ちらりとエリナードとカレンが眼差しをかわしあったのにデニスは気づけないでいる。なにより茫然としていた。
「まぁ、いいや。とりあえずしばらく預かっといてやる。それでいいか?」
「えぇ、助かります。んじゃ、礼は何がいいです?」
「別にいらねぇよ。俺の代わりに墓に花でもやっといてくれ」
「なに言ってんだか。こないだ綺麗なの植えてきたばっかっすよ。冬以外はちまちまちっちゃい花が咲くやつ。しかも真冬でも葉っぱは青々してんですよ? 綺麗なもんだ」
「――なんか可愛すぎねぇか、それ?」
「馬鹿言っちゃ困りますよ、師匠。可愛い娘なんですからね、私は」
 ふふん、と鼻を鳴らすカレンを処置なし、とばかりエリナードが笑っていた。大英雄と大魔術師の会話とはとても思えない。町の無頼と大差ない。デニスはくらくらとした眩暈を感じる。
「じゃ、預かった」
 エリナードの言葉に頼みます、ともう一度微笑んでカレンは消えた。同時に水鏡も崩れて湖へと返っていく。ひどく美しくて儚いものだった。
「さて、どうすっかね」
 首をかしげたエリナードの背中でクッションが潰れた。デニスは何をどう言えばいいのかわからない。まずは追い返されることはないらしい。それだけはわかった。
「あの……」
 独り言めいた何かを呟いていたエリナードに恐る恐る声をかければ屈託ない眼差しが向けられて、デニスは慌ててしまう。とんでもないことでもしでかした気分だった。
「あの、さっき。お墓って……。カレン師のご両親ですか?」
 言った途端だった、エリナードが爆発するように笑ったのは。体を二つに折って腹を抱えて笑っている。涙まで流しているのだからデニスは不快に思ってもいいはず。自分でも少しはそう思わないでもない。けれど大英雄のその姿に頭の中が真っ白でそれどころではなかった。
「カレンの親!? そりゃ誰だってーの。あいつに親なんざいねぇよ。昔の魔術師ってなぁそういうもんだぜ」
「え、でも――」
「お前、イーサウ出身か? だろうな。あそこ以外の魔術師に親はいねぇよ。まして同盟発足前からの魔術師じゃなおさらだ。お前はまだ若ぇからな、実感ねぇだろうけど。歴史は学んだだろ。それともいまの学院はそんなことも教えねぇか?」
「いえ! 学びました。でも、なんだか……信じられなくって。だってこんなにすごいのに。こんなに人の助けになる立派な人たちはいないのに」
 デニスの言葉にエリナードがわずかに顔を顰める。が、若いデニスはそのことには気づかなかった。
「信じられなかろうがそれが事実なんだよ、覚えときな。現実ってなぁそういうもんだ。実際、俺にも親なんざいねぇしな。まぁ――血の繋がった親はいねぇってだけだがよ」
 少しばかり照れた声音にデニスは瞬きをする。一言ごとに大英雄が生身のエリナードになって行く。それが不思議な心地だった。強いて言えば、嬉しくない。それをデニス本人はまだ理解していなかったが。
「それは……」
「話は知ってんだろ。俺の師匠、氷帝だ。カロリナ・フェリクス。俺にとっちゃ親父みてぇなもんだぜ」
「知ってます! 本当に素晴らしい至高の魔術師だったって!」
「お前な……。その大袈裟な表現、なんとかしろよ」
 いい加減にしろ、とばかりエリナードがはっきりと顔を顰めた。ぎょっとしてデニスは体をそらす。怒られたのだろうとは思う。が、自分は間違ったことをしているとは少しも思っていなかった。偉大な人を偉大と言ってなにが悪いのだろうか。敬意を表するのは正しいはずだ。
「師匠も大概ダメな男だったし、俺なんざそれに輪をかけてしょうもねぇぞ? 至高だ英雄だなんて言われるタマじゃねぇっての」
「え、でも」
「でももへったくれもねぇよ。お前は現実を見てねぇ。氷帝も俺のことも知らねぇ。人の話だけですっげぇって思ってんだろ。別にそりゃそれでかまわねぇさ、目標にしてぇってんならな。止めやしねぇよ。ただ、現実は見ろ。魔術師に大事なもんはなんだ?」
「人の役に立つこと。立派な行いをすることです!」
「誰がそんな御大層な話をしてんだよ」
 呆れたエリナードの言葉にデニスは声を失う。正しいと信じてきた道を否定されたのだと遅れて気づく。
「まず大事なのは平衡感覚。真っ直ぐ物事を平らに見ろ。立派だなんだってのは色がついてんだよ、もうな」
 カレンと同じことをエリナードは言った。ぎょっとしてデニスは後ろに下がる。それでもなんとか踏みとどまった。それをよしとするようエリナードがうなずく。
「俺も師匠も生身の男だ。ただの男で、それなりにダメな男だ。それだけだ。周りが結果的に評価してくれた、それだけだ」
「それは、当然だと思います。素晴らしいことをなさったのですから」
「だからってな、最初っからそれを目指してどーするよ、え? 立派ですげぇって褒められてぇだけか? だったら魔道なんか歩くんじゃねぇよ」
「違います!」
 はっきりと抗議するデニスだった。が、エリナードにはわかっている。本人は違うと思っている。それはそれで事実。ただ、物を考えていないから違う、と思い込んでいるだけなのだと。
「魔道ってなぁ、お前が思ってるほど生ぬるい道じゃねぇよ。その辺はおいおい叩きこんでやるか。――ったく、あの馬鹿弟子め。横着こきやがってよ」
 文句を言いつつエリナードは笑っていた。だから本心ではない。カレンが面倒事を寄越したのはわかっているけれど、それは師への甘えだとエリナードはわかっている。デニスには悪いが、若き修行者を挟んで師と交流したい、それだけなのだろう、彼女は。そんな二人のことなど少しもわからないデニスは青ざめて唇を噛んでいた。
「さっきの墓の話な」
 それがどことなく申し訳ないような気がした。まだまだ若いデニス。学院を卒業したばかりの、魔術師のなりたてどころかまだ頭に卵の殻を乗せているひよこだ。二人の魔術師に遊ばれてはもみくしゃにされるだけだろう。
「ありゃ、俺の死んだ連れ合いの墓のことだ。カレンはあいつに可愛がられてたからな。まぁ、それにしたって娘はねぇわ。せいぜい妹だろうがよ。ガサツな女だぜ、まったく」
 からりと笑うエリナードをデニスはまじまじと見ていた。ではその墓が、あの話の墓なのかと感動していた。そんなことはエリナードにはわからない。思わず首をかしげてデニスを見ていた。
「狼のライソン――」
「おうよ、なんだ知ってたか。あぁ、カレンが話したか?」
「いえ! 素晴らしいお話ですから。感激したんです、最初に聞いたときに」
「はい?」
 また何を言い出すのかこのお子様は。エリナードの顔にはまざまざとそう書いてあったにもかかわらずデニスは滔々と話し出す。そこにいるのは話の主人公の片割れだ、と言うことを忘れたよううっとりと。聞いているエリナードは背筋がぞわぞわとしてたまらなかった。
「あのなぁ。別にどんだけうっとりとろとろに大甘だろうが俺はいいけどよ。それ、人に話すなよな」
「どうしてでしょうか。真実の愛はなにより素晴らしいものだと――」
 エリナードは天を仰いだ。カレンを心の中で悪しざまに罵る。交流を持ちたいだけ、だなどとんでもない。なんと言う勘違いか。途轍もない厄介ごとが押し寄せてきたことに今更気づいた。
「あの……エリナード師?」
「真実の愛? 俺とライソンが?」
「はい」
 疑うことを知らない眼差しがきらきらと輝いてエリナードを見ている。今すぐデニス共々イーサウに跳んでカレンに叩き返したかった。
「万が一この世に真実の愛なんてぇもんがあるとしたらな、そりゃ俺たちじゃねぇよ」
「そんな! だって」
「だってもクソもねぇの。本人が言ってんだ、信じろ。俺はライソンに惚れてたしあいつも同じ。それは否定しねぇよ」
 だったら何がどう違う、若いデニスの真剣な眼差し。このデニスはまだ恋の一つも知らないのだろうと思えばこそ、エリナードは頭を抱えたくなる。
「相手こそ唯一無二、何者でも代わりになれねぇたった一人の大事な人。そう言うもんを真実の愛って言ってんのか?」
「はい、そうです。違うのでしょうか」
「知らねぇよ、そんなもん。お目にかかったことねぇし。それに近いもんだったら、知ってるけどな」
 デニスが思っているようなものはこの世界のどこを探してもない。彼の頭の中にだけあるものなのだから。エリナードは肩をすくめる。
「では――」
 それを話してほしい。エリナードとライソンの話とどう違うのか聞かせてほしい。デニスの懇願は途中でちぎれた。
「おう、きたな」
 軽くエリナードが手を上げる。それに従って振り返ったデニスは二つの人影を見た。はっとして姿勢を正す。一人は遠くから見かけたことがあったせいで知っていた。もう一人の神人の子は、知らなかったけれど。
「よう、イメル。カレンとこのガキだ。デニスだってよ。しばらく俺んとこで預かるからよ、住むとこ用意してくれや」
「あいよ、わかった。任せてくれていいよ。デニス、おいで。住むところを見つけてあげよう」
 にこやかな笑みと共に言ったのはタイラント・イメル。リィ・サイファの塔、現管理者。リィ・ウォーロックから続く魔術の血脈の正統後継者だった。
「エリィ」
 憧れの眼差しでイメルを見ていたデニスの耳に飛び込んでくる美しい声。神人の子がエリナードを呼んでいた。
「仕事は終わったのかよ、ファネル?」
「終わったから迎えにきた」
 それだけ言ってファネルと呼ばれた神人の子は優雅に身をかがめる。と、思ったときにはその両腕にエリナードを抱き上げていた。
「じゃ、あとでな。デニス」
 ファネルの腕の中からエリナードが手を振る。呆気にとられるデニスの視界の端、いままで彼が体を埋めていたクッションの数々が溶けて消えた。
「水……」
 魔法の産物だったのだとはついぞ気づかなかった。クッションの跡と去って行ったエリナードと、両方を眼差しで行き来して首を振るデニスを面白そうにイメルが見ていた。




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