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早朝。朝靄の漂う中、狼の巣の外にはすでに連盟軍が集結していた。今や遅しと出発を待っている。 本市街でも同じだった。綺羅星の如く名だたる著名人がずらりと勢揃いしている。議長サマルガードをはじめとした出征して行く者たち。カレンたち、留守居役。戦時顧問団の一部に内政を預け、サマルガードは出陣する。見送るもの、励ますもの。戦果を期待しろと請け合う声。抱擁を交わし、怪我のないよう祈るエイメとカレン。ニトロはぼんやりと彼らを見ていた。周りを囲む街の人々も威勢よく声を上げている。その中から声が聞こえた。 「ニトロさん、頑張って!」 どこかで聞き覚えのある声。たぶんきっと、近所の人だろうとニトロは思う。それ以上のことは考えなかった。振り向くこともない。 「ラクルーサなんかやっつけて帰って、ニトロさん!」 応援をしてくれているのだろう。無事を祈られているのだろう。ニトロはゆっくりと振り返る。見知った人々の顔がそこにあった。ニトロがこちらを向いた、と喜ぶ人の顔が。 「――俺には、わからない」 しん、と途端に静まる。ニトロの声はさほど大きなものではなかったにもかかわらず。 「キアランを襲ったあなたがたが、彼を殺そうとしたあなたがたが、どうして俺があなたがたのために戦うと思えるのか。――俺にはそれがわからない」 それきりニトロは口をつぐんだ。責めているのではなかった。そんなつもりは毛頭なかった。ニトロには本当に、わからなかっただけだ。無邪気に戦果を期待している声。無事を祈ってくれている声。帰ってこい、と言ってくれる人々。ニトロにはわからなかっただけだ。 「ニトロ」 視線が壇上に。そこにはカレンが。何気ない足取りでカレンはニトロの元まで下りてきた。強張った顔のサマルガードがカレンの視界の端に。彼女は片目をつぶり、任せろと請け合う。 「帰ってこいとは言わんよ、ニトロ」 愕然とした出征軍の顔。街の人の顔。カレンは気に留めもしない。ニトロは気づいてもいない。にやりと笑って愛弟子を見ていた。 「帰る必要はない。お前がそれを望むなら、私はそれでいい。私の望みはただ一つ、わかるか?」 「わかりません」 「だろうさ。教えてやる。ありがたく拝聴しろよ? ――お前が生きていることだ。それだけだ。それで、充分だ。死ぬなよ、ニトロ」 ぽん、と背丈の変わらない彼の頭に手を乗せる。普段ならばふっと口許が緩むニトロ。いまは淡々とした眼差し。カレンは彼の代わりに、とでも言うよう微笑んでいた。 「師匠。頼んで、いいですか?」 「うん?」 「現時点で、戻る自信がありません」 「だと思ってるぜ。いいぜ、なんだよ?」 「本部に、シアンの遺骨を持っていってあります。俺が戻らなかったら、キアランの祖母さんに届けてください」 街の人々が息を飲んだ。キアラン。狼に変ずると言う、魔物と変わらないように思っていた男。魔物ではない、単に異種族なだけだ、と魔術師たちは説明してくれたけれど。 その男に家族がいた。それは街の人々を愕然とさせるに充分だった。小声で囁きかわす声。シアンというのは男の息子だと。キアランに家族がいたのだと。 「場所は、知ってる人がいるでしょう?」 万が一を慮ったのだろう、ニトロはドルシアの名を上げなかった。それだけニトロはいま、常人を信用できないでいる。気持ちはわからなくはない、とカレンはうなずいていた。 「承けたぜ。任せろ。まぁ、お前から届けてやった方がいいと思うけどな」 「――どの面下げて顔出せるんです? 俺は、キアランを守れなかった」 カレンから視線を外し、ニトロは遠くを見る。捜さなかったわけではない。が、魔術師ではないキアランに魔力で痕跡を残すなどできない。同時に、狼に変じているからこそ、野山に痕跡など欠片もない。ニトロは今に至るまでキアランが無事でいるのかすら、掴めていない。死んではいない、それだけがぼんやりと感覚できる。 「とりあえず、まずは働いて来い」 「はい。いまはまだ、ここに住んでますから」 「だな。後のことは後のことだ。いまはそれで、いいな?」 こくん、とうなずいたニトロ。まだ青い顔をしたサマルガードと街の人たち。ニトロは働く、と言ったならば言葉分の仕事はする。カレンは彼の背を叩いて送り出す。 「行きましょ」 ニトロを促したのはエイメ。カレンはつらいだろうな、とニトロはなんとなく感じる。親友を送り出さざるを得ない彼女。共に戦った方がずっと気が楽だろうに。 「では、出発!」 空気を切り裂くよう、議長が声を上げる。騒めいていた人々もそれで勇気を振り絞る。ニトロはそうして本市街を出て行った。 街の人たちが花を散らし手を振り、彼らを送り出す。半ばはお祭り騒ぎのようなもの。サマルガードをはじめとした著名人もにこやかに手を振り返して行進している。 が、狼の巣の外に集まった軍に合流するなり、雰囲気が激変した。すでにいつでも出立できる準備は整っている。議長たちもすぐさま馬上の人に。 総数で七百名ほどか。イリオ隧道で工作している者たちが合流すればもう少し増える。これ以上連れて行っても戦場が限定される以上ただの無駄、と断じたサマルガードの決断だ。 そのうち三分の一ほどが馬に乗っている。残りは大型の輸送用馬車だ。ここに連盟の強みがある。大型馬車などで行軍すればあまりにも速度が落ちすぎる。けれど連盟には魔術師が多数在籍している。軽量化の呪文をかけられた馬車と馬での行軍は通常の軍隊の行軍より高速での移動が可能だった。個人の旅行より多少は時間を食う、程度に抑えられている。 「ニトロ」 彼は馬での移動を選んだ。誰かと共にあるのが耐え難い。馬上で一人、遠くを見たまま疾駆していたところ。 「……あんたか」 ダモンだった。顔色はもうよくなっている。シアンの魂を引き留めた際に受けた傷はよくなったのだろう。 「僕が横につくよ。魔術師には物理攻撃手がつくものだからね」 からりと笑うダモンだった。何があったか、知らないはずはないというのに。現にダモンは激しい後悔をしている。どうして自分はキアランの側にいなかったのかと。狙われているのは知っていた。まさか街の人に襲撃されるとは夢にも思っていなかったけれど、ニトロが外出するならば自分が側にいるべきだった。 実際は、不可能だっただろう。ダモンはシアンとのことがあり、体調が万全ではなかった。だからこそ、自宅にいたのだから。キアランの側にいれば、確かにダモンは神官だ、神官相手に襲撃をするような愚か者はこの大陸にはいない。彼らは無事だったかもしれない。が、ダモンは何もしていないときはほとんど眠って過ごすほど、ひどい状態だった。それでも、後悔は尽きない。 「――ティアンは」 ニトロの短い言葉。ダモンはにこりと笑う。その眼差しが輸送用馬車の方へと。さすがにニトロも驚いた。まさかティアンまで従軍しているとは思いもしなかった。 「志願兵だよ、二人とも。君の隣で戦えるのは、僕くらいだろう?」 そして自分が戦場に立つのならばティアンも立つと。ニトロは黙って前を見ていた。詫びればいいのか、感謝をすればいいのか。その腕にぽん、と触れてくるダモンの手。ふとカレンのそれと重なった。 「考える必要はないよ、ニトロ。君はいま、そんな状態じゃないんだ」 「俺は――」 「君は元々大の人嫌いだっていうのにね。キアランを人間に襲われて、よけいに嫌いだろう? それなのにどうしてだろうね、その人間のために戦わなきゃいけないのは」 肩をすくめたダモンだった。先ほど自分が言ったことを聞いていたのではないか、と思うほどそっくりの言葉。聞こえたのだろう兵たちがざわりとする。ダモンは気にした風でもなかった。 「俺が、イーサウに住んでるからじゃないのか」 「そのあたりが君の真面目なところだな、と僕は思うよ。人間なんか嫌いだって、出て行っちゃえばいいのにね。それもできない生真面目な君ばかりが苦労する」 ニトロのどこかが苦笑する。そこまで責任感のない振る舞いをするつもりはなかった。イーサウという街に感謝をしていないわけではない。幼くして故郷から出たニトロを迎え入れてくれた街。学問を授け、この手に魔法をくれた街。幼友達を殺され、大事な人を襲撃された街。 ――ろくなもんじゃねぇか。 内心でちらりと笑った。はじめてだった、心の内側ですら、そんな風にニトロが笑うのは。キアランを失ってから、凍りついたよう世界は色褪せている。 「ニトロ?」 「いや、なんでもない。あんた以外ではじめてだったな、と思ってた」 「ん?」 屈託のない顔をするダモン。ニトロは視線を合わせる。少し窶れていた。シアンのこと、キアランのこと。彼にもつらい日々だった。ニトロは黙って手を伸ばし、馬上で互いの手が触れ合う。 「あんた以外で、大事だと思ったの、あいつがはじめてだった」 「シアン君じゃなくて?」 「シアン、助けたい相手だった。助けられないって、わかってて。俺は」 「いいよ、ニトロ。無理にわかろうとするなんて君らしくもない。わからないことは不思議だなぁって放っておくのが君だろ?」 ふふん、とダモンが鼻で笑う。その方がずっとダモンらしくないというのに。普段のニトロの真似でもしたか。気づいたニトロの口許にかすかな笑みとも言えない動き。いまはそれで充分だとダモンは思う。 ――想像以上に、キアランのことがこたえてたんだね、君は。 ニトロの異常はカレンから聞かされて知ってはいたダモンだった。理解できない、とデニスが半泣きになって訴えにも来た。いまこの目で見てダモンは確信する。 ――君の欠けたところを補うのは、もう僕ではないのかもしれない。 それを厭うたことは一度もない。あの、いまから思い返せば悪夢としか思えない場所から救い出してくれたニトロ。当時は彼に欠落があるなど、想像もできないほどニトロは輝いていた。 ――性格が悪いのは、知ってたけどね。 あのころから言っていた冗談。意志の疎通の難しさが、そうさせていたのだと気づいたのはいつだったか。ダモンはエイシャに祈る。すべての穏やかな解決を。物語を好む彼の女神に。 |