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大きく小さく笑い声の波。それを機に兵たちが背を返す。穏やかな背中をしていた。ニトロのほっと息をつく音。ふと立ちあがったダモンがカハルを振り返る。 「それではお寒いでしょう? 気が利かなくて申し訳ない。何か持って来ましょう」 腰布ひとつのカハルだった。あまりにもしっくりとした姿にみながそのことを忘れてしまうほど。ニトロもそうだったらしい、ばつの悪い顔をしていた。 「いや、気にしてくれるな。狼になって寝るさ」 「そうですか? キアランはどうする?」 狼を覗き込み、ダモンは屈託がない。議長はそんなダモンをじっと見ていた。もちろんサマルガードはダモンの前歴を知っている。かつては暗殺者だった男。いまは神官となり、連盟で平和に暮らしている「人間」だった。「人狼」であるカハルやキアランと、あまりにも自然に会話する彼。サマルガードの拳にぐっと力が入る。 ちらりとキアランはそれを視界の端に収めていた。が、あまり気に留めてはいない。人狼を異種族だ、と言うのならば彼にとって人間はやはり異種族だ。キアランはダモンを見上げ、黙って首を振る。 「うん……そうだね。その方がいいかもしれない」 にやりと笑うダモンにキアランが顔をそむける。思わせぶりな言いようにニトロが眉を顰めた。 「なんだよ?」 言いたいことがあるのならば言えばいいだろうに、とニトロは思う。何も遠慮がいるような間柄でもない。そんな彼をティアンの方がちらりと笑った。 「言わない。キアランが内緒にしてるなら、僕が言うようなことじゃないだろう?」 にやにやとするダモンとティアン。二人にはわかっていて、自分にはわからない。そしてキアランまで秘密にしている、と来た。ふん、とニトロは鼻を鳴らし、けれど悪い気分ではなかった。 「じゃあね、おやすみキアラン。朝になったら二人分でいいのかな? 着るものを持ってくるよ」 そうしてくれ、と片手を上げたカハルもまた立ち上がる。腰布に手をやり、落としたかと思ったときにはすでにそこには狼がいた。鮮やかに、美しく。ついつい見惚れてしまうニトロにキアランの唸り声。 「……なんだよ?」 別に、とでも言いたげな気配だけ。返答も返ってこなかった。もっとも、それが悪いと言うのではない。冗談でもやっているような、いい気分でもある。 笑いながら去って行くダモンとティアン。トリムまで一緒になってそうしつつ、彼らは議長を護って戻るのだろう。そちらの懸念はまるでない。ニトロはそのままここに残るつもりだった。 ――心配? キアランの問いにニトロは黙ってうなずく。サマルガードは理想を語った。彼は言葉に忠実に実行するだろう。が、すべての人間がそうではないし、逆に急にサマルガードの理想通りになったりしたら気持ちが悪いというものだ。 兵たちはいまこの瞬間は和やかな気分でいる。それがいつ何時変わるかニトロにも予想はできない。万が一を慮って彼らの護衛を務めるつもりだった。 ――少し、休んだら? 枕がご所望じゃないのかな? くすくすと笑うキアランの思考の、優しい響き。妙に懐かしいような気分になる。ニトロは黙ったままキアランを促し、横になれば心得たキアランが頭の下に。 「あー、もこもこだ」 久しぶりの感触だった。頬にあたるキアランの毛。強い狼の毛が、なんとも言い難く心地よい。温かな体が頭の下にあるこの感触。左腕でキアランの首を巻き締める。苦しそうに身じろいだ狼が自分の居心地のいい場所を探して体を動かす。 少し離れた場所で人狼たちが眠っていた。クレールだけはここからでもよく見える。銀の狼は彼女だけ。月光とニトロの魔法灯火に照らされて銀狼は仄かに光る。あとはみなが薄闇に沈んでいた。 ニトロもキアランも殊更会話をしなかった。それが、心地よかった。狼の体を枕に、天を仰いで、満天の星空。月に霞んだ星が、それでもきらきら。 ――ニトロ。 ずいぶん夜も更けてからだった、キアランが声をかけてきたのは。狼だけに夜は目が冴えるのかもしれない。 ニトロも魔術師の常として、一晩や二晩寝ない程度はどうと言うこともない。警戒しているのならばなおさらだった。 ――イーサウでは、色々あったみたいだね。 苦笑の気配。自分のせいでイーサウという街に混乱をもたらしてしまった、とでも思っているのか。それであるのならばこんなお人好しもないものだ、とニトロは笑う。 「正直、自分でもあそこまでガチギレするとは思ってなかったって言うか、意外だったわ」 キアランがここにいる。それでもキアランが襲撃された事実は消えるはずはない。偶然にして無事だっただけ。カハルは人狼は頑丈なものだと言ったけれど、武器を持った大勢に囲まれて滅多やたらに切り刻まれても無事だとはニトロは思えない。 ――それだけあなたは。街の人を信じてたんだろうし、僕を心配してくれたんだろうな、と。 「まーな」 歯切れの悪いニトロをキアランは笑わなかった。一緒になって見上げている夜空はこの世のことなどどうでもいいと言いたげに美しい。地上はこんなにも醜悪だというのに。 キアランの毛皮に手指を埋めた。温かな、生きている肉体。ここにこうしていてくれることが、どんなにありがたいかしみじみと思い知る。だからこそ、やはりイーサウの街の人々を許したい気分には当分はなれそうにない。 ――あまり根に持つものでもないよ、ニトロ。 「おい!」 ――どうかした? 気配が固くなったから、そんなことでも考えてるんだろうと思っただけだけれど。 軽く言ったキアランにニトロはぎょっとしていた。共感魔術の副作用か、と一瞬でも考えてしまった自分の馬鹿らしさ。キアランが漏らしている思考をニトロは勝手に読んでいるだけだ。人狼という、魔法に近い――そして魔力を利用しているらしいことも確定した――存在だからこそ可能な会話。だがしかし、キアランがニトロの思考を読むことはない。さすがにニトロは魔術師だ。それも一流の上に超が幾つつくのか、と言うような。接触を受けて気づかないほど鈍くはない。けれど、キアランに悟られた。それが本当ならば薄ら寒い感覚になるはずなのに不思議とよい気分。ニトロはそっと笑いを漏らしていた。 「まぁ、根に持ちはしないけどな。当面はだめだな。俺だってただの男だ。腹も立つさ」 いかに長い人生を生きていようとも聖人君子ではない。寿命が長いだけの生き物だ。その上魔術師は我が儘で自分勝手と相場が決まっている。 不意にニトロは息を詰める。魔術師はこんな生き物、と自分を定義した。同時に、人間はこのようなもの、と知らず定義している。ならば人間は人狼をどう定義するか。獣の姿をも取る彼らを。 「たかが――」 姿形で。ニトロは皮肉に言いかけた。キアランがそんな彼の頬をぺろりと舐める。人間が見たら悲鳴でも上げかねない。 ニトロは小さく笑っただけだった。どこか苦い笑い。自分もまた、同じだと悟った。先ほどのダモンが蘇る。キアランが秘密にしたこと、ダモンが言わなかったこと。 ただの形。けれどキアランはいまは狼でいることを選んだ。ニトロが、それを望んでいるから。人間が嫌なのではない。狼の方が、ただ。 ――ニトロ、どうかした? 「別に。狼の方がいまは便利だよなって思ってた。さすがにおっさんと手ぇ繋ぎっぱなしってのは見た目としてどうなのよ? どう考えても他人様のご迷惑だろうが」 なんという言い草か、キアランは笑う。笑いと共に漏れた声にニトロは肩をすくめる。それでいて、互いに通じた。離す気はない、離れるつもりもない、いまはとても。 ――このあと、あなたはどうするんだろう? イーサウを、出る気なのかな。 「そうだなぁ……。あんたが無事なのを見るまでは、そのつもりだった。帰ろうって気がなかった。いまは、現象としては一緒だって言われそうだけどよ。ちょっと違う。――まぁ、自宅はそのままにしといて、色んなとこ見てまわりたいかな、と思ってる」 ――たとえば? 「どこでもいいんだよ。あんたと会ったときだって俺は旅から帰ってくるとこだったわけだけどよ。もっと、あてもなくさまよってみたい。つか、あんたらみたいな種族に再会できたんだったら、もっといそうな気がしてな。捜してみるのも悪くねぇかなぁ、と思ってる」 ――いると思うのかい? さすがに我々はかなり例外的な存在だと思うんだけれど。 「あんたらがいたんだったらいないとは言い切れねぇだろ? ま、そんな感じかな。あんた、旅暮らしは嫌か?」 言った途端だった、キアランがこらえきれずに吹き出したのは。狼のままにそうするものだから、大きな顔が中々に恐ろしい。ましてニトロのすぐ横にある顔。片目で見やってニトロは肩をすくめる。 ――僕が一緒にいるのをあなたは疑わなかったな、と思って。 言われてニトロははたと気づく。そのとおりだった。イーサウに帰るにしろ、旅に出るにしろ、そこにはキアランがいる。いて当然だと思っていた。むしろ自分が一人でいる所が想像できない。 「……あんたがいるのがなんか、普通になっちまってるからな」 憎まれ口だと、キアランは悟るだろう。いてほしいと願っていると彼は知るだろう。知らずキアランを抱いた腕に力が入っている。ニトロは気づかなくともキアランは気づく。 ――ニトロ。いま、僕が感じているこの気分が、あなたには感じ取れるかな。 そっと首を伸ばしてきたキアランから毛づくろいを受けた。満ち足りたキアランの仕種。ニトロは彼を満たしている感情そのものを感じる。魔術師にとっては容易いこと、とばかりに。 ――これが、好きだってこと。わかる? ひくりとニトロの指先が動いた。ただ、それだけ。天を見上げ、ニトロは無言。キアランは黙ってニトロに頬をすり寄せる。 「……そうか、これは好きって感情か。なるほどな。ふうん、理解した」 ――理解した? 本当に? 「疑うなよ。俺は自分の体験だったら理解できんだよ、他人の感情でもよ」 ――ふうん? ニトロの真似のようなキアランの心の声音。ニトロは黙ってキアランの頭を叩く。くつくつと笑うキアランの声。 あとは無言のままだった。二人一緒に星降る夜を眺めていた。月影の狼たちを見ていた。すでに死臭が漂いはじめている夜であっても。怪我に苦しむ兵士のうめき声が聞こえていても。ひどく穏やかな夜だった、二人にとっては。 |