明るく誘うイメルの声にもデニスは朦朧としたまま従うだけだった。先ほどの情景が瞼に焼き付いて離れない。 「ここが居酒屋が集まってるとこ。好きな店を見つけるといいよ。魔術師はよくあっちの店に集まってるね。でも君は君で好きなところを選べばいい。まだ育ち盛りだし、菜の花亭は量もたっぷりで女将の愛情もたっぷりだ!」 からりと笑うイメルの声もいまのデニスには半分も届いていなかった。アリルカの町の中を、だがそれでも目は見ている。 あまりにも想像と違う町だった。神人の子らが多くいる町、国。その姿はこの世のものとは思えないほど美しく優雅だろうと思っていた。あのファネルと言う神人の子のように。 「あの……!」 意を決して声を上げれば話の途中だった。さっと赤くなり、次いで青くなるデニスをイメルは面白そうに見やっている。話を聞いていないことなどとっくにわかっていたイメルだった。 「うん、何?」 「あの……」 「だから、何?」 にこにことしつつ若い彼の話を待つのは中々にイメルにとっても新鮮で楽しい。当然にしてイメルにも若い弟子はいるのだけれど、ここはアリルカと言う不思議な国であり、ついでに言えば自分は塔の正統後継者。すでに腰の定まった若者にしか教えたことがない。 「さっきの……あの、エリナード師は……」 やはりそれか、とイメルは内心でうなずいていた。デニスはカレンの弟子だと言うこと。ならば彼はイーサウから来たことになる。言うまでもなく、エリナードとライソンの話を知っていたのだろう。イメルはその話がずいぶんと歪んだ美しい話になっているのを知っているけれど、若いデニスには事実と創作の境界などわかりもしまい。だからこそイメルははぐらかすことを決めた。いまここで自分が何を言おうが彼らの真実どころか事実を伝えることにすらならない。まして相手は若いデニス。とぼけて抱き上げられたエリナードのことか、と微笑んで見せた。 「あぁ、あれね。知らないかな? エリナード、体が不自由なんだよね」 「――え?」 「まぁ、話してもいいのかな。後でまずかったらエリナードに謝っておいてよ」 言いつつイメルは笑う。ひきつるデニスを見ているのが面白い。が、イメルはエリナードが許しているのを感じている。話してほしくないのならば彼はもう口止めをしてきている。 「不自由って」 「うん、魔法の事故でね。カレンを庇って、足が潰れた」 ぎょっとして息を飲んだデニスを、この一瞬だけイメルは厳しい眼差しで見つめていた。 「デニス。魔法って言うのは、そう言うものでもある。事故が起きる可能性を失くすことはできないんだよ」 「でも……! エリナード師は、あの大英雄じゃないですか! 事故くらい……。それに、カレン師だって!」 「大英雄? なにそれ。エリナードはただの魔術師だよ。有能で素晴らしい魔術師ではあるけど、英雄なんて柄じゃないでしょ。それに、英雄だろうが偉人だろうが事故が起きる時には起きる。そう言うもの」 まだ細い若者の体を、背を折ってイメルは覗き込む。彼はずいぶんとエリナードを信奉しているらしい、と。 「それにね、俺があいつの最もすごいところだと思うのはね、デニス。事故の時、あいつは自分の身の安全なんかかなぐり捨ててカレンを助けた」 「すごいことだと思います」 「本当に?」 からかうように言えば若人らしい不満顔。信じてもらえない、と思ったらしかった。イメルは信じないのではない。彼はまだ知らないだけだ。そして知らないと言うことすら、まだ知らない。それを興味深く愛おしいと思うだけ、年月を重ねてきた。 「俺はね、そのときのカレンがなにをしたのかも、知ってる」 「カレン師が、ですか? 事故を起こしてしまったのでしょう?」 「エリナードが起こしたとは思わないの? まぁ、カレンであってるけどね。でも魔術師なら誰にでもあることだ。けど、誰もが助けてもらえるわけでもない。身を挺して自分を救いに来てくれる師匠なんか、そうそういないしね。でもね、デニス。エリナードがカレンを庇った瞬間、カレンは何をしたと思う? カレンは、エリナードを庇ったんだよ」 ぽかん、と口を開けるデニスをイメルは温かい眼差しで見つめていた。己の師、と言ってもまだまだカレンについたばかりであるのだろうデニスは、カレンのそんな過去など知りもしない。驚きが極まって表現することもできないのだろう。 「俺は、あいつら師弟のその絆こそ、素晴らしいと思うよ。エリナードが成し遂げたどんなことより、カレンを育てたことが素晴らしい」 イーサウで起きた事故の報を聞き、青ざめたイメルの元にエリナード本人から連絡があった。静かなところで療養するから迎えに来い、と。 頃合だ、とエリナードは思っていたのだろう。カレンの元を離れ、イーサウを発ち、自らの研究に専念することができる。そして彼はアリルカに来た。以来、ここに住んでいる。 あの時のエリナードの姿をイメルは決して忘れない。彼は痛む体を隠しもせず、けれど笑って言ったものだった。 「やっと師匠の気持ちがわかるぜ。けっこういいもんだぜ? てめぇの弟子を助けられる力があったって思うのは、悪くねぇ気分だ」 笑えばそれが傷に響いたのだろう、顔を顰めたエリナード。それでも晴れやかな顔をしていた彼。 「ようやくフェリクス師に顔向けできるんじゃないの、お前。ちゃんと可愛い弟子ができましたってさ」 「ったく。おうよ、そのとおりだぜ。悪いか!」 「ほら、怒鳴るな、エリナード。痛いんだろ」 怒鳴らせているのは誰だだの、痛いから薬を寄越せだの散々にわめいていたけれど、そうして友人に率直に甘えることができるエリナードをイメルは彼の友としてこの上なく喜んでいた。 「――あの事故で、エリナードはいまでも足が動かない。痛みもまだあるみたいだしね」 「だから、ですか?」 「あぁ、さっきのファネル? まぁね。他に助けてくれる人がいるのに魔法を使うのは無駄だろう?」 「無駄、ですか……」 どうやらデニスは魔法があればすべてが解決する、と思っているらしい。若者らしい過ちだ。だがいまここでイメルに指摘をする気はなかった。 「一応ね、魔法を使えばごく普通にエリナードも動けるし、階段上ったり下りたりだってできるよ? でもさ、どうしてなんでもかんでも一人でしなきゃいけないの、デニス? エリナードが君の言う立派な英雄だから? 英雄は人の手を借りちゃダメ?」 からかうように、けれど声のどこかに真剣さが忍んでいる。はっとして顔を赤らめたデニスが見上げたイメルは、その声の調子とは裏腹の真摯さだった。 「ま、それだけじゃないけどね」 さらりと言ってイメルは今度は別の方向へと歩きだす。聞いていなかったみたいだけれど、食事をとる場所と買い物できる店の位置くらいは覚えているだろう。もっとも、覚えていなくともデニスには立派な手段がある。誰かに尋ねればいいだけのこと。そこまで面倒見るつもりもない。 「待ってください、イメル師!」 慌てて追ってくるデニスの足音。困った子犬でも飼った気分だ。そんな思いにイメルはくすりと笑いを漏らした。 「あの、さっきの話ですが。僕は、その……」 「あぁ、カレンから聞いてないのが不思議?」 「はい」 「それはね」 ついてきたデニスをイメルは振り返る。にやりとその目を見て笑った。気圧されたらしいデニスがわずかに仰け反り、そしてそんな自分が悔しかったのだろう、小さく唇を噛む。 「君が若いから」 「でも、僕はカレン師の弟子です! そりゃ確かにまだ学院を卒業したばっかりですけど。それでも!」 「ねぇ、デニス。どうしてカレンが君になんでもかんでも話さなきゃいけないの?」 考えたこともなかったことを言われたと、ありありとその顔に書いてあった。茫然としたデニスをイメルは真剣に見ている。 「あのね。俺たち、君から見たら一人前の魔術師だって若いころはあったし、恥もあれば失敗もある。どうしてその全部を若い君に話さなきゃならない?」 「あ……」 「もし君が自分の後継者に相応しいとカレンが思う日が来たら、そのときには全部を話してくれるよ、それはね。後継って言うのはそう言うものだからね。でも君はまだ海の物とも山の物ともわからない。このまま魔道を歩いて行くのかすらわからない。そんな君にどうしてすべてを話す?」 「歩き続けます!」 「うん、そう言うつもりで今いるのは、わかってるよ。それでも先のことはわからないからね。こうしてね、いま俺が話していることだって、君が覚えているかどうかはわからない」 「そんなことは! 絶対に忘れません」 「そうかな? 君はカレンが話したことをちゃんと聞いて、考えて、しっかり覚えてる?」 息を飲んだ、デニスは。無論、そのとおりだと叫びたかった。けれど、本当ではないかもしれないことは、言えなかった。 覚えているだろうか、全部を。きちんと考えているだろうか、すべてを。もしもそうならば、自分は今ここにはいないのではないだろうか。はじめて気づく。 「君はまだ若いし、色々思うところもあるだろうし。だから俺たち大人の魔術師はね、君の頭と心に少しでもたくさんのことを教え込もうとする。どうしてかわかる?」 「そうすることで立派な魔術師になれるように」 「馬鹿だなぁ。誰がそんな話しているの?」 呆れながら笑われた。悪意はない、見捨てられたのでもない。それがわかるより先に、先ほどエリナードにも同じことを言われた、と思ってしまう。 「覚えていてほしいから、だよ。単純なことだ」 「それだけ、ですか?」 「そう、それだけ。でもね、それがどうしても難しい。どんなに言葉を尽くしても、どれほどこっちが頑張っても、全部は覚えていてもらえないし、俺だって言い忘れもある。だから折に触れて何度も何度でも言うんだ。少しでも俺たちの経験を役立ててほしいから」 ふ、とイメルの眼差しが和んだ。デニスにはわからない。イメルはいま、タイラントを思い出していた。 あの日、無惨に殺された師。彼がかつて何度となく言っていたこと。それをいま自分が言う不思議と、くすぐったさ。心の中で呟く。自分は師に続けているでしょうか、と。 「さぁ、ここが君の仮の宿だよ。縄梯子、頑張って登れよな」 にやりとするイメルの後ろ、樹上の小屋を見上げたデニスが下ろされた縄梯子に茫然としていた。 |