イーサウで起きた魔法事故で、エリナードは瀕死の重傷を負った。かろうじて一命は取り留めたものの、潰れた足は動かない。なめらかな元の形を取り戻しているだけに痛ましかった。 「だからな、人の言うこと聞けよ!?」 施療院の前を通りかがったファネルは今日もイメルの怒鳴り声を聞く。エリナードがアリルカに移ってきて以来よく聞く声だった。 「何をしているのだか」 まったく未知の人物、と言うわけではないエリナード。むしろ奇妙な親和感すら覚えている彼だ。何度か施療院に見舞ってもいたのだが、そのたびにファネルは自分のほうこそが痛いような思いをしていた。 エリナードはあまりにも平然としていた。ただ足が動かないだけだ、と言って何も問題はない、魔法で補助すれば充分に生活はできる。そう言う。言い張るのですらない。ファネルが小さく溜息をついたとき、イメルが凄まじい勢いで施療院から飛び出てくる。また喧嘩をしたのだろう。 当然だ、とファネルは思う。彼らは長い付き合いの友人同士。エリナードの傷がいかに重いか、それをどれほど気遣っているか、二人ともにわからないはずがない。 その上でエリナードが大丈夫だと言うのならばイメルは飛び出すより仕方ないか、とも思う。ファネルは黙ってその場を後にし、けれどなぜか振り返る。施療院はそうあるべき静けさを取り戻していた。 結局イメルは折れたらしい。エリナードが引っ越す、と言う。否、引っ越した、とファネルは聞いた。イーサウに戻るのか、と思いきやアリルカに定住する、と言う。 そして一軒の小さな家にエリナードは自力で移った。遠目に見ていたファネルは唖然としたものだった。本当に、自分で歩いている。一瞬の半分ほどは回復したのかとも思った。けれどそのようなはずはない。神人の子の目には彼がまとう魔法の気配が見えていた。 「あの、馬鹿……」 罵った自分の声にファネルは驚き苦笑する。少しだけ、フェリクスを思った。彼にとってエリナードは息子のようなものだったと聞く。肩をすくめてファネルはエリナードを見ていた。 それから数日、日に何度となく彼の小さな家を見に行った。顔を出すのは一日に一度ほど。既知の者として用はないか、手は足りているかと尋ね、そして辞去しては気づかれないよう様子を窺う。 「そろそろ限界だな」 イメルの悲鳴じみた絶叫が耳につきはじめてもいた。何度となく足を運ぶイメルは泣きだしそうな顔をしてエリナードを説得しようとし、ことごとく拒絶されている。 「絶対に無理だ! お前、自分の体だろ!? わからないはずないじゃないか! どうしてそんな無茶するんだ!」 「無茶なんかしてねぇっつーの。できるからやってるだけだって。そんな怒るな、イメル」 「怒らせてるのはお前だ!」 外まで聞こえるような怒鳴り声にファネルは顔を顰め、そしてイメルが腹を立てて外に出るまで待った。案の定、ほどなくイメルが足音高く出て行く。そっと入り込めば、椅子に体を預けたエリナードが溜息をついていた。 「あのなぁ、イメル。何度も――」 「イメルではない。私だ」 「お? ファネルか。ん? なんの用だよ」 警戒心もあらわなエリナードに小さく微笑んでしまった。それほどの拒絶は本来、彼ら神人の子らの種族が見せる姿だと言うのを思っては。 「なにがおかしいんだよ?」 険のある目。藍色の眼差しが、かつて出会ったころより荒んでいた。当然だとファネルは思う。彼はすでに恋人を失っている。いま体の自由も失った。 「痛いならば痛いと言えばどうだ?」 もう少し他に話の持って行きようもあるだろうと我ながらファネルは己の馬鹿さ加減に腹が立つ。けれどエリナードはにやりとしただけ。 「痛ぇって言おうが言うまいが、痛いもんは痛い。だろ?」 「だが、言うことでお前の心は楽になる」 「そうか? 関係ないぜ。居ても立っても寝ても覚めても痛いもんは痛い」 形だけは取り戻したエリナードの足。こうして座っていれば何事もなかったかのようだった。けれどファネルは気づいている。エリナードは心身で感じている。 彼の足は元には戻らない。二度とかつてのように歩くことはできない。短い時間ならば魔法で補助することはできる。現にエリナードはそうしている。その弊害に彼が気づいていないとはファネルも思ってはいなかった。 「ならばなぜ人の手を借りん?」 「平気だから?」 「どこがだ?」 「だから!」 イメルと繰り返した問答をファネルともするのかと思えば自然とエリナードの声は荒ぶる。その嵐を静めたもの、ファネルの言葉だった。 「お前は自力で動くことができる。いま、こうしているように。それは事実だ。それまでは否定せん。だが、そうすることでお前は体力を失う。魔術師にとって魔力が体力ならば逆もまた同じではないのか。あえて浪費、と言うが、魔力を浪費して自ら動こうとすればするだけ、体力は落ちる。体力が落ちれば、当然にして体は痛む。そうではないのか」 滔々とした、と言うには静かな声だった。ただ事実だけを述べているファネルの声にエリナードは言葉を失う。ようやく絞り出した声は苦かった。 「……イメルでも気づかなかったってのに、なんであんたはそんなに詳しい?」 「長いことフェリクスの面倒を見ていたからな」 あの、タイラントを失ったフェリクスの側にファネルはいた。日常的に魔力が暴走しているも同然のフェリクスを補助し、かろうじて生き長らえさせていたのはファネルたち彼の友人だ。その友人たちの中でも、ファネル一人だった、フェリクスが意識を失った自分の体を預けたのは。だからこそ、わかる。魔術師にとって魔力が体力という意味が。 「……なるほどな。そういや、そうだったな。あんたが師匠の面倒見てたんだっけ」 「ただ、側にいただけだ」 「――誰かが側にいてくれた。俺にゃそれで充分だ。たぶん、師匠も」 つい、とエリナードが目をそらす。彼にとってもいまだフェリクスは後悔の傷となっている。なにかができたはず。なにもできなかったと知っていてすら、自分が最善手を選んでいたと確信していてさえ、後悔はする。それが生きていると言うことなのかもしれない。 「だからな、エリナード。あのフェリクスですら、私の手を許していた。黙って勝手にやっていただけではある。が、許容はしていた。お前が誰の手を借りることになんのはばかりがある」 「イメルの手ぇ借りろってか?」 「なぜできん。かろうじて回復した怪我が重くなるとは言わんが、必要もないのに痛むことになるのではないのか」 ファネルが無言でエリナードの足を見やっていた。椅子からすんなりと伸びた足。動かないとは、痛むとはとても思えない。それでも言葉を発するたび、身じろぎをするたび、押し殺した痛みをファネルは感じ取っている。 「……イメルはいいやつだぜ。でもな、カレンに筒抜けになっちまう」 ぽつり、エリナードが言ったのはしばらくの後のことだった。黙って待っているのも気を遣わせるか、とファネルが淹れてやった茶を受け取り、口にした彼はようやく話し出す。 「お前の弟子なのだろう? 事故で庇ったのはカレンだった、と言っていなかったか?」 「おうよ。だからこそってやつだ。魔法に事故はつきもんだ。別にあいつが悪かったわけじゃねぇよ。まぁ、多少は不注意だったかもしれねぇ。でも実験に事故は当然だ。だからな、俺は――」 「カレンに余計な負担をかけたくない?」 「まーな。あいつは俺の怪我でそりゃ落ち込んでる」 「だからこちらにきたのか、お前は」 呟いたファネルにエリナードが瞬いた。それから小さく笑う。そのとおりだ、とでも言うように。 「側にいりゃ、嫌でも傷の程度がカレンにはわかっちまう」 「カレンの怪我は――」 「掠り傷だぜ、当然な。この俺が守ったんだぜ?」 誇らしげなエリナードに、なぜかファネルはフェリクスの面影を見た。できることならば、フェリクスはそうしてタイラントを守りたかったことだろう。守れず、逆に守られたフェリクスを思う。 「カレンはこれからもっと進んでいける。俺の怪我ごときのために止まっていい才能じゃねぇよ。あいつは努力するってことも知ってる。魔道を歩き続けるってのがどう言うことかわかってる――わかってても、わかってねぇ他人が俺の怪我のことでどうこう言うのは止められねぇ。だから俺はカレンの側にいるべきじゃねぇんだよ。本人だって歩く覚悟はできてても、俺の体を目の前に見てりゃ動揺はするしな」 肩をすくめたエリナードの強さを見た心地がした、ファネルは。彼は夢想する。在りし日の星花宮の日常を、その光の中にいたフェリクスを。 「なに笑ってんだよ?」 「……いや。お前はフェリクスの弟子なのだな、と思ってな。むしろ息子と言うべきか」 「おうよ。大勢いる弟子ん中で息子って呼ばれたのは俺だけだからな」 胸を張って誇らしげに言うエリナードの目をファネルは黙って覗き込む。藍色の目の中、痛みが透けていた。 「痛いのだろう、エリナード?」 「しつこい――」 「とは思うが、言うまで何度も聞くぞ。痛いのだろう? イメルの手は借りられないのだろう? ならば尋ねる。誰の手も借りたくないのか、それほど依怙地か? 以前のお前は、もう少し大らかだったように記憶している」 「なにを……」 「口にされたくはないだろうがな。お前は愛した人を失った。彼に恥じないよう、とでも考えたのか? 立ち止まることなく突き進んできたような、そんな目をしている」 「あんた……なんで……」 呆然とするエリナードに、ファネルは核心を貫いたのだと知る。一つうなずき苦笑した。 「私を誰だと思っている。あのフェリクスの親だぞ」 ぷ、とエリナードが吹き出した。その拍子に耐え切れなかったのだろう、体が硬直する。咄嗟にその体を支え、ファネルは足に手を置く。 「揉みほぐしたりすると多少は楽なのか」 無言でうなずくエリナードにファネルは答えず黙って手当てをする。ゆっくりとエリナードの呼吸が深くなってくる。 「意地を張るのはよせ。手を貸してやる」 「借りっぱなしってのは性に合わねぇんだよ」 「気にするな。私は私がやりたかったことをしているだけだ」 惨い言葉だとわかってはいる。それでもエリナードはうなずいた、晴れやかに。ほっと息をつき、ファネルは再び手を動かしはじめた。 |