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つい、と一頭の狼が立ち上がる。鈍色の毛が、背中から四肢にかけて徐々に薄く白くなっていくそのさま。雄大な体躯を誇る狼だった。さすがに恐ろしいのだろう、兵士たちが剣に手をかける。それをニトロはじっと見据えていた。剣を抜きもできず、逃げるもできず、兵士たちは立ち尽くす。額に脂汗が滲んだ。その間にも狼は死体の山へと。 ニトロは止めようかどうしようか、迷っている。人間の目の前でたとえ敵兵と雖も死体を傷つけられれば、また厄介事がやってくる。ニトロ自身はまるで気に留めないのだとしても。 ――大丈夫ですよ。 そっと触れてくるキアランの思考。ニトロは黙ってうなずき、兵士たちに目を据え続ける。切りかかられてはたまらない、瞬時に思考が切り替わる。 狼は彼らの動静などどこ吹く風、と死体の山から外套を見つけ出しては咥える。ぐいぐいと何度か引っ張れば一枚だけ引きはがせた。その下にもぐり込む狼を兵も議長も不思議そうに見ていた。そのときにはもうニトロには見当がついていたが。 と。外套が持ちあがる。狼にしては大き過ぎる上がり方にぎょっと息を飲む声。あっという間にそこには人間の男が立っていた。外套を腰布代わりに巻き付けた男性は、狼のとき同様に優れて立派な体格をしていた。半ば灰白になった蓬髪が顔の周りを彩っている。一見は野卑。だが野ではあっても卑ではない。 ――魂の位が高いってのはこういうことかね。 ニトロは思わず見惚れていた。悠然と歩み寄ってくる男に目を惹きつけられて離せない。すぐ横から不満そうな唸り声が聞こえて、つい笑みをこぼす。がしがしとキアランの頭を撫でれば、くすぐったそうに彼は笑った。 「悪い、誰か水をくれないか」 顔を顰めた男にニトロは物も言わず水袋を放る。見事に受け取り、男は水をあおっては口を漱いだ。何度か繰り返して気がすんだらしい。 「助かった。人間になると口の中が腥くってかなわん」 いかにも不愉快そうに男は言う。その言葉の意味を察したのだろう兵が青くなる。男の口中にはいまだ血が残っていたのだろう、敵とはいえ、人間の血が。 ニトロは不思議とまるで気にならない。狼は肉食であるもの、と思っているし、人間の肉とて肉は肉。人間の姿になったときにそれを腥い、と感じるのならば特に問題はないのではないだろうか。首をかしげたニトロをキアランが見上げていた。金の目に気づいてニトロは見つめ返す。 ――あなたは不思議な人だな、と思って見ていた。 「そうか?」 ――えぇ、なんでしょう、この居心地のよさは。 それこそ自分が聞きたいことだ、とニトロは内心で思うだけに留めた。いまはすぐそこまで歩いてきた男が気にかかる。 「ありがとうよ」 水袋を返してきた手。大きな手をしている、とニトロは思う。思えばあまり体格のいい男性の知人、というのがいない。知らずまじまじと見ればやはりキアランが嫌そうな唸り声を上げていた。 「カハルという。キアランの伯父に当たる」 ひょい、と伸ばされた手。握手を求める仕種にニトロは笑みを浮かべて応じた。ニトロのあまり屈託のない顔、というのはダモンたちにとっても珍しい。いささか奇妙なものでも見るような顔になってしまった。 「カレン・ニトロだ。ニトロと呼んでほしい。――遅ればせながら、感謝する。あんたらが来てくれなかったら、俺か友人のどちらかが死んでいた」 「なに、こっちにも理由があったことだ。気にしてくれるな」 大きな体をしているというのに、胡坐を組んで座る動作は優雅と言っていいほど見事なものだった。狼らしい所作、とでも言おうか。野生の美しさを持っている。 「……伯父」 どこからともなく兵の声。キアランに、家族がいた。それをいま目の当たりにして彼らは何を思うのだろう。ニトロには想像ができない。ぽんとキアランの頭に手を乗せる。 「あんただって木の又から生まれたわけでもないんだからよ、家族がいるのは普通だと俺は思うんだがな」 ――そう言わず。 「俺たちは魔物同然に思われることが多々あるからな。無理もない」 キアランとカハルが口々に言えばニトロとしては肩でもすくめるより他にない。それで済ませていいのだろうか。一般的にはよくないのだろうと思うのだが、ニトロにはよくはわからない。 ――僕は別にいいですよ、それで。 キアランがそう言うのならば、それでいいか。わからないのならば本人の意志を汲むことにする。そうニトロは納得をした。 「失敬。イーサウ自由都市連盟議長、フィッツ・サマルガードと申します。なんと申し上げればいいのか、わかりませんが。指導者でいらっしゃる?」 サマルガードは立派だ、はじめてニトロは思う。狼から変じたところを目の当たりにした。人狼を眼前に見た。その上で、自分の言葉どおり、異種族を排除しない、その文化を守る、それを忠実に守ろうとしている、彼は。ニトロの口許が小さくほころんだ。 「いや、群れの長はそっちの銀狼だ。女なんで裸は勘弁してやってくれ。五十年前の美女じゃ、見るこっちもつらい」 にやりとしたカハルが悲鳴を飲む。一瞬前まで離れていたはずの銀狼がカハルの足首を噛んでいた。牙を立てただけ、と言った方が正しいのだろう。血の一滴も出ていなかったが。 「痛いだろうが、おふくろ!?」 カハルの悲鳴じみた声音にニトロは気づけば笑っていた。キアランの首を巻き締めて、久しぶりに大笑いをしていた。頬に当たる毛の感触。キアランが共に笑っている気配。帰ってきた、戻った。不意に感じる。 「ご母堂様でいらっしゃる? サマルガードです、どうぞお見知りおきを」 律儀に狼に向かって頭を下げるサマルガードに、兵たちが困り顔。互いに顔を見合わせ、そして議長に倣う。ほっと微笑んだのはダモンとティアン。何気なくニトロの下へとやってきた。 「久しぶりに君が笑うのを見た。おかえり、キアラン」 狼の頭に手を伸ばし、ダモンが微笑む。ばつが悪そうに笑うニトロとくすぐったそうに目を閉じるキアラン。それをティアンが笑っていた。 「議長として、お詫びとお礼を。あなたの一族、という言い方でいいのでしょうか? ヒースリップ氏が被った被害を、議長として謝罪いたします」 「あまり気に病まないでいただきたい。正直、我々にとっては珍しいことでもない」 カハルがあっさりと言う。そのぶん、人狼がどれほど魔物扱いされ続けたかがわかるというもの。サマルガードは察した。だからこそ、彼らは誰一人として人間の姿になろうとしないのだ、と。いまここで人間としての顔をさらしたがらないのだと。サマルガードの目に、カハルがうなずく、そのとおりだと。 「――珍しいことに、して行きたいと思っています。できれば、こんなことはこの百年絶えてなかったものを、といつか言わせたい」 「根絶する、と言わないあなたは正直者だな」 カハルの言にサマルガードが目許を染めた。率直に褒められた、と感じたらしい。意外と可愛いところがある人だったな、とニトロはそのやり取りを面白く見ていた。 「さっきのやり取りを聞かせてもらっていたがね、ニトロさんだったか。あんたはいい人だな」 「……はい? いい性格をしている、と言われることはあっても性格がいいと言われたことはないんだが」 「そうか? あんたは、仲間に裏切られて身内を傷つけられた、それがやるせなかった。そう感じるのは、いいやつだと思うがね」 ぷ、と吹き出す声。いやいや見やればダモンが笑っている。ティアンはなんとかこらえているのだろう、いわく言い難い珍妙な顔をしていた。 「――仲間、か」 ふ、とニトロは息を吐く。自分でも理解できていなかったことをカハルに指摘された気分だった。 「そうだろう? 種族が違えど、あんたは人間を仲間だと思っていたんだろう? それなのに、甥を襲ったのは人間だった。仲間が裏切った、そう感じて怒り狂うあんたを感じていた、と甥は言っていたがね」 「……は? ちょっと待て、キアラン!?」 ――あなたのしたことじゃなかったんですか。ほら、共感魔術と言っていた……。 「そんな魔法があるか!? 俺じゃねぇよ!」 ――だったら、あなたを案じる僕の気持ちだった、ということで。 「殺されかけた本人が他人の心配してんじゃねぇわ!」 「我々は頑丈なものだよ、ニトロさん。まぁ、多少の怪我では死にはせん」 「そういう問題じゃないでしょうが、カハルさん」 「ま、その程度の問題さ。死ななければ生きている。それでいい」 単純明快な思想だな、とニトロは感嘆する。不意に羨ましくなった。どうやら今更だったが自分は考えすぎるきらいがあるらしいと気づく。 「あんたはいいお人さ。甥が懐くのも、わかる」 にやにや笑うカハルの笑みがうつったかのよう、ダモンもティアンもにやにや笑い。ニトロとキアランは互いにそっぽを向きあう。もっとも、ニトロの腕はいまだキアランの首にかかったままだったのだけれど。 その中で、衝撃を受けている者たちがいた。兵士たち。議長。彼らはその場を見ていたわけでもない部外者であるカハルの、ニトロを知っていたわけでもないカハルの言葉にこそ、衝撃を受けていた。 ニトロが、人間を、自分たちを仲間と思っていたこと。裏切られ悲しんだという事実。ニトロが否定をしなかったことでそれが彼らに嫌でも染みた。まじまじとニトロを見る。打ち沈んでいたニトロ。いまは少し、元気になった彼。戦闘の最前線で、己の命を砕かんばかりに戦っていた彼。 「ニトロさん――」 もしもキアランに万が一のことがあったのならば、本当にニトロは戦死をすら選んだのかもしれない。兵たちは慄然とそれを悟った。 「なんだよ?」 訝しげなニトロに、何を言っていいのかわからない。ただただ、みなが無言で頭を下げた。万感の籠った謝罪に、ニトロこそ困惑している。いったい何が起こっているのかさっぱりだ。 ――申し訳なかったと、思ってるんじゃないかな。僕を襲ったこと、というよりも、あなたを裏切ったことに。あなたから信頼されていたと彼らは知って、なんと言うのだろう……斬鬼の念に耐えかねる? 「ふうん。そういうもんか?」 ――恥ずかしいんだろうね。思わずかっとしてやってしまったことを後から思い返すのは、恥ずかしいじゃないか。 ぽん、とニトロは手を叩く。それならば理解ができる。キアランがすんなりと解説役をやってくれたことがありがたかった。狼と、会話をしているのだろうニトロを兵たちは不思議そうに見ている。そこに戸惑いはあっても嫌悪は消えていると、議長は息をつく思いで眺めていた。 |