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翌朝。海には霧と紛うような靄が立ち込めていた。マーテルをはじめとした連盟の汎用型魔術師たちが触媒を駆使して維持している、自然ではない靄だった。 ニトロは一度だけ振り返る。ずらりと整列した兵士たち。最前列にはサマルガードが出てきていた。しっかりとうなずく彼にニトロもうなずき返す。 「じゃあ、はじめようか?」 いとも気楽なトリムの風情。ニトロは小さく唇だけで笑う。これから自分が何をするつもりなのか、トリムは知っているというのに。 「発動はこっちでやります。維持だけ、手伝ってください」 「気にしなくていいんだよ?」 「その方が気楽なんですよ。それだけです」 言い捨てるようにしてニトロは肩をすくめる、それ以上を言い募らないトリムがありがたかった。こんなところで言い争いをしたくはなかったし、正直に言ってトリムの面倒まで見る余裕はない。たとえトリムが今後の評判など気にも留めないのだとしても。 ニトロはゆったりと歩み出した。兵士たちが固唾を飲んで彼を見ている。トリムは砂浜に佇んだまま、ニトロと同調をはじめた。 「あ――」 誰の上げた声だろうか。慌ててしっと制止されるも、誰もがニトロを見つめている。ニトロは歩き続けている。どこまでも、どこまでも。とっくに海の中に入ってしまっても。 靄の中、歩むニトロの足元にひらひらと波紋が浮かぶ。波紋と波紋が干渉し、互いを打ち消し合い、新たに生まれたものがまた揺らいでいく。靄と相まってひどく幻想的なものだった。海の上を歩み行くニトロの足元、いつまでも波紋は消えない、そんな気がするほどに。 ある一点でニトロはようやく足を止める。浜辺からはもうぼんやりと彼の姿が見えているだけだった。島からは見えまい。そのニトロの姿が隠れる。沈んだのかと誰もが息を飲む。 実際は、しゃがんだだけだった。ニトロは海上にあり、そして片膝をつく。何気なく片手を海中に。 ――見えやしないだろうけどな。 一応は、気を使った。あまり公言したい類の魔法ではない。が、体面を守ることにいま、ニトロは意味を見出せない。いずれこの戦いが終われば自分はイーサウを離れるだろう、そう思っているせいもある。もっとも、理由はイーサウの住人だけではない、そんな気もした。 一度頭を振り、ニトロは海中に突き入れた腕を探る。反対の手にはすでに青碧の短刀。ニトロの小さな魔法剣が。その場に誰かがいたならば、顔を顰めただろう。それほどの勢いでニトロは自らの腕に切りつける。顔色一つ変えなかった。 血をこぼしながら立ち上がるニトロ。腕を振れば同時に振りまかれる彼の血。海に滴り、跳ね、散って行く。気づけば詠唱が高まっていた。水と血を滴らせ、ニトロは詠唱を続ける。ある瞬間、としか言いようがなかった。音がするほど突然に、海は凍った。遠く、トリムの声。合図に従い、兵士が吶喊する。ニトロはその場で魔法を維持していた。トリムの魔力を感じている。水系だというのに、いやに温かいトリムの気配。なぜと理由はなく、溜息をついた。 「ニトロ!」 駆け込んでくる人影。誰より早く、ダモンが駆けつけた。他人が見る前に、というのだろう、彼の手には一巻の包帯が。あっという間の手際で傷口を縛られる。 続々と兵士たちが駆けつけ、そして駆け抜けていく。マーテルがぽん、と肩を叩いて駆けて行った。凍りついた海の途中、彼は立ち止まり、兵士たちが渡り終えるまでの援護をする。 「この靄だったら、大丈夫そうかな?」 油断なくダモンが周囲を見回す。ニトロの援護を、と彼は決めていたのだろう。何も話していなかったというのに、一番に駆けつけてきた友人。ニトロは黙って魔法を維持していた。 並大抵のことではなかった。氷の橋をかける、と一口に言うだけでもまず、おかしい。まして相手は動く波のある海だ。しかも大量の水がこれでもかと言うばかりにある。凍らせる端から溶けていくだろう。それなのに、これ以上ない強固な浮橋ができあがっている。十人の大の男が両腕を広げたまま並んでもまだ余裕があるだろう幅広い浮橋が。 「始まったな」 ぽつん、としたニトロの声。靄があろうともこれだけの兵士の数だ、遠からず気づかれるのは予定のうち。それと悟ったマーテルが無駄を悟って靄を消す。そのぶん靄を維持していた魔術師は援護に力を入れることができるだろう。 「こっちは任せろ」 ダモンの背を叩いて駆け抜けたのはティアン。そう言えば彼もいたのだ、とニトロは思い出す。ちらりと視線を向ければ苦笑をされた。あまつさえ片目までつぶられる。それでもいつもの罵声は出てこなかった。気にするな、とティアンは駆ける。 「だったらこっちはこっちの仕事をするだけだよ」 ダモンの言葉はまるでニトロの代弁。もうティアンの後ろ姿は小さくなった。 「……悪いな、ダモン」 どうせならばティアンの隣で戦いたかっただろうに。馬鹿なことを言うな、と睨まれた。 「君の隣で戦えるのは僕だけだろう? ティアンも腕はいいけれど、ちょっと無理だ。呼吸が合わない」 「あんただったら合うって?」 「合うだろう?」 にやりと笑うダモン。軽く腕を撫でていた。そこにはかつてニトロが作りあげた暗器の鞘。いまもまだダモンはそれを使う。暗器ではあるが堂々と。意味がわからない、と笑ったのはいつだったか。気にするな、とダモンが前方に注意を戻した。 ここにいても、島から悲鳴が聞こえた。すべての兵士が渡り終えようとしている。議長も先ほど、駆け抜けていった。 ラクルーサの兵たち騎士たちは見ただろう。凍りついた海上を。そこを疾駆する連盟の兵を。魔法を忌避した彼らには、悪夢のような情景だったに違いない。 弓を構え、矢を放つラクルーサ側。転じて連盟は魔術師たちがそのすべてを魔法で弾く。撃ち漏らしはなかった。万が一に備えて剣を構えていた兵士たちが無用を悟り、いっそう早く駆けていく。颯爽と、魔術師たちと共に走る連盟の兵。 「そろそろいいんじゃないか、ニトロ。それともこのまま維持するのかい?」 ゆったりとトリムがやってきた。黙って首を振れば、浜辺から徐々に氷は溶け行く。トリムの後ろまで迫ってくるのはあっという間だった。 「行こうか」 背中を押され、ニトロは歩きだした。隣で厳しい顔をしたダモン。三人の足元から氷が失われつつある。ニトロが維持している魔法だ、沈むことはないだろうけれど、足元が濡れるに従ってダモンはひやりとする。 「トリムさんはどっちに?」 「僕は船。沈めるなって言うからね、とりあえず沖の方にでも出して潮流にでも乗せておくよ」 「だったら俺は前線に行きますか」 「ひと暴れしておいで、ニトロ。――人生は、なるようにしかならないっていうのは、エリナードさんの口癖だった。フェリクス師の真似だったみたいだけれどね」 「そう、なんですか?」 「うん。僕も、そう思うよ。確かになるようにしか、ならないね、人生は。でも、同時に思う。これで人生は面白いものだよ、ニトロ。僕は楽天的なのかな。そしてみんな幸せに暮らしましたって終わりが好きなんだよ。そうなると思っているしね」 「……ちょっと意味がわかりませんが」 「そのうちわかるよ。たぶんきっとね。さ、仕事するよ」 若僧扱いされて、ニトロは苦笑する。トリムにかかっては致し方ない気がした。師であるカレンより世代が上の魔術師なのだから。そして、いまそうしてもらえたことが、少し嬉しいような、そんな気もした。 「よし、行くか」 気合が入ったニトロの声。ダモンはうなずき、そして三人が駆け出した。あっという間に氷がなくなっていく。まるでその勢いを借りるようだった。滑るよう走る三人が島に到着したとき、すでに戦闘は激戦と化している。 「そっちは任せたよ!」 軍船が停泊している港へとトリムは片手を上げて去って行く。ニトロとダモンも手を上げ返し、そして最前線へと。 「怪我、すんなよ?」 「戦争だしね」 「俺がティアンにどやされる」 「言わせないよ」 にやりと笑ったダモン。軽口が出るようならば大丈夫、そんな彼の目。ニトロ自身はあまり平気だという気はしていない。 投げやりになってはいないだろうか、自分は。この戦争で死んでもいいと思っていないだろうか、自分は。一瞬でもそんなことを考えた己が恐ろしくなる。死にたいなど、思ってはいない。死んでもいいような気は、してはいないとは言い切れない。 「ダモン!」 だが隣で戦う友人を死なせることだけは、しない。それだけが支えのような気がした。詠唱など感じさせもせずニトロの手には彼の魔法剣。青碧の美しい剣がそこに出現していた。 ラクルーサにとっての、悪夢だった。軽装の、見るからに魔術師。青い、断じて鋼ではない剣を携え切り込んでくる男。剣が乱舞するたびに腕が飛び、足が裂かれる。それだけではなかった。剣の腕の立つものならば、ラクルーサにも多くいる。それだけならば、いくらでも対抗できた。男は、魔法を使った。剣と共に閃く残光。風の刃が宙を切り裂き、凍りついた水より硬い水の矢が背中を打ち抜く。 なんとしても魔術師を落とそう、と躍起になるラクルーサにもう一つの悪夢が。彼の傍らで戦う男もまた、悪魔のようだった。見えない武器を操れば、ばたばたと面白いように人が倒れる。血煙が上がり、悲鳴が絶えない。 「この野郎――!」 恐怖に涙をこぼしながら突き込んできたラクルーサ兵。ダモンは伸ばし切った銀糸に舌打ちをし、拳で敵を打つ。やたらに振りまわす剣が脇腹に。幸い、切られはしなかった、が、剣の腹が当たったのだろう、肉体の内側で音がする。が、そのときには引き戻した銀糸が敵を消していた。 「エイシャに感謝します。肋骨二本で済みました」 微笑んで女神に感謝を捧げるダモン。ずるり、と敵兵が下がった。ニトロはその間にも魔法を緩めない。二人の周囲から敵が消えるほど。その消えて行く輪が次第に広く大きくなっていく。 わっと歓声が上がった、同時に悲鳴が上がった。軍船が、港を離れる。横目で見やったニトロはいつの間にかずいぶんと高い位置まで上っていたことに気づく。港は眼下に見えていた。ゆったりと、船が離れて行く。ラクルーサ兵の慌てふためく小さな姿。船を取り戻そうとする彼らを阻止する連盟兵。 「さぁ、続けよう」 ぷ、とダモンが口から血を吐き飛ばす。笑顔の彼に敵兵は恐怖したらしい。ニトロはにやりとダモンに笑顔を返す。久しぶりのニトロの笑顔だった。いまだ歪んではいたけれど。二人の足並みがそろい、背後には連盟兵士たち。島主の館まで一気に戦いを推し進めていった。 |