夢のあとさき

 どんな形でダモンがニトロを諌めようとしていたのか。それはわからなくなった。カハルとキアラン、双方ともにエヴリルを呆然と眺めていたことに起因するのかもしれない。あまりのおぞましさに。
「……人を、人殺しのように言って! 私がいつ人殺しをしたって言うの!?」
 何を今更。ニトロは言う手間も省いてエヴリルを睨む。騎士が気を取り直したようエヴリルを再び庇う。騎士としてはイーサウの「平民」の戯言、と思いたいのだろう。エヴリル自身が平民であろうとも、騎士ならば女性を保護するもの、として。
「私が確認した、と言ったでしょう? 神官の言葉を――」
 ダモンの溜息まじりの言葉はエヴリルの狂笑に遮られた。ダモンほどの男が一瞬とはいえ呆気にとられる。
「紳士の皆さんにご質問をいいかしら? みなさん、化粧室でさっぱりなさった後の物に執着なさいますの? なさらないでしょ! だったら私が産んだ子をどうしようと私の勝手だわ! それを人殺しみたいに言わないで!」
「な――」
 騎士が顔色を変えた。女性、として守り庇うべき、と背後に置いた女に騎士は目を向ける。気が狂ったとしか思えない発言を嬉々としてする女に。
「あなたは、なにを――」
 言わされているのか、とでも問うつもりだったのか。騎士が突如として息を詰まらせる。同時にエヴリルも。耳を劈く悲鳴を上げた彼女と騎士。揃って壁に縫い止められた。見えない何かに押さえつけられて。
「……もう、だめだ。我慢できねぇ。殺していいか? いいだろ、もう。この女が生きてるだけで俺の精神はズタズタだ。殺していいだろ。殺させてくれ、頼む」
 片手で顔を覆ったままのニトロ。ぼそりぼそりと呟くような声音。いまだ悲鳴はエヴリルの喉から絞られているというのに、誰一人としてニトロの小さな声を聞き落とせなかった。
「殺させろよ、頼むから――!」
 顔を上げたニトロの頬。涙が伝っていた。藍色の目から零れ続けるそれにキアランは胸が締め付けられてたまらない。シアンのこと、彼の過去のこと。様々な思いがニトロを捉えて離さない。思わず伸ばした手は、けれど届くことなく、先にトリムがニトロを抱き取っていた。
「あぁ……君にはあまりにもつらすぎるね、これは。ニトロ、大丈夫だ。君はもういい大人だろう? 殺しちゃ、だめだよ」
「……トリムさん」
「そんなことをしても、君の気は、晴れないだろう? どうしてあっさり殺してやったりするんだい、ニトロ? 死ぬよりつらい目に合ってもらおうじゃないか、ね?」
 優しい声音でなんと言うことを言うのか、トリムをまじまじと見るカハルに彼は片目をつぶる。いずれにせよ、ニトロにトリムの言葉など届いてもいないのだから、と。
「トリムさん」
 おずおずと進み出たキアランだった。自分に何ができるとも思っていない。が、トリムの胸で嘆くニトロを見ていたくない。彼の胸元を握りしめたニトロの指先、真っ白になっていた。
「あぁ……」
 なるほど、呟いたトリムがにやりと笑う。魔術師は少し恐ろしい、カハルはそんなことを呆れつつ思う。悲鳴は絶えることなく続いているというのに。彼らはまるで聞こえた素振りすら見せなかった。
 キアランの腕に改めて抱き取られたニトロはその腕を彼のもの、と認めるなり肩先に顔を押しつける。キアランの耳元で荒い呼吸が聞こえた。激情をやり過ごそうとしているニトロ。静かに背でも叩いてやるしかできない自分をキアランは悔いる。
「あなたは、どうしたい? 本当に、殺したい? それならば、そうしてもいいと僕は思います」
「――あんたは」
「どちらでも。いずれにせよ、息子は還らない」
 静かなキアランの声。ニトロの耳に、体に染みて行く。普段の自分ならば間違いなくそう言っただろうに。復讐などするだけ無駄だと言い放つだろうに。
 いまもまだ、過去に囚われている。それもまた自分だといつかは言い切る、と言いつつ、いまだに果たせない。ぎゅっとキアランの背を抱いた。
「やらせないよ、キアラン。ニトロ」
 ふっと笑うようなダモンの声だった。彼はこんな笑いかたをするような人間だったか、慌ててキアランは振り返る。それ以上にニトロが愕然としたらしい。キアランを押しやった彼は平静をなんとか取り戻していた。
「昔の血が疼くよ。これは、生きているべきではないだろうね、ニトロ? その僕がね、我慢するんだ。人としてあろうとして、我慢するんだ。君にできないとは、言わせないよ。僕の友人なら、できるはずだ」
 にこりと振り返ったダモンにキアランの背筋が冷えた。カハルはより顕著に。ダモンという人間を彼は知らない。だからこそ、より一層ダモンを恐れた。いま狼の姿であったならば、間違いなく背中の毛が逆立っている。喉からは唸り声が漏れている。幸い、一歩を引くだけでいまは済んだ。
「あなたは、覚えているのでしょうか」
 ニトロの表情を目に留め、一つダモンはうなずく。そしてエヴリルを振り返り、彼女に近づく。壁に縫い止められたまま、両手両足を広げたままの彼女は恐怖に引き攣っていた。
「シアン、という名に聞き覚えは?」
 エヴリル以上にキアランが身じろいだ。ダモンが何を言い出すつもりなのかわからない。ニトロが狂乱を払うよう勢いよく首を振り、息を吸う。そして片手をキアランに伸ばした。互いに手を取り、一度だけきつく握り合う。そして離したのはきっと、まるで戦いの最中にいるような気分だったせいだ。
「お、覚えているわよ! 私の子供でしょ。いい男に育っていたから、おいしくいただこうと思ったわよ。それが何!?」
「あなたは、ちゃんとシアンを息子だと理解した上で暴挙に及ぼうとしていたんでしたか。なるほどね、それは知りませんでした」
 ちらりとダモンの視線が騎士を向く。それでも庇うか。視線は問う。真っ青になった騎士は身動きひとつできなかった。
 ゆっくりとダモンの指がエヴリルの頬をたどる。あたかも愛撫のようで、しかしエヴリルは恐怖を覚えたらしい。人狼たちには理由が知れない。が、ニトロにはわかる。指先一つ、眼差し一つ。それだけでダモンは相手を意のままにすることが可能だろう。かつての「闇の手」の学士。暗がりから伸びる見えない手。あるいは、眼前にあっても疑うことすらできない暗殺者として。恐怖を煽ることなど児戯にも等しい。
 頬から唇に、喉へ。そして首。軽く押せば、振り絞られる悲鳴。酷い苦痛を感じたらしい。が、ニトロ以外には、恐怖のそれにしか聞こえない。腕に、腹に、足にダモンが触れて行く。そのたびに聞くに堪えない声が上がった。
「貴様、妊婦に何を――」
 ダモンは黙れとも言わなかった。にこりと笑っただけ。そろそろ止めるべきだろうか、ニトロは案ずる。ダモンまで過去の亡霊に引き摺られることはない。
「シアン、可愛かったでしょう? 綺麗な顔をしていたでしょう? 無邪気に笑っていたでしょう?」
 ダモンの指が再びエヴリルの頬に。今度は包み込むよう触れていた。それでいてエヴリルの顔に浮かぶのは痛みと恐怖。つい、とダモンが更に彼女に身を寄せる。逃げようもないというのに女は身を引こうとした。その耳元。囁き声。けれどその場の全員に聞こえた。
「死霊ですよ、シアンは。死んでたんだ、あなたのせいで。四つでシアンは死んだ。そのまま死霊が大人の形を取っていた。あなたが抱こうとした男は――死霊だ」
 ひっと悲鳴を飲んだ。まじまじとダモンを見やるエヴリルの額から脂汗。微笑むダモン。がくがくと唇をわななかせる。
「そ、んな。はず。あるわけ、ないじゃない――。死霊だなんて……そんな」
「忘れましたか、また? 私は、神官だ」
 そっと胸元の聖印に手を当て、さも敬虔深い顔を作ってダモンは一礼する。途端だった。エヴリルがこれ以上はない悲鳴を上げたのは。
「いや、いや――いや、そんな! 怖い、死霊ですって――そんな、怖い――いやぁぁぁぁぁ」
 壁に縫い止められていなかったら、この場から遁走したかもしれない。不自由な体でもがき苦しむエヴリルにダモンはまだ微笑んでいた。その肩先に乗せられた手。
「――悪い。俺のせいだな」
「なにが? ただの僕の嫌がらせだよ。君が気にするようなことじゃない。言ってることは本当だけれど」
 後悔もあわらわなニトロなど珍しい。それにダモンらしい笑みが浮かんで彼が「帰って」来た。ついでのよう真実だ、と言うのは騎士に対してだろう。騎士まで脂汗塗れになっている。
「さて、もう一つの問題を片づけようか?」
 さっぱりと気を取り直したダモンにニトロは感嘆していた。あれから何年の歳月が過ぎたのだろう。立ち直り、新しい自分を獲得し、ここまで歩いてきたダモン。自分はどうだろうと思わずにはいられなかった。
「いや、来ないで、来ないでったら!」
 ダモンが再び近づこうとするなりエヴリルの悲鳴が酷くなる。耳障りだ、とばかりニトロが小声で呟いた。突如もごもごとした悲鳴に変わる。不快なのには違いはないが、少なくとも耳がおかしくなるような音量だけは抑えられた。
「うん、いい腕だ。もう大丈夫そうかな、ニトロ」
「……うい、すんません。醜態さらしました」
「君はある意味優等生だからね、たまにはそういう姿が見られると大人としては安心するよ」
「……は? 俺は間違いなく問題児ですが」
「どこが?」
 取り合わないトリムにニトロは呆れる。優等生などと言われたためしは一度としてありはしないというのに。そんなニトロをちらりとキアランが笑った。
「悪かったな」
 何が、とは言わない。ニトロにも詫びた理由はよくわからない。キアランには、わかるだろう。案の定、気にしないでいいと彼は微笑んだ。
 その間にもダモンはエヴリルに触っていた。騎士が顔を顰めるのも気にした様子はない。さすがに騎士も事情を悟ったのか、抗議はしなかった。己の不明を恥じでもしているのかもしれない。
「うん、ニトロ。問題ない」
「なにがだよ? それでわかるか」
「エヴリルは妊娠なんかしてないよ。君が魔力で子供を養う必要はないってことだね」
「ちょっと待て、だったらその体はなんだ!?」
「これ? 脂肪だよ脂肪。ア、ブ、ラ」
 ニトロでも顔を覆いたくなったダモンの手付き。冗談のようぽん、とエヴリルの腹を叩いていた。それに絶叫したエヴリルだったが、幸いまだ魔法の影響下だ、うるさくはない。
「これで君が危ない橋を渡る必要もなくなった。すぐさま神殿に放り込んで神の名の下の拘束において問題ない」
 綺麗に片付いたね、と言わんばかりのダモンの笑顔。ニトロは呆気にとられ、そして理解する。これ以上自分を狂乱させないために、あえて暴挙に出てくれた友人だと。小さく唇で笑った。




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