痛みに目覚めるたび、小さな火桶の側に座っていたファネルが無言で近付いてきては痛みをほぐしてくれた。夜中でも、朝方でも。何度でも。一晩だけではなく、何日も。
「なぁ、ファネル」
 さすがに気になりはじめていた、エリナードも。ここは小さな家、否、小屋だ。この部屋以外に部屋がないのはわかっている。ならばファネルは。
「どうした。痛むか。――少し、薬を変えてみるか。いささか強いが、効果はあるはずだ」
「本職の薬草師みてぇだな。――違ぇよ、そっちじゃねぇ。痛みはずいぶん楽んなった。あんたの言うとおりだ。魔力の垂れ流しをやめりゃ多少は楽だぜ」
「ならばどうした?」
 懸念のあふれる表情。フェリクスがここに生きていた当時、ファネルは同じ顔をしていたのかもしれない。そしてフェリクスはその思いを受け取ることができなかったのだろうとエリナードは思う。
「あんたのことだ」
 腕を伸ばせば黙って体を起こしてくれた。手慣れ過ぎていて、どれほど師が手間をかけたのか、それを思うとなぜか背中に冷や汗を感じるエリナードだ。
「私の?」
 不思議そうに言いつつファネルが背中にクッションを挟んでくれた。足が思うように動かないエリナードだ。そうしていると座っているのも楽だった。
「あんた、いつ寝てんだ? 看病してくれるのはものすごくありがたい。それは否定しねぇよ。でも、あんた。寝てねぇんじゃねぇの?」
「まぁ、寝てはいないな、このところ」
「おい!」
 声を荒らげたエリナードをファネルは片手で制する。小さく笑っていて、その苦笑の具合にエリナードはライソンを思う。彼とは違う笑い方。だからこそ、思うのかもしれない。
「お前は忘れていないか? 私は神人の子だ。寝なくともどうと言うことはない。ましてこのような短期間ならばなんら問題はない」
「短期間?」
 いくら魔術師で時間感覚が常人とは違うとはいえ、エリナードも定命の生き物だ。かつては研究に没頭して三日三晩起きていたことなどが頻繁にありはしたけれど、ファネルの家に運び込まれてすでに十日だ。決して短い時間ではない。訝しげな顔をするエリナードにファネルがまたも苦笑した。
「その気になれば年単位で寝ないことが可能だぞ、我々は」
「そりゃ……中々無茶苦茶だな。ちなみに?」
「経験談として、五年は行けるな」
 恐ろしい話を聞いてしまった、とばかりエリナードは体を震わせる。が、本心は違う。痛ましく思っていた。ファネルが言葉を濁し、あまつさえ微笑んで言ってのけた五年という時間。彼が闇に最も深く堕ちていた期間に他ならないと察していた。
「だから――」
「って言って、はいそうですか、問題ねぇなら頼みますわってな調子に行くかってーの」
「お前な……」
「なんだよ?」
 ファネルが呆れ、エリナードが言い返す。だが言葉はそこで止まる。ファネルがフェリクスを思い返しているのを如実に感じていた。
「まぁ……とはいえ、半病人の怪我人だ。置いて出かけるわけにもいくまいよ」
 肩をすくめて苦笑して、話をなかったことにしようとするファネルの袖、咄嗟にエリナードは掴んでいた。その事実に自分で驚くほど。それを苦笑に紛らわせ、エリナードは首を振る。
「もう一組、なんかねぇかな? 寝袋とか、そんなのがありゃいいんだけど」
「あぁ……誰かに余分の毛布をもらってくるか。それでいいな」
「おうよ。いつまでもベッド占領するってのも悪ぃしよ」
「……お前な」
 今度はエリナード本人に向けてファネルが呆れていた。長い溜息をつき、腕まで組んでみせる。それをエリナードがまったく理解した様子もなくきょとんと見上げているのだから、いまはいないフェリクスを心の中で叱りつけたくなってしまう。
「半病人の怪我人に毛布を敷いた床で寝ろ、と言えると思うのか、お前は」
「いや……別に言っていいんじゃね?」
「いいわけがないだろうが!」
 言い様に鮮やかな金髪を思い切りかき混ぜてやった。子供にするように。フェリクスにしてみたいことだったけれど、果たせなかった遊びのような仕種。エリナードは声を上げて嫌がる。それなのに笑っていた。
「ガキじゃねぇんだからよせ!」
「なにを言うか、孫が! 息子の息子が偉そうな口を叩くな。お前はベッドだ。人の心配をする前に少しは回復させろ」
「……孫」
「人を祖父様のなんのと言ったのはどこの誰だ」
「……いや、俺だけどよ」
 そしてエリナードがこらえきれなかったよう、ぷっと吹き出した。つられてファネルまで笑いだす。その拍子にずれた上掛けをなおして足を温める。冷えると痛むくせに床で寝るとはいい度胸だ、と叱りたくなった。
「でもさー」
 なんとか唇を引き締めてエリナードはむつりとして見せる。それでも目が笑っていた。ファネルは話半分に聞き流そうと努力する。アリルカと言う国ができて以来覚えた技術だ、と思いつつ。
「あんたがそこで起きっぱなしでさー、俺はぐーすか寝てるわけ? なんつーの? 良心が痛むっつーかさー」
「痛むのは足だけにしておけ。問題ない」
「あるのは俺だっての。その辺察してくれよ」
 先ほどファネルが漏らしたよりも長い溜息をつかれてしまった。どうやら気になって気になって仕方ないらしい。
 それがファネルの心を温める。人に聞く限り、そして本人の弁からもエリナードはフェリクスによく似ている、と言う。ならば元気であったころの彼はこのような言いぶりで、あるいは態度で人を案じたのだろう。タイラントを失ってさえ、フェリクスが常に誰かを慮っていたのをファネルは覚えている。
「なに笑ってんだよ?」
「――フェリクスもお前のようだったのかと思ってな」
「逆だ逆。俺が師匠みてぇなの。ほんっと、やだよなぁ。昔さ、イメルには言ったんだぜ? 憧れのタイラント師の真似っこなんざ恥ずかしくって見てらんねぇよなってさ。なのに俺はどうよ? 妙なとこまで似ちまって。まったく」
「通常、人間世界での親子とはそう言うものらしいからな」
 歯切れの悪いファネルの言葉にエリナードが笑う。伸ばした拳がぽん、とファネルの胸を叩いた。
「他人事みてぇなこと言ってるけどよ、あんたもだぜ? どうも他人みてぇな気がしねぇもんだから、俺が好き勝手言ってるってわかってる?」
 ファネルの表情は見物だった。美しい青の目が大きく丸くなり、そして破顔する。この世にこんなにも美しいものがあったのかとエリナードが驚くほどに鮮やかに。
「似ているか?」
「昔も言ったよな? 他の誰がどう思おうが、俺はすげぇ似てると思う。目許なんかそっくりじゃん?」
「そうか?」
「おうよ。おかげ様でガキのころの我が儘繰り返してるみてぇで楽しいわ」
 肩をすくめたエリナードの思い出話を聞きたかった。星花宮にあった日のフェリクスの話を。タイラントと生きていたころの彼の話を。そしてエリナードとフェリクスの話を。
「子供だと言う自覚があるのならば――」
「あるけどよ、俺もいい大人なの。わかる? 看護人が徹夜だの床で寝るだのしてて安穏と寝てられるほど能天気でもねーの」
 話が巡り巡って戻ってきた。どうやらエリナードは忘れるつもりはないらしい。それにファネルは小さく笑う。案じられる自分というものをついぞ経験したことがない。ふとそのことに気づいた。
 否、一度だけ。フェリクスの去り際に。彼は言った。闇に堕としたくはないから、旅立ちを見ないでほしいと。ファネルの顔がわずかに強張り、気づけばその手がエリナードに握られていた。温かい、生きた手がそこにある。ほっと息をつけば何も言わずに手が離された。なによりありがたく、どことなく心許ない。それが不思議だった。
「かといって、お前が――」
「それ、繰り返しだから。ファネル」
 また同じ議論をすることになる、と声を上げて笑うエリナードにファネルは救われた気がしていた。かつて見知っていたエリナードと、見目形は大差ない。傷を負って、体が利かなくなっただけ。輝かんばかりの金髪も、藍色の目も同じ。けれどその目の深さが違っていた。時の流れをファネルはそこに見る。
「神人の子に言うのはすっげぇためらいがあるんだけどよ? 他意はないし、そんなつもりは毛頭ない。単なる提案。いい?」
 そこまで念を押されれば言わなくともわかる、というもの。ファネルはそっぽを向いて赤らんだ頬を隠す。エリナードこそが視線を外した。
「このベッド……師匠が寝てたんだよな? 一人でっつーか、一人と一匹で? そのわりにゃ広いっつーかさ。俺もガタイのいい方じゃねーし、あんたは神人の子だし。背はあっても幅はねぇだろ。だったら……まぁ、行けるかな、と」
 言っている自分が恥ずかしくなってきたエリナードだ。何も照れるようなことではないし、本当にただの提案のつもりであったものを。
「あぁ……まぁ、問題は、ないだろうな、確かに」
 ぼそりと向こうから声が聞こえた。神人の子にしては掠れた声。ファネルもたまらない羞恥か緊張かを覚えている、と思っても少しも気が休まらない。
「あー。別にさ、口説いてるわけじゃねーんで」
「言うな!」
「照れられるとすっげぇ照れるの! その辺汲んで!」
 耐え切れずに怒鳴ったエリナードの声に、背を向けていたファネルのその肩が揺れた。どうやら笑ったらしい。この際だ、笑われようがどうだろうが照れられるよりはずっといい、そう思うことにエリナードは決める。
「で?」
 自力で横になろうとした途端、ファネルが飛んでくる。上手に介添えをして横たわらせてくれた。そして目が合う。それを避けたくて自分で動いたものを。
 致し方ない、とばかりエリナードはファネルの腕を引いた。無言でファネルも目を閉じる。ためらったのち、寝台に上がってきた。隣に横になられ、エリナードは今更ながらに後悔をする。すぐそこにある温かい体。だから笑った。
「どうした?」
 答えずなんとか背中を向けた。ファネルが同じよう反対を向いたのを感じる。それでもそこにあるぬくもり。痛かった。




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