眩暈が酷すぎて、かえってデニスは平常心のような気がしてきた。いっそ開き直ってしまえばいいのだ、と腰が据わった。 そしてようやく興味がわく。どうやらエリナードは自分たちを、あるいはライソンとの愛を真実の愛ではない、と思っているらしい。デニスにはとてもそうは思えなかったけれど、ならば彼が知っているその誰かの話とどう違うのか、たまらなく聞きたかった。 「見当はつくかもしれねぇけどな」 ほう、とエリナードが溜息をつく。どことなく哀しげで、そこはかとなく痛みを伴う溜息。デニスには意味がわからない。 「うちの師匠の話だ」 言って黙ってエリナードは背後に向けて手を伸ばす。デニスには、その仕種が支えを求めているかのように見えた。真実は、逆だった。 「カロリナ・フェリクス師のことですよね?」 「おうよ。言うまでもない。伴侶はタイラント師だ。俺が知る限り、お前が考えてる真実の愛とやらに一番近いのはあの二人だろうよ」 嘲笑めいた声音にデニスは首をひねっていた。が、何を言うより先にファネルが口を挟む。 「メロール・カロリナと、リオン・アル=イリオはどうなんだ?」 デニスに言うつもりはなかったけれど、ファネルは、自分が耳にした限り彼ら二人とて同じようだと感じている。決して口にすることはない、エリナードにすら言うつもりはない、神人の子らが考えるかけがえのない一対を表現する言葉に彼ら二人もまた、相応しいとファネルは思う。 「あの二人も派手な逸話は色々あるみてぇだけどよ。俺はフェリクス師の弟子なんだぜ? カロル師の話はそんなに知らねぇんだよ。ましてあの人は惚気話をするような男じゃなかったしな。――でも、たぶん、あんたの言うとおりだ」 言いつつエリナードが口許だけでちらりと笑う。少しばかり歪んだ笑みにファネルは得心した。カロリナとリオンの話ではデニスが理解できないのだ、と。小さくうなずけば詫びるような眼差し。気にするなと目顔で伝えればエリナードの藍色の目が和みを浮かべた。 「で、うちの師匠だ。どうして俺が真実の愛とやらに一番近いと思ったか」 「その――エリナード師。とやら、と言うのはどう言う意味なのでしょうか」 「そりゃ簡単だ。そんなもんはお前の頭ん中にしかねぇからだ。俺が知ってる完璧な一対ってのは確かにうちの師匠たちだ。でもお前が思ってるような甘ったるい話じゃないぜ?」 からかうような、それでいて辛辣な眼差し。デニスは怯まず真っ直ぐとエリナードを見ていた。どう違うのか、話してほしい。聞けば、自分が間違ってはいないと確信できる。そんな気がしていた。それを見てとったのだろう、エリナードが話を続ける。 「師匠とタイラント師は、確かにまぁ……熱愛ではあったと思うぜ? 四六時中怒鳴り合ってたかと思うといちゃついててな。ったく、弟子の前でもお構いなしだ。その辺がカロル師と違うんだよな。カロル師は一応は人目ってもんを考えてたからなぁ」 エリナードの背後でファネルが忍び笑いを漏らしていた。それが痛いものだとはデニスにはわからないだろう。 いまは亡きフェリクス。ファネルは彼のかすかな微笑さえも見たことがない。楽しそうに過ごしていた毎日など、想像もできないほど淡々としたフェリクスしかファネルは知らない。 「とりあえず、師匠はタイラント師に惚れてたし、タイラント師も心底師匠を大事にしてた」 「それは……その、それでしたら」 「甘ったるいお話みたいな仲だろ? これだけと聞くとな。でもな、デニス。お前も知っての通り、タイラント師は殺された」 ぎゅっとエリナードが拳を握る。まるで後悔の仕種のように見え、デニスは惑乱する。エリナードが悔いる理由が彼にはわからなかった。 「伴侶を殺された師匠はどうしたか?」 「王に復讐を遂げ、そしてこのアリルカと言う国を建国したのだ、と聞いています」 「順序が逆だっつーの。アリルカ建国が先。同時に復讐、が正しい。そもそも師匠がこの国作ったわけじゃねぇよ。あったもんに形を与えただけだ。ま、んなこたぁどうでもいいんだ。師匠個人がどうなったかって話さ」 そしてエリナードは遠くに眼差しを向けた。過去でも思い出でもなく、その場の誰でもないところを見る彼の目。ファネルにはエリナードがなにをも見ていないとわかっていた。 「――師匠は、壊れた」 聞くとわかっていたことを聞かされたにもかかわらず、ファネルが体を強張らせる。そして強いて力を抜いた。エリナードによけいな気遣いをさせたくはない。それでも彼はわずかに首を振り向け、藍色の目が覗き込んでくる。黙ってファネルは首を振る。 「壊れた、とは。その、どう言う意味でしょうか」 二人の間に流れたものに若き魔術師は気づかない。それがファネルを苦笑させた。人の世ではずいぶん昔になる。アリルカが勝利をもぎ取ったのちにこの国に現れた一人の少女の姿を思い起こさせた。 「そのまんまだぜ。最愛のタイラント師を殺されて、師匠はぶっ壊れた。理性も感情もなくしてただ復讐だけを目的に生きた。復讐が終わって、あとは何もできない抜け殻が残った」 「できない、ではなくする気がなくなったのだろうな。いつだったかな……彼は息をするのも面倒だと私に言った」 「あぁ、感覚としてわかる」 「おい」 「違うっての。俺自身の感覚じゃねぇよ、俺と師匠はある意味繋がってたからな。師匠の感覚がこっちにまで流れ込んできやがる。ほんっとに迷惑したわ」 からりと笑うエリナードにファネルは目を細めていた。口ではどうとでも言える。本当の彼の気持ちをファネルは知っている。どれほどつらい思いをしようとも、その繋がりをエリナードが大切にしていたことを。 「心の底から愛して誰より何より大事にして、相手だけがいれば世界すら要らねぇと思うような伴侶を師匠は殺された。無理もねぇことだと俺は思うぜ」 「それは……」 「だからな、デニスよ。俺は師匠たちみてぇな形の愛が至上だなんて思えねぇ。真実の愛だのなんだのって他人はいくらでも好きなこと言うさ。でも残されたほうのことを考えろ」 「ですが、エリナード師! 必ずしもいつも殺されるわけではありません! むしろそのような例は――」 「誰が殺される話をしてるよ? あのなぁ、坊主。いっつもいっつもお手々繋いで仲良く同時にくたばれるのか? 違うだろうが。さっきファネルがカロル師とリオン師のことをちらっと言ってたけどな。カロル師は老衰だぜ? それでもリオン師はどっかが欠けた。リオン師をリオン師たらしめてるなんかがなくなっちまった」 「――当然だ、と言う気がする。魂すら分け合った二人なのだから。一方がこの世を去れば、残されたほうの魂にもまた欠けたものができるのは」 「そういうこと言うとな、ファネル。またこのお子ちゃまはなんて美しい話なんだろうって言うぜ? 現実がどんなものかも考えねぇでな」 デニスははっと口をつぐむ。いま正にそう言おうとしていたところだった。頬に上った血を隠したくてうつむけば、それすらも読まれている気がして身の置き所がなくなる。 「あのな、要するに、だ。真実の愛だなんだってのは本人たちが思ってりゃいいことなんだ、他人がどうこう口出す問題じゃねぇし、他人が賛美するようなもんでもねぇ。現実は遥かに凄惨で厳しいもんだぜ」 「厳しいからこそ――」 「愛があるって言いたいか? ま、ある意味では同感だ、と言っておくか。でもお前が考えてるのと意味は違うぜ。俺は個々人が自分の胸に抱けばいい感情だ、と思ってる。お前みたいに他人の愛情に口出したり持ち上げたりしてぇとは思わねぇよ、そんなの言われたほうは重荷でしかねぇもん」 「……師も、重荷でしょうか。その、ライソンさんのことですが」 ちらりとファネルを窺い見つつデニスは言う。口にしてもいい話題ではあるはずなのだけれど、そこにファネルがいる。どうにも歯切れが悪かった。 「あぁ、重荷だね。あいつもそんなこたぁ望んでねぇって俺は知ってるし。これは俺とライソンの問題だ。ファネルですら口挟むようなことじゃねぇ。まして他人のお前がどうしてなに言うよ?」 「だって、英雄じゃないですか!? 師とライソンさんと、イーサウの英雄なんですよ!」 「だから? 俺たちは他人が英雄だって言いたいがために縛られんのかよ? なんの義理で? 当時イーサウと俺とは利害が一致した。だから協力した。それだけの関係だ。そのイーサウが自分たちの英雄だって持ち上げてぇからってなんで俺が清く正しく慎み深く貞操を貫かなきゃならねぇんだっつーの。んなこたぁライソンが一番嫌うことだぜ」 「お前が幸福ではないからな。彼ならば、お前の幸福を一番に考えただろう」 「意外とそうでもなかったけどな?」 ぱちりと悪戯に片目をつぶってエリナードはファネルに笑う。それでもファネルはライソンがどれほど彼を愛していたのか知っている。そして長く生きてきたファネルはどれほど心に思おうとも、そうはできない世の流れがある、と言うことも学んでいる。だからライソンが本当は何を置いてもエリナードを一番にしたい、そう望んでいたと思っていた。 「……重荷だから、師はファネルと……?」 言った途端だった、デニスが殴られたのは。体が吹き飛ばされてそれと知る。ファネルは動いていなかった。エリナードはそもそも動けない。それなのに。 「愚かなことをそれ以上口にするなら、いまこの瞬間カレンの元に戻す。若さを理由に何を口にしてもいいと思うような愚か者が我が一門にいるとは思いたくないものだがな」 藍色の目が怒りに爛々と輝いていた。す、とエリナードが片手を掲げ、そして何かを引き戻そうとする仕種。デニスはぎょっとした。自分の体が彼の手と共に元へと戻る。ようやく魔力による殴打を受けたのだ、と理解した。 「――エリィ」 まだ掲げたままの手を、ファネルがそっと握った。ゆっくりとエリナードの体から力が抜けて行く。目を閉じ、息をつく。それを確かめ、ファネルはデニスを見やった。 「デニス」 「はい!」 「毀誉褒貶というものは、いずれも人を傷つけるものだと学ぶがいい。真実の愛と持ち上げられても、私とのことを逃げただけと言われても、彼は傷つく。お前はそれを理解しているのだろうか」 言われてはじめてデニスはエリナードとライソンの物語も、いまここにいる生身の彼の過去の話だと気づく。言葉もなく黙ったデニスにファネルはもう目もくれなかった。 「エリィ」 「いや……もう、昔話したほうが早いわ。俺たちは傷を舐めあってるだけかもしれねぇ。でもそれを他人にどうこう言われるこたぁないはずだよな? それに、それだけじゃないよな?」 「言わなければわからないような男だったか、お前は?」 「悪い。だからな、ファネル。妙な誤解をされんのはもう嫌だ。だから、話しちまうけど、いいよな?」 仕方ない、とばかり肩をすくめるファネルにエリナードは目で詫びる。彼の視界の端、懲りずにわくわくと目を輝かすデニスがいた。 |