数日と言う時間のせいか、それともさほど眠りを必要としない身でありながら毎晩付き合って横になってくれるファネルへの甘えか。気の緩みがエリナードの唇をつく。
「ライソ――」
 はっとして口をつぐんだ。どうぞ隣にいるファネルが今回ばかりは本当に眠っていますように。体を硬くしたエリナードの祈りは聞き遂げられなかった。
「どうした?」
 ゆっくりとファネルが向き直る。エリナードがなにを言ったのかわからなかったはずもないだろうに。それでも淡々とした表情だった。あるいはそれにエリナードは師の姿を見たか。
「昔も、間違えたんだ……」
 小さく笑った。仰向けになり、顔の上に両腕を乗せる。動けば足が痛んだけれど、胸のどこかほどではない。ぼんやりと口にするのはいまとなっては昔話のようなあの日のこと。
「まだ、あいつと付き合う前。――俺んちにさ、泊ってったことがあってよ。朝、間違えたんだ」
「誰と?」
 不思議そうな、それでも少しばかり早い問いだった気がした、ファネルは。自分でそれが意外で、エリナードの自嘲の笑い声を危うく聞き逃すところだった。
「前の男と」
「前? ライソンの前、と言うことか?」
「おうよ。別にあいつがはじめての男ってわけじゃねーし。――俺が殺した、俺の同僚」
「おい」
 言い様にファネルは半身を起こす。それでもエリナードには触れられなかった。まるでフェリクスのようだ、ふとそんなことを思う。氷で身を鎧った小柄な魔術師。痛々しいなど言えば侮蔑の眼差しが飛んできたことだろう。それでもただ独り立っていた魔術師。その弟子が、同じ顔をしていた。
「同僚、とはどう言うことだ? 星花宮の魔術師だった、と言うことか?」
「いいや? 俺が師匠んとこを離れて傭兵隊にいたころの同僚。青き竜って隊だ。そこの副隊長してた――フィンレイ。気もあって、面白いやつで、一緒にいて楽しかった」
 訥々とエリナードは語る。なぜその恋人を自らの手で殺すことになったのかを。ファネルは黙って聞いていた。
「ライソンをさ、そいつと呼び間違えちまって。気にすんなって笑ってたけど、あとで聞いたらめちゃくちゃ腹立ったって、やっぱりそんときも笑ってやがったわ」
 両腕の間からくぐもった声が漏れた。それなのに笑っているエリナード。無言でファネルは腕を伸ばす。ためらいすら、しなかった。腕の中、エリナードをそっと抱く。
「つらかったな、色々と」
 強張ったエリナードの体がひときわ硬くなる。まるで石のように、否、氷のように。あのころ、溶かすことのできなかった氷をいま、ここで溶かすことができたならば。ファネルは抱え込んだエリナードの髪を撫でていた。
「定命の子は、つらいものだな。神人の子のよう易々と闇に堕ちることもかなわない。いっそ堕ちればそれはそれで楽になれるものではあるからな」
「――あんたがそれを言うのかよ」
「経験談として言っている。己を保持し続けるのは、中々に厳しいこともある」
 ファネルは己が堕ちたその日のことを決して考えない。何があったのか、誰に言うこともない。そして闇エルフとは、そう言うものだ。同時に、いまこうして明るい場所に還ってきてもその心の深い場所に傷はある。たとえ完治したとしても傷を負った事実までもが消えはしないように。闇エルフとは、そう言うものである。
 だからこそ、エリナードが痛ましい。定命の子の脆い精神では闇に堕ちることすら難しい。ただ耐えて生きるしかないとは、どのような罰なのか、そんなことすら思うほど。
「――選択肢として、死を選ぼうとはしなかったのか」
 定命の子の最後の手段。エリナードがいまここに生きていることで答えは知れている。その強さがまぶしいとも思った。だがエリナードは首を振る。
「昔……師匠に抱え込まれたって言ったよな? フィンを殺した直後のことだ。当たり前だよな、俺は暴走した。そのままだったら死んでた。死なせなかったのは、師匠だ。自分の我が儘だ、死なせたくないだけだ、生きる方がつらいのはわかってる、それでも僕が嫌だって、俺を抱えて守ってくれた――」
 ぬくもりさえ拒絶する自分をただ黙って抱いて守ってくれた師。己の命をかけて生かしてくれた。必ず生かして見せると守ってくれた。
「なんとか日常生活だけは、送れるようになっても、やっぱ立ち直り切れなくってよ――」
「そしてライソンに出逢った?」
「あぁ。傍若無人な若造だったぜ。人の話は聞かねぇわ、来んなって言っても平気で店に来るわ。……それなのに、なんでかな。気がついたらすげぇ好きだった」
 ほんの短い時間を共に歩くだけだと覚悟して、そして並んですごしてきた年月。彼の死にも決して泣かなかった。ライソンが生きた時間を、彼と共にあった時間を無駄にしないために。それなのにどうして今になって。
「無理をするな。泣きたいときには泣け。定命の子は易々と堕ちることはないとはいえ、堕ちるときには堕ちるもの。お前が堕ちればフェリクスが悲しむだろう」
「……どっかで見てそうな気がするしな」
「そのとおりだ。――それに、私もとても悲しく思う」
 口をついた言葉にファネル自身が驚く。けれど嘘偽りない本心だった。それと自覚するより先に言葉になった、ただそれだけ。ファネル以上に驚いただろうエリナードが涙に濡れた顔を上げ、彼を見た。何度か瞬き、そしてはじめてファネルの腕に気づいたよう彼の体を押し退ける。
「エリナード、聞いているか――」
「聞いてるっつーか、もう泣きやんだ。平気だっつーの」
「おい」
「つーか、あんたに言うのはどうかと思うんだけどよ。俺、女に興味ねぇの。そっちがそんなつもりじゃなくっても、なんか妙に気になっちまう。頼むから離してくれって」
 寝台の上で身じろぎそっぽを向いたエリナードにファネルは何を思うより先に赤面した。動揺する神人の子にエリナードは内心で身悶えしている。真剣に、困っていた。
「あぁ、いきなりこんなこと言われたらあんたも動揺するよな。気色悪かったら追い出してくれて全然かまわねぇよ。そろそろなんとかなりそうだし。無茶しなかったら――」
「気にならん」
 いままで赤くなっておろおろとしていた神人の子の声とは思えなかった。思わずエリナードはファネルを見つめてしまう。片肘をついて半身を起こしたまま、ファネルは覆い被さるようエリナードを見つめていた。
「半エルフと違って、なにも知らないと言うわけでもない」
「まぁ……そりゃそうだよな。あんたには師匠がいるわけだし」
 人の肌身を知るからこそ、フェリクスがいた。道理ではあるが、積極的に口にしてほしくはないファネルだ。悪戯に睨めばまだ涙に濡れたままの藍色の目がにやりと笑う。
「それ以前の問題として、半エルフよりは色々と知りもしている。半エルフは旅立つまで恋も知らずにいる者も多くいるからな」
「そんな綺麗なもんか? 生憎、魔術師込みで人間の場合ってのはよ、愛と肉が一致しねぇことが多々あるもんなんだぜ? 惚れてなくてもすることはできるからな」
 それこそ神人の子に向かって口にすることではない。羞恥に身悶えて話にならなくなる。それなのにファネルは真っ直ぐとエリナードを見たままだった。たとえほんのりと目許を染めていようとも。
「心が伴わなくとも? それを私が知らないと思っているのか、お前は。フェリクスが幸福に生まれたとでも思っているのか?」
「――悪い、失言」
「気にするな」
 ぽん、と子供にするよう頭を撫でられ、今度はエリナードが悶絶したくなってきた。それをファネルがくすくすと笑う。
「我々神人の子は、たいていの場合、自分が男性体だと言う自覚はあるものだ。それでも同族は同性しかいない。必然的に圧倒的に人間世界で言う同性愛者が多くなる。気味が悪い? 思うはずもないことだ」
 どうやら話が元に戻ったらしい。ファネルは気にしない、と言ってくれたらしいが今となっては気になるのはエリナードのほうだった。
「あー、まー、その。なんつーの?」
 なにをどう言えばいいのだろう、そもそも何を言いたいのだろう、自分は。混乱しているのだろうとは思うけれど、何をどう混乱しているのかもエリナードはわかっていない。そしてファネルは混乱していることそのものを理解していなかった。
「気にしないとは言ったが」
 悪戯に眉を上げて見せたけれど、エリナードは気づきもしなかった。目の前の自分を見ているのに、眼差しは遠い。それがどことなく癇に障った。片手を伸ばして頬をつつけば驚いて目を丸くするエリナード。突如として羞恥に襲われたファネルだった。それでも言うべきことは言う。
「――間違えられるのは、不愉快でもあるぞ」
 隣にあったぬくもりを、エリナードはライソンと間違えた。かつて過ごしていた伴侶と間違えた。当然のことだとファネルは思う。思うけれど、不快なものはやはり不快でもある。それなのに、エリナードが小さく笑っていた。
「なにがおかしい」
「いや、別に。なんつーか、俺さ。神人の子らと付き合いほとんどねぇの」
「それは……そうだろうな。我々のうち、いまもまだ旅立っていない者はほとんどアリルカにいるからな」
「だろ? だからさ、神人の子らって結構違うんだろうな、とか思ってたわけよ。まぁ、師匠の師匠の師匠が半エルフだったからよ、常人よりは知ってるけどな」
「あぁ……サリム・メロールか。いや、知り合いではない。昔……フェリクスに聞いただけだ」
「おう、その人。俺が星花宮の弟子になったころにはもう旅に出ちまってたから、直接知りはしないんだ。でも逸話は色々聞いてる。それでもやっぱ実際こうやって仲良くなってみると全然違うもんだよな?」
「――どう違う?」
 もうほとんど乾いた藍色の目が笑っていた。すぐそこで、ファネルを覗き込むように笑っていた。目をそらしかねてファネルは瞬きを繰り返す。
「すげぇ生身っぽくって、話してて楽しい。――楽しいって、久しぶりに思い出した。そんな気がした」
 ライソン亡きあと、必死で走り続けてきた自分だったのだと、ようやく理解した。ただただ走り続けてきた自分を、ライソンはどう思うか。ようやく、そう考えることができるようになったのだとエリナードは気づいた。




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