エリナードの家に手伝いに行く。イメルが訪れる。彼は明るく立って歩く。イメルが怒鳴る。その繰り返しだった。
「いい加減にしろ!」
 ファネルが声を荒らげたのは、十日ほども経ったころのこと。我ながらよくぞ我慢したものだと思っている。
「あの……ファネル?」
 大きな声を上げた神人の子に心底驚いたのだろうイメルのきょとんとした顔。ファネルは騙されない。厳しい顔で睨み据えれば無言であらぬ方を見やるイメル。
「お前もだ、エリナード」
 自分のなにが悪い。言い返そうとしたエリナードが口をつぐんだ。否、つぐまされた。否、声もなかった。
「おい、ファネル!」
 軽々と担ぎ上げられ、エリナードは身をよじる。そのたびに酷い痛みが走ったけれど、それ以上に屈辱だった。
「――動くな」
 わずかに首を振り向けただけのファネル。担ぎ上げられているエリナードにはその顔がよくは見えない。幸いだった、のかもしれない。
 ぞくりとしていた。いま感じたのは紛れもない殺気。戦場で感じるよりなお強い殺気にエリナードは寸時とはいえ声を失う。
「イメル。お前もだ。お前がエリナードを動かしている。しばらく顔を出すな」
「でも!」
「彼は私が預かる」
 それだけを言い、反論を許さないとばかりの眼差しでイメルを見やれば諦めたよう魔術師はうなずいた。納得できないのは担がれている当人だ。
「あのな……」
「喋れば殺す」
「……おい」
「二度目の忠告はないと思え」
 さすがに黙らざるを得ない。黙って力を抜けばそれでいいとばかりファネルがうなずいた。
「身の回りのものは後で私が取りに来る。まとめておいてくれ」
 イメルに言い捨ててファネルは家を出た。このままの恰好で運ばれるのかと思えば悶絶したいエリナードだった。とはいえ、さすがにおおよその騒動がすでに近隣に広がっていたと見える。辺りは人気がなくなっていた。このあたりが神人の子らの心遣いのよいところだ、などとエリナードはのんびりと思う。そうでも思っていなければとてもではないが平静ではいられない。
 口をきくな、と言われたままのエリナードは、意外と素直に従っている自分というものにわずかな驚きも感じていた。神人の子の優美な肩に、魔術師とは言え人間の成人男性である自分の体が乗っている。それもまた、意外だった。
「……なにが聞きたい?」
 ゆっくりとした穏やかな声だった。先ほどの殺気は勘違いだ、と言われればエリナードはおそらく信じただろう。それほど何事もなかったかのような。
「……神人の子らってのは力仕事が苦手なもんだと思ってたぜ」
 とりあえずは話してもいいのだろう。むしろファネルの激情が去った、と思っていいのだろう。からかうよう言えば体の下の肩が動く。すくめたらしい。
「長く戦闘班を取りまとめているからな。鍛えれば、力はつく。たとえ我々であっても」
「なるほどね」
「――悪かったな」
「なにがだよ?」
 詫びられる覚えはまるでないエリナードだった。それなのにどうしてだろう、ファネルがこれほどにも後悔した声を響かせるのは。
「お前にわかるかどうか。私は――闇エルフでな」
「そりゃ、師匠の親父さんだし?」
「そう言う意味ではない。やはり一度は闇に堕ちた身だ。激高することもある」
「生きてりゃカチンとくることなんざぁザラじゃね?」
「そう言うものか?」
「そういうもんだと俺は思うぜ。あんたらがどう考えるのかはわかんねぇけどよ。別にいいんじゃねぇの。腹立ったっていいだろ。いっつもいっつも聖人君子がしてられっかっての」
 いかにも腹立たしい、と言わんばかりのエリナードの声にファネルは口許をほころばせる。どうもイーサウで嫌な思いもしていたようだ、彼は。
「それにしても……さっきは驚いたぜ。すげぇ殺気だった」
「だから――」
「戦闘班の班長だっけ? そういうもんじゃねぇよ。なんつーの? 軍人だってよ、使わなきゃ腕は錆びるんだ。アリルカが実戦に出たのって結構前だろ」
「大きな戦争はな。戦闘はかなり頻繁にあるぞ」
「それにしたって、すげぇわ。ぞくっとした。この俺が」
 にやりと肩の上で笑っているのだろうエリナードをファネルは感じる。あからさまな殺気をぶつけられて、それでも笑っていられる者がいる。それは新鮮な驚きとも言えた。
「俺はどっちかって言ったら戦乱の中で育って生きてきたからな。すげぇもんはすげぇよ。怖いとは思わねぇし、ただすげぇなって思うだけ。敵でも腕のいいやつがいたりするとクソ、すげぇな!って思っちまうしな」
「いたのか、そんな相手が?」
「昔な。イーサウ独立戦争の時、俺はイーサウ側にいたんだ。敵は暁の狼って傭兵隊が主力だったんだな、これが」
 からりとエリナードが笑った。ファネルは体に入りかけた力を強いて抜く。暁の狼と言う傭兵隊に所属していたのが誰か、知らないはずもなかった。
「で。ファネル。俺はどこに拉致られるわけよ?」
「別に拉致しようと言うのではない。看病だ」
「患者の意向は無視かよ?」
「言うことを聞く患者ならば私も善処するがな。お前はどうだ?」
「口ではいい子にしますって言うぜ?」
「ならば誘拐させてもらおう」
 にやりと笑ったファネルは少しばかり驚いた。楽しい、そう思っている。あれからどれくらいの時間が流れたのだろう。フェリクスを湖に送り、そして。ただぼんやりと、旅立つこともできずに流れてきた時間。彼が守りたかったこの国を眺め暮らしてきた時間。いま、楽しいと思っている。
「長生きはするもの、ということか?」
「なんだよ、急に」
「いや……。意外と楽しいと思ってな」
「そりゃ簡単だぜ。指摘していいもんかどうか迷うけどよ。聞く?」
「耳に痛いことならば聞き流そう。人間のように忘れる、と言うことができればいいのだがな」
「ま、それもそうだわな。――あんたが俺と喋ってて楽しい理由ってやつは簡単だぜ。わかるか、ファネル? 俺は親父とそっくりなんだぜ、態度がよ」
 少なくともかつては頻繁にそう言われたのだ、とエリナードは笑う。ファネルの知らないフェリクスではあった。それでも。
「懐かしいわけはないはずなんだがな」
「面影ってやつじゃね? その辺が楽しいとか?」
「――今更だが。不快ではないのか、お前は」
「師匠に似てるって言われりゃ口ではふざけんなって言うぜ。俺もいい年だ。ガキじゃねぇんだぜ」
 ならば言葉ではない別のところでは。ファネルは口をつぐんだ。それでも忸怩たるものがないわけではない。
「まぁ、祖父様に甘やかされるってのも悪くねぇかな」
「……なに?」
「親父の親父だったらジジイだろうが。あんたが言ったんだぜ。俺は――」
 ライソンの死を無駄にしたくなかった。むしろ、彼と共に生きた時代を無駄にしたくなかった、エリナードは。だからこそ、必死で必死で走り続けてきたこの年月。誰かのためではない。ライソンのためですらない。自分のため。魔道を歩くとはそう言うこと。それでもどこかにライソンがいた。
 師ですらも救い切れなかった自分を明るいところに引き上げてくれた若き傭兵。共に過ごす時間は短いと覚悟していた。
「あんたも知っての通り、傭兵にしちゃ、あいつは長生きだったぜ。ちゃんと自分の家で死んだしな。それでも、やっぱあいつはただの人間だったからな」
 自分とは違う時間を歩いたライソン。ライソンとは違う流れを歩く自分。わずかな青春のひと時だったかもしれない。それでも、だからこそ、無駄にはしたくなかった。
「昔イーサウであんたが見た俺と、いまの俺が違うってんなら、やっぱそう言うことなんだろうな。たかが二十年ちょいなんだけどよ、これでも生身で時間も決まった生きもんだ、俺は。けっこう変わるもんだよな」
「変わっていて、変わっていない。定命の子の逞しさでもある」
「まぁね。だからさ、ファネル。俺は俺で心身に傷がある。こんなこと、二度は言わねぇよ。それを癒す時間があるってのも悪くねぇと思ってる。あんたはあんたでやっぱり傷がある。闇エルフだし、何より師匠のことがある。だよな?」
 会った回数こそ何度となくともエリナードは気づいている。この闇エルフが我が子をかけがえなく愛していたと。定められた命の時を迎えた我が子を見送らざるを得なかった親でもあると。
「俺は師匠にはなれねぇけど、ままごとの身代わりくらいはできるもんだ。傷を舐めあう茶飲み友達ってのも、いいんじゃね?」
 肩の上、担ぎ上げられたままエリナードは偉そうに笑った。つられるよう笑う自分をファネルは感じた。それでいいのかとも思う。
「茶飲み友達、か。まず茶を飲めるくらいに回復するのだな」
「茶くらい飲めるっつーの!」
「どうだかな」
 ふふん、と鼻で笑ってファネルは一本の樹木の元にたどり着く。樹上にかけられた小屋はかつてフェリクスが住んでいたもの。いまはファネルが住んでいる。
「動くなよ。落ちるからな」
 ひょい、と軽く指を動かせば縄梯子が降ってくる。エリナードは神人の子の魔法だ、と驚いていた。彼らは生まれながらに魔法が使える、とは知ってはいるが実見することは滅多にない。
「おい待て、あんた! 俺を担いだままのぼる気か!?」
「他にどうしろと?」
「無茶すんな! ちょっと待て」
 自分の魔法でなんとかしてもよかった。だがファネルの心遣いが無駄になる。とはいえ、ファネルにだけ苦労させる気もない。
「魔法を使うな、と言っているだろう。聞いているのかお前は」
「自力でなんとかしようたぁ思ってねぇよ」
「本当だな?」
 念を押すファネルの肩の上、エリナードがその身の重さを減じていた。




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