
「なにか言ったか」
 じろりと睨まれエリナードは首を振る。どうやら何を言っても無駄らしい。この家に連れてこられた時には思い切り担いでいたではないか、心の中だけで文句を言う。
 小屋から降りるとき、エリナードは驚いた。文句も止まるほどに。はじめて見たときには縄梯子だった。それがいまは。
「このほうが楽だろう、と仲間が直してくれた」
 梯子と階段の中間のようなものが小屋から伸びていた。互い違いになった段がつけられた梯子は確かに両手が塞がっていても上り下りがしやすそうではある。とはいえ、この重たい体を抱き下ろすことを考えればぞっとするエリナードだ。
「あー、その……」
「手間ではないし好きでしていることだ。気にするな」
 先に言われてしまっては黙るしかない。せめてファネルが楽なよう重量軽減の魔法でもかけたいところではあるのだけれどそれすら無言で制される。ならば黙っておとなしく抱かれているより仕方なかった。
「……イメルのことだが」
 それでも、できるだけ人目につきにくい道を選んでくれているのだろう。抱かれているエリナードとしてはこの上なくありがたい。ゆったりとした、揺れの少ないファネルの歩みに彼の鍛錬のほどが窺われた。
「おうよ」
「お前は言ったな? 同性に肌を見られるのが嫌だ、と。私の目にイメルは男性として映っているのだが、違ったのか?」
 エリナードはその場で力なく座り込んでも誰も怒らないだろうと思う。もしも自分がそうできるのならば、だ。生憎とファネルに抱かれている身だ、長い溜息でもつくしかない。
「誰がどう見たってあれは野郎だろうがよ!」
「ならば、なぜだ? 私がだめでイメルならばいい理由が聞きたい」
 ふとエリナードの唇が小さくほころぶ、わずかな苦みと共に。まるでライソンのようだ、そんなことを思った。その思いを胸の奥に抱けば温かくて重いぬくもり。
「単純な話だぜ。イメルは言ってみりゃ俺の幼馴染みだ。ガキん時から一緒だからな。今更恥ずかしいもへったくれもねぇよ。ダチ相手に欲情するほど落ちてねぇし」
 言った途端ファネルが体を強張らせる。ぬかった、とエリナードは唇を噛んだ。ファネルは神人の子、言葉使いには気をつけなくてはならない。そう、わかっているはずなのにどうにも気が抜けている。
「悪い、どうもあんたと喋ってると――」
「気にするな。少し驚いただけだ。半エルフほど純ではない、言ったと思うが?」
「まぁ、聞いたけどさ」
「それで? 幼馴染みか、イメルが? 星花宮で?」
 無理に話を戻した気配にエリナードは小さく笑った。それを咎めるファネルの気配もする。くすくすと笑えば溜息をつかれた。
「あぁ、星花宮で、だ。ほんのガキのころから一緒だよ。あいつのほうが幾つか年上なんだけどよ、ここまで来ると幾つか、なんてかなりどうでもよくなっててな」
「なるほどな……。それは、なんと言うか、懐かしいような仲だな」
「懐かしいと思うほど離れてねぇんだけどな。なんのかんの言ってずっと付き合いは続いてるからよ」
 ファネルには、そのような親しい友人はいないのだろうとエリナードは思う。いまこうして短い間とはいえ厄介になっている身だ。親しい間柄の人がいれば、否応なくわかるというもの。エリナードはそれを感じたことがなかった。
「誤解するな、私にも幼馴染みはいるぞ。もっとも、もう旅に出てしまったがな」
「悪――」
「くはないから気にするな、と言っている。ちなみに、お前も知っているぞ、その幼馴染みを」
 からかうように言う自分の声をファネルは己の耳で聞いていた。まるで堕ちる前のようだ、と。まだ世界に明るさを見ていたころの。それだけエリナードと交わす言葉が興味深く、面白い。ただ楽しいだけかもしれない、ふと思った。
「知ってる? 俺、神人の子の直接の知り合いなんてろくにいないぜ? せいぜいエラルダくらいか。あぁ、サリム・メロール師――は違うって言ってたよな」
「リィ・サイファだ」
 言えば腕の中でエリナードが硬直した。まじまじと顔を覗き込んでくるその眼差しにファネルは後悔をする。言うべきではなかったのかもしれない、彼にとっては伝説の魔術師なのだから。
「リィ・サイファ!? あんたの幼馴染み!?」
「――それこそ、私のほうが少し年上だがな」
「上!? つーか、あんた幾つなんだよ!? いや、いい、いいからな? 神人の子らってすげぇなぁ。生きた伝説だぜ」
 からりとエリナードが笑った。そのことにファネルは目を見開く、それから自分が驚いたのだ、と知った。ただ、エリナードは仰天したと笑っている、それだけ。遥かな時間を過ごしてきたファネルを、だからどうしたとばかり気にしていない。ふ、とファネルの唇がほころんだ。
「知ってる? リィ・サイファの師匠、リィ・ウォーロックが俺ら魔術師の祖なんだぜ」
「あぁ、知人だ」
 今度は腕の中でエリナードが咳き込んでいた。よほど驚いたらしいが、笑いすぎて咳き込んだだけでもあるらしい。
「いや、ほんとすげぇな! すっげぇ有名人がダチと知り合いかよ。すげぇなぁ」
「私自身はただのファネルだがな」
「そう言えるあんたって結構すげぇんだと思うぜ、俺は」
「なにがだ?」
「ほら、俺のダチはこんなやつなんだぜとか、自慢したくなるもんだろ。それをしないあんたって自制心が強いっつーか、けっこう嫌いじゃねぇな、そう言うの。あ、いや。変な意味じゃねぇからな? ご心配なく。おう、イメルだぜ。ちょうどいいところにいやがったわ」
 茶化すよう言うエリナードのその声が、それでも慌てているのをファネルは面白く聞いていた。そして笑いながらイメルに手を振る彼を見る。
「可愛く抱っこされてるんだなー、エリナード」
「ぶちのめされてぇか? うん? なぁ、イメル。俺たちダチだよな? ダチってのはお互い仲良く手を貸しあうもんだよな? 手伝え、イメル」
 笑いながら恫喝するエリナード、身を震わせながら笑って肯うイメル。彼らがすごしてきた友人としての月日がそこにある。ファネルは感じたばかりの明るさが吹き飛んでいく気がした。




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