こんな落ち着かない小屋ではちっとも眠れないに違いない。そう思ったはずなのにデニスは朝の目覚めに快適さを覚えた。それが少しばかり気恥ずかしい。
「ま、いっか。誰も見てないしさ」
 独り言を言ってもここならば誰にも聞こえない。それから辺りを見回して、再び大地の元へと下りて行く。振り返れば、やはり縄梯子の垂れた樹上の小屋だ。あれほど安定感があるとはとても思えなかった。
 デニスはいささか急いで教えられた道を進んでいく。気づけば小走りになっていた。エリナードの住む家の場所へと。いったいこれからどんなことを教えてもらえるのだろう。素晴らしい魔法だろうか。それとも彼の武勲の数々を聞かせてもらえるのだろうか。わくわくとしつつ走ってついた彼の家は、やはり樹上の小屋。
「エリナード師――」
 おはようございます、と呼ぼうとしたらあの神人の子が彼を腕に抱いて降りてきた。見ればこちらの小屋はファネルが移動しやすいようにだろう、縄梯子ではなく梯子のような階段になっている。人間として生まれたデニスにはどちらでも同じようなものではないかと思ったが、神人の子は互い違いに据え付けられた細い段を踏んで楽々と降りてきた。
「おはよう」
 涼しげで、それでいて暗く深い場所から響いて来るような神人の子の声にデニスはどぎまぎと頭を下げる。それを抱かれたままのエリナードが笑っていた。
「よう、ちゃんと寝れたか? イメルの野郎がお前を小屋に案内したって笑ってやがったからな」
「え? ここでは、これが普通なのではないのですか」
「違ぇよ。そんな普通がどこにある。つか、昔はあったらしいけどよ。いまは人間も増えてるからな。ちゃんとした地べたに建ってる家だってあるぜ?」
 どうやら自分はイメルに遊ばれたらしい。気づいたもののデニスは肩を落とすだけだった。どうにも調子が狂う。彼らは偉大な魔術師だと言うのに、なんだろうこの子供のような態度は。
「そう言うな。偶々、あの小屋が空いていただけのことだろう? ちょうど最近ひとり、旅に出たところだ」
 ファネルの言葉にデニスは顔を上げる。寂しげでありながら羨ましそうな気もする、そんな風に思った自分がデニスは少し不思議だった。
「まぁな。おろせよ、ファネル。飯にしようぜ」
 抱かれたまま肩をすくめていたエリナードの要請に従ってファネルはそっと彼を草の上に座らせた。それからエリナードが抱いていた柳の籠を取りあげる。
「座ったらどうだ? 人間は、食事を座ってするものだと思うが」
「それは! はい、そうです!」
「からかうなっての、ファネル。半エルフだろうが闇エルフだろうが飯食うときは座んだろうがよ」
「え……?」
 目を丸くしているデニスにかまうことなくエリナードは籠の中身を取りだしていく。自分がしようとしていたファネルは小さく苦笑していた。やっと、デニスは草地に腰を下ろす。それでも逃げ腰だった、なぜか。
「あの、伺ってもいいでしょうか、エリナード師」
「あ? 別にいいけど? 答えられることなら答えるし、答えたくねぇことならはぐらかすし」
 エリナードの言葉にファネルが笑いを漏らす。小さな声ではあったけれど、草地にぱっと光が射すようだった。
「師は、体がご不自由なのだと伺いました。でしたら、その、普通の家があるなら、そちらにお住いになったほうが楽なのでは?」
 デニスの言葉が何を想起させたか。二人は顔を見合わせ苦笑する。デニスには、これも理解しがたいことだった。むしろ今のところアリルカに来てから理解できたことがなに一つとしてない。
「ここはな……」
 エリナードが樹上の小屋を見上げた。呟くような、懐かしむような声音。そっと細められた目は何を見ているのだろう。ファネルは知っている。彼は思い出を見ていた。
「俺の師匠が住んでたんだ、昔な」
「カロリナ・フェリクス師が、ですか!? こんな……って言ったら申し訳ないですけど、でも、こんな小屋に!?」
「お前、うちの師匠をなんだと思ってんだよ? 別にあのとき師匠は独り身だったし、そんなでけぇ豪邸なんざ要らねぇだろうが」
「エリィ。一人ではない」
「一人と一匹? 俺、見てねぇしな。どっちにしたって豪邸は要らねぇだろ?」
「それは認める」
 やり取りに早くもデニスは眩暈を起こしそうだった。それを空腹ゆえ、とでも思ったのかせっせとエリナードが朝食の支度をしてくれた。と言っても籠から出すだけではあったが。
「焼きたてのパンに昨日作ったばっかのバター。それとオーランドが送ってくれた杏のジャムな」
「それは嬉しい。彼の果物の甘煮はいつもうまい」
「だろ。あんた好きだもんな」
 デニスを忘れた顔をしてエリナードがにこりと笑っていた。忘れられたデニスは、オーランドと言うのはイーサウの同名の魔術師だろうか、と思っている。すでに顕職からは退いたけれど、いまなお盛名は保っている。
「エリィ、頼んでいいか? 熱い茶が欲しい」
「あいよ。デニス、火ぃつくんな」
「はい!?」
「だから、火。それくらいできんだろ。できねぇなんて言ったら今すぐカレンに苦情叩きつけてやるけどな。あのガキ、なに教えてやがったんだよ」
「いえ、できます! できますから!」
「そりゃ結構なことで。だったらさっさとやんな」
 エリナードに命じられてデニスは緊張に震えんばかりだった。単純な、基礎の基礎。それでもできるかどうか覚束ない気持ちになってしまう。
「で、できました……」
「あいよ、ご苦労さん」
 それだけを言ったエリナードの手元、鮮やかに水が集まりつつあった。詠唱の瞬間など捉えられなかった。そもそも詠唱していただろうかと若いデニスが疑うほど。そしてエリナードは無造作にそれを片手に持ち、そう思ったときには反対の手にどこからともなく茶瓶が現れた。ついで茶器が三つ。世界がぐらぐらと揺れている。そう思ったデニスだったけれど揺らいでいるのは己だった。
「あとは面倒見ろよ」
 こちらもどこから現れたのかやかんだった。そこに水を入れてエリナードは火にかけている。茶を淹れられるようにはしたのだから後はファネルにやれ、と言っているらしい。
「お前の茶が飲みたかったのだがな」
 ぼそりと言ってからファネルがなぜか赤くなったのをデニスは見てしまった。見てはいけないもののようで、できればこの場から逃げ出したくなる。できないデニスはせめて、と話を変えた。
「あの、伺っても――」
「一々聞くな、鬱陶しい。だめって言ったら黙んのか? いいからさっさと聞け」
 面倒くさいやつだな、そんなエリナードの呟きにファネルが苦笑する。気にするな、とでも言いたいのだろう、デニスに向かって肩をすくめていた。
「あの。どうして僕が火を? と言うか、このような形を取らずとも、師には簡単なことだと思うのです」
 火を作り、茶道具一式を用意して茶を淹れる。それぞれを魔法で補助するより、すべてを魔法でしたほうがずっと効率もいいだろう。デニスは思う。が、エリナードは真剣な呆れ顔を若人に向けた。
「お前なぁ。そんなことして、生きるの楽しいか?」
 言われた意味がデニスにはわからない。生きるのは、当然だった。生きているから、生きている。なにを考えることもなく、ここに自分はいるから生きている。ただ、それだけのこと。デニスの顔にそれだけのことを読み取ったのだろう、エリナードが顔を歪めた。
「いいねぇ、若いってのは。ほんっと、なぁんにも考えなくったってとりあえず明日は来るもんな」
 首まで振って呆れている。もしかしたらこのままイーサウに逃げ帰った方がいいのかもしれない。ふと思ったデニスをエリナードの藍色の目が射抜いた。
「生きてるってなぁな、何がどうあれ偶然だ。出逢いも別れもここにこうして存在してることも全部偶々だ。だからな、生きてる限り、生きることに真剣であるべきだと、俺は思うぜ」
「それは……」
「――フェリクスの剽窃をしたな、エリィ」
「誰が剽窃だ。いいんだっての、俺は師匠の倅だぜ?」
「――それを言うな。非常にいたたまれない気持ちになる」
「そりゃ失礼」
 くすりと笑った藍色の目はもう鋭さの欠片もない。デニスはイーサウの大英雄の片鱗をいま見たのだ、と思った。イメルならば違うことを言う。デニスは初対面のときから見続けている。見ているのに気づかないのは若さゆえの無知だと、イメルならばそう言う。
「なんでもかんでも魔法でカタがつくわけじゃねぇんだよ、お子様。俺の足だって二度と当たり前には動かねぇ。魔法で歩いてるみてぇにはできるけどよ。でも、それだけだ。必要ならするけど、元に戻ったわけじゃねぇ。それが魔法の限界で、限界があるから俺は面白れぇと思うぜ」
「限界なんて!」
「あるんだっての。いまここで、この時代にはな。この時代なりの限界がある。リィ・サイファの時代には彼の時代の限界があったように」
「実際、いまほど楽に転移魔法を駆使する魔術師はいなかったし、サイファに呪歌は歌えない。違う歌なら歌えるだろうがな」
「だろ。それが時代の限界ってやつだ。だからな、デニス。俺たち魔術師ってのは、その限界を一歩でも先に進めようとしてる人種なんだぜ? それが魔道を歩くってことだ」
 ずいぶんと一度に詰め込んでしまっただろうか。元々子供の相手は得意ではない、むしろはっきりと苦手だ。デニスほど年嵩の子供になれば多少は楽だが、それでも若い修行者の相手はやはり苦手だった。もっとも、子供と思われていることをデニスが知れば機嫌を損ねるだろう。立派に青年の年になるはずだ、彼も。
「とりあえず食えよ。茶も入ったぜ」
「淹れたのは私だが」
「だから?」
 ふふんと笑うエリナードの手にファネルが微笑んで茶器を持たせた。それからデニスにも手渡す。熱いぞ、と一言添えるものだから、やはりファネルにもずいぶんと子供に見えているらしい。
「ありがとうございます――」
 礼を言って熱い茶をすすり、パンを齧る。旨いのに、頭の中身のほうがすでに一杯だった。そしてデニスは茶にむせる。腰を下ろしたエリナードの背をいつの間にかファネルが支えていた、その身をもって。




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