二人が暮らす樹上の小屋はいつもと変わりがない。そのことにエリナードはほっとする。どれほどデニスに頭痛を覚えているのか、これではっきりとしてエリナードはつい笑っていた。 「どうした?」 柔らかで温かい、けれど深い場所に淀みがあるようなファネルの声。闇エルフの声だ、とエリナードは思う。無論、嫌いではなかった。 「いや……あのガキ。面倒なことになるかもしれねぇ。ごめんな、ファネル」 「なにがだ?」 「忙しくなっちまうかもってこと。あんたと一緒にいる時間がとれねぇかなぁ、と」 「気にするな。子供を相手にしているお前を見るのは嫌いではない」 にやりとファネルが笑う。エリナードは思い切り嫌な顔をしていた。本人は子供の相手が苦手だ、と言っている。嫌いだ、と公言してもいる。が、ファネルは違うように見えていた。もしかしたら幼い者の将来を心底から慮るからこそ、力不足かもしれない己を省みて彼は苦手だ、と言うのかもしれないと。そのエリナードの姿は、充分に聞き及んでいるフェリクスの姿に重なった。 「言ってろ。知らねぇよ。気ぃ使って損した!」 ふん、と鼻を鳴らしたエリナードなどどこ吹く風、とファネルは茶の支度をしていた。以前、この国に来たばかりのころには自分で手を出そうとしたことが何度となくあったものだけれど、結局はファネルがするのを見守るようになった。 「俺、その茶。好きじゃねぇんですけど」 それは意外とまめなこの闇エルフが、世話を焼くのを楽しんでいる、と知ったせい。この年になって焼くも焼かれるもないはずなのだが、エリナードは苦笑してしたいようにさせていた。 「嘘だな」 「なにがだよ。嫌いだって、マジで!」 「どこがだ? ならばこの茶を用意したのは誰だ? 私は買ってきていないぞ。さて、イメルが持ってきでもしたか?」 「ファネル。実は根性が悪いんだよな」 「私を誰の親だと思っている」 胸をそらして言うようなことではないだろう。エリナードは言わなかった。代わりに一緒になって笑っていた。 「師匠が好きだったんだぜ、この茶」 何度も聞いた、とファネルは言わない。手渡した茶器に顔をつけるようにしてエリナードはその香りを吸い込む。 「懐かしい香り、と言うやつか?」 神人の子であるファネルには、懐かしいという感覚がたぶん、定命の子であるエリナードとは違うと思っている。それでも、同じように懐かしむことはできる。少なくとも、似た思いを抱くことはできる。 「懐かしいってほど、遠い感覚じゃねぇな。もっと近い。一番近いのは……痛い、かな」 言葉にすればそれも違うのだけれど。小さく笑ったエリナードの鮮やかな金髪をファネルは指先で梳いていた。 「あまり痛めるものではないぞ。フェリクスがどう思う?」 「いつまで何を馬鹿なこと考えてるんだって滔々と怒鳴ってくれるさ、わかってるよ。そんなのは」 「それでも――痛むお前が私は嫌いではないがな」 「嫌いじゃないってだけかよ? そりゃずいぶん冷てぇこと言ってくれるじゃねぇか」 にやりと笑ったエリナードからファネルは目をそらす。フェリクスが好んだ、と言う甘い茶を口の中で転がし、その香りを楽しむ。が、エリナードには見えている。その頬が赤らんでいることがはっきりと。 「わお。照れちゃって、どうしようかね、ファネル? すっげぇ恥ずかしいわ、見てる俺が」 「ならば見るな!」 そっぽを向いたまま声を荒らげても闇エルフの声は美しい。エリナードは茶を飲みながらころころと笑っていた。 「あんたにさ……」 ほんの少し、エリナードの声が変わる。それにさっと真顔になったファネルが振り返っては彼を両手に抱いた。 「ほんと、なんでそんなにいい勘してるかな?」 「愛しい者のことは考えずともわかる。そう言うものではないのか」 「俺は定命の子だからな。そこまで勘がよくねぇの。だからな……あんたに聞かなきゃならねぇ、詫びなきゃならねぇ」 「言うな、エリィ」 「あのデニスのせいで、あんたに嫌な思いをさせるかもしれねぇ。ごめんな、ファネル」 ファネルの制止を振り切ってエリナードは言う。その藍色の目はしっかりとファネルを見上げていた。嫌な思いをさせるだろう、けれど引かないとばかりに。ファネルはそれにこそ、うなずく、微笑む。それでいいと。 「私は、お前が誰かを導いている姿を見るのが嫌いではない。言ったぞ、前にも」 「まぁな。それだけだったらいいんだけどよ。あいつ、カレンの弟子だって言ったろ」 聞いたがどうした、とファネルが首をかしげる。わずかに緩んだファネルの腕。少しだけ体を離してエリナードは彼の肩に頭を預ける。再びしっかりと抱きなおしてくれた。 「――俺の昔話を知ってんだよ、あのガキ」 ぽつりと呟いたエリナードにファネルはなんの反応もしなかった。それからどうしようか、と困ったような気配。エリナードはそっと唇を噛む。 「お前、忘れていないか?」 そこに忍び込んできたファネルの声。ぱっと顔を上げたエリナードが見たのは、微笑むファネルだった。一点の曇りもなく綺麗な笑みで。 「私は、これでもライソンの友であった、と自負している。たとえほんの短い時を共に過ごしただけであろうとも」 「って言ってもよ。俺とライソンの話だぜ? 聞くあんたはちょっと嫌だったりしねぇ?」 「特には、そうは思わんな。ライソンとお前は幸福だった。いまはいまで幸せだ、と思っている。違うか?」 「違わねぇんですけど。なんか……その」 ばつが悪いのか照れているのか歯切れの悪いエリナードだった。小さく微笑むファネルは彼に気づかれないよう、そっと金髪に唇を掠らせる。 「――なんつーかさ、俺は師匠の母親のことは聞きたくないぜ? だからかな、あんたはどうなんだろとか思うわけよ」 ぶっきらぼうな言葉にファネルが吹き出した。人前では決してしないほど大らかに彼が笑っている。これでは怒るに怒れないエリナードだった。 「それは嫉妬、というものか。うん?」 「ほっとけ! 悪いか!?」 「悪い、とは言っていない。なるほど、これが愛らしいと言うことか。今更だが、理解した」 「遅ぇよ! って、そうじゃねぇだろ!?」 腕の中で喚き散らすエリナードをファネルはそれこそ愛おしげに見守っている。これでは駄々をこねる子供のようだ、と気づいたエリナードがやめるまで。もっとも、ファネルは心から愛しく思って見つめていただけだった。やめてほしいなど、微塵も思っていなかったのだが。 「たまには昔話を聞くのもいいだろう。ライソンのことも、聞きたいものだ。お前はあまり話してくれないからな」 「そりゃさ、いまの彼氏に昔の連れ合いの話をするのは酷くねぇ?」 「しかも、だ。ライソンは伴侶と言うのにいまだに私は恋人扱いだ。そちらのほうが充分に、酷い」 「あ――」 エリナードの薄い肌が、ぱっと血の色を透かせて薔薇色に染まる。夜明けより、その歌よりも美しい。ファネルの目にはそう見えていた。 「それは、その。まぁ、言葉の綾っつーか」 「ほう?」 「――あんた、神人の子のくせに意外と性格悪いぞ?」 「神人の子らのすべてが人格者であるはずもない。しかも私は闇エルフだ。性格が悪い? 当たり前だ」 ふふん、と鼻を鳴らしたファネルなど、誰も見たことがないだろう、自分以外は。エリナードは思ってそっと微笑む。微笑んだその額に下りてくるファネルの唇。額にそれを受けるより先、仰のけば唇に。 「照れるな、ファネル。闇エルフだなんだって言いきったのはあんただぜ」 「いきなりそんなことをされれば照れるものだ。違うか」 「理詰めでくんな!」 からりと笑ってエリナードは脇に置き放してあった茶器を取る。とっくに茶は冷めていた。それを見るより先に感じ取ったファネルがすらりと立ちあがる。 「いいよ、別に」 「気にするな。私も茶が欲しい。それだけだ」 「だったら甘いもんも。だから、茶は変えてくれ」 にやりと笑ってエリナードは所望する。が、失敗を悟ってもいた。胸の中がちくりと痛む。ライソンは、この甘い茶に甘い蜜のかかった揚げ菓子を合わせて食べるのが好きだった。 「そうだな。揚げ菓子でも買ってくるか。うちにはないからな」 「ファネル。性格が――」 「悪いのは自覚しているが? ライソンが好きだった、と言ったのはお前だぞ。我々の間で隠し事も何もないだろう。私はライソンを友だと思っている。お前を愛しく思っている。何が悪い」 「悪くねぇけどさ」 「――思い出話をする相手と言うのは中々に貴重だぞ。実体験としてな」 「だよな。あんた、昔話の相手なんかいねぇだろ」 「いないわけでもないが、まずいない、と言い切ってもいいほどにいないな」 「それ、存在しねぇって言ってるも同然だから」 そうは言っていない、笑いながらファネルが茶を入れ替える。エリナードはふと気づく。今更だった。いままで気づかない自分の頭を殴れるものならば殴りたい。 ファネルの心遣いだった、それは。デニスのことと、それにまつわる今後を思えば緊張と精神的な圧迫を感じているエリナードだった。その心を幾許なりとも和らげられれば、そんな気遣いがこめられた甘い茶。 「昔さ。俺が疲れた顔してると、師匠。いつもこれ飲ませてくれたんだぜ」 呟いたエリナードにファネルは言葉を返さない。黙って新しい茶を手渡した。反対の手には焼き菓子まで持たせてやる。 「焼き菓子も。たまに焼いてくれたんだ。すっげぇ下手くそなの。焼いてんだか焦がしてんだかわかんねぇんだよな、あの人が作るとよ」 「それでも?」 「あぁ。うまかったよ。すっげぇ、うまかった。ガキだったからじゃなくて、そんなもん食ったことがなかったからじゃなくて」 「フェリクスの、心の味、だな」 「――そう、思う。ほんと、無償でガキを大事にする人だったよ、師匠は。俺は、そうはなれねぇんだ」 「お前はお前で精一杯やっている。お前はフェリクスではない。それに、お前がフェリクスだと、私が非常に困る」 闇エルフのその示唆にエリナードが高らかと笑った。笑わせてくれたことこそが、何よりありがたかった。 |