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あれから二日。すでにイーサウを発った魔術師たちが議員を迎えに行っている。通常の議会ならば長ければ一月以上を経てイーサウまでやってくる議員たちも、総会とあらば少々の吐き気に文句は言わない。イーサウでは神官たちが待機して議員の吐き気の緩和に努めている。 ニトロは自宅にいた。こんな状況では研究に身を入れることもできないし、何より情報収集にニトロは必要な人材だ。自宅待機中、に見えてニトロはいまもイーサウ近郊の情報収集中だ。水系魔術師はこんなときにありがたい、と魔術師仲間は笑う。 「まだ痛むか?」 あの傷跡だった。自分のそれが痛まない以上、キアランのそれも痛みはしないのだろうけれど、気づくと彼は触っている。いまもはたと気づいた顔をして苦笑する。 「痛みはしませんが――」 では何か気がかりが。ニトロの目顔の問いにキアランはもう一度苦笑してニトロに茶をねだった。こんなことを言うようになったのもあれ以来か、ニトロは思う。距離が近いようで落ち着かない、同時に居心地がいい。だからこそ、腰が据わらない。諸問題を先送りにしてニトロは茶を淹れ、キアランの言葉を待った。 「あのとき、あなたは悪評が立つ、と言ったでしょう?」 そんなことか、と拍子抜けしてしまった。では何を問われるのかと思っていたのかは、わからない。ただ何となくもっと深刻な話題のような気がしていただけだ。否、実を言えばこれも相当に深刻な問題ではあるのだが。 「前に話したな? 血の魔術は使っちゃまずいんだよ、色々と」 「あの、沼でのことですね? 覚えています」 キアランが人狼である、と発覚したときのことだった。限定的な沼地の乾燥のため、ニトロは自らの血を使った。 「ちょっと話はそれるけどな。悪魔を呼び出すの、悪いことだと思うか?」 「……はい? それは、無知だからこそなのかもしれませんが……問答無用に悪いもの、という気がしますが」 「だったら悪魔を追い返すのは?」 「いいこと、でしょうか?」 首をかしげるキアランにニトロはにやりとする。茶を一口。いつもながらのいい出来だ、と満足した。 「これな、実を言えばどっちも裏表なんだ。魔族召喚の理論がわかってねぇと、退魔はできない。退魔ができるってことは、呼び出せるってことだ」 だが普通は大声で自分は魔族召喚ができる、とは言わない、ニトロは言った。退魔ができるとは言ってもそうは言わない。できると理解しているのは魔術師だけだと。 「血の魔術も同じでな。これ、なんで嫌われるかって言うと、他人の血を使うからだ。こう、昔話であるだろ?」 「血だらけで生贄を捧げてにんまり笑う悪の魔術師、ですか?」 「それそれ。でもな、別に他人の血を使わなきゃならないって決まりはないわけで。自分のだったらなんの問題もない」 ニトロの言葉にキアランは少し考え込む風情だった。時折思う。シアンは自分が死んだと知らないままに「育って」いた。あの強固な精神力はあるいは魔力に根差したものだったのかもしれないと。キアラン自身、人狼という、どちらかと言えば魔法寄りの生き物だ。こうして魔法の話を聞くキアランは楽しそうでもある。 「ですが……たいてい、痛い思いはしたくないものでしょう」 「だよな。だから他人の血を使うわけだ」 「ならば」 「そこだな。俺が血の魔術を研究すると、いつか堕ちるんじゃないかって心配されるわけだ。俺はこれで一流の魔術師だ。正直、俺が悪い魔法使いなんぞになった日にゃあ、大陸魔導師会の連中で俺を討伐できるのは数えるほどしかいないことになる」 カレンだけかもしれない。一対一でやり合ったとき負ける、とニトロが確信しているのは。数を恃みにされれば負けは確定しているが、あちらはあちらで血の魔術を使うほど堕ちたのならば倫理もまた投げ捨てたと見做すだろう。魔術師たちは倫理を捨てた魔術師に何ができるかよく知っている。だからこそ、不安視される。多大な犠牲が出かねないからこそ。いまのところはただの冗談だが。 「俺としては、魔法は使い手次第だ。鍵語魔法でも堕ちるやつは堕ちる」 「そんなことが、あり得るんですか?」 「あり得るどころか討伐したことだってあるぜ? 常人だって犯罪者がいる。同じことだ。血の魔術も使い方次第。あんたとの間に成立させた共感魔術なんかは便利で有用だと、俺は思ってる。悪いもんではないはずなんだ」 まず第一に高い倫理観がある、という前提での話にはなるが、いずれ血の魔術も一分野として確立されれば、とニトロは思っている。魔法の先を求める者として、未開拓の分野は何より興味深いものでもある。考え込むキアランにニトロはにやりとする。少しばかり普段よりは真剣な藍色の目。 「あんたもだ」 「僕、ですか?」 「あんたはちょっと人間族とは違う、異種族だよな?」 人狼であるキアラン。呪いでもなんでもなく、彼は狼としての形も持っている。生真面目にうなずく彼にニトロは目だけで微笑んだ。 「魔族召喚も裏表。血の魔術だって裏表。異種族だって、そうじゃないのか? 俺も魔術師っていう、異種族だ。怖いところもあれば、いいところもある。力のない弱い人間からしてみりゃ、そういうもんだろうさ」 「あ――」 「悪いもんじゃないって証明し続けるのは手間だけどな。なんでなんにもしてないのに弁解しなきゃなんねぇんだよ!って、正直若い時は思ってたぜ?」 イーサウでは魔術師忌避はないに等しい。とはいえ、魔術師だから、魔術師のくせに、人間がそう口にすることが皆無なわけではない。同時に、魔術師のほうも「常人は」と言うのだから同じだといまのニトロは考えるようになっていたが。 「わからない、知らないってのは、なにより怖いもんなんだと思うんだ。魔術師ですら、血の魔術は得体が知れなくって嫌だって言うやつはいるしな」 そんなもんだぜ、ニトロは笑う。そして、ただそれだけだと。キアランはそっと手首の傷跡を撫でていた。ニトロの魔法における覚悟、というようなものが伝わってくるような、そんな気分。 「あの場に限って言うならな、非常事態だったし。師匠が監督してたしな。特に問題は起きねぇはずだぜ。なんかごちゃごちゃ言われたらあの女が黙らせると思うし」 ニトロはそれだけは、信じている。師ですら、信用できない自分であるのかもしれないと疑ったこともある。もしかしたら、いまでもそうなのかもしれない。ただ、万が一の際には守ってくれる。それは、信じられる気がしている。それがかつてフェリクス・エリナードが言った「絶対の信頼」であるのかどうかは、わからなかったけれど。 「そういう師弟関係、と言うのでしょうか。親子、と言うような。羨ましいですよ」 「そうか?」 「……僕は、シアンにとって父親であれませんでしたから」 「シアンはそうは思ってなかったぜ?」 悪戯っぽく片目をつぶる。力なく笑うキアランは、それが信じがたいらしい。シアンを救い出すことができなかった、そもそも自分の息子は幼児のうちに死んでいた。父として、自分を責めているのだろう。少しずつ、神々に迎えられたシアン、として納得しつつはある様子ではある。難しいものだ、と思いつつニトロにはわからない。キアランが何をもってそこまでシアンを思うのかは。自分には、子供が虐げられているのを見たくない、という理由があった。キアランは父親であるから、が理由なのか。その発露がニトロには、理解がしにくい。 「ニトロ?」 「いや、なんでもない」 「また、何かを気にしていたような顔をしていましたよ」 「気にして……た?」 はじめてそんなことを言われた気がした。気に病んでいるわけでは、たぶんない、はずだと自分では思っているのだが。 「いまので察しましたが。あなたは人の感情が理解しにくい、と言うでしょう? 何か問題がありますか」 「そりゃ……あるんじゃないか?」 「あなたが理解できる形で説明してくれる人がいるじゃないですか。ダモンがそうでしょう? 僕も、できればそうありたい。それでいいじゃないですか」 「まぁ……いいんだろうけどな。そう、だな……。なんで俺はこうなんだろう、とか、思わないわけでもないな。ただ、当たり前に他の連中がやってることが、できない。なんでなんだろうとは、思うな。確かに」 口にして、ニトロは驚く。確かに自分一人きりで、頭の中で、時折はそんなことを考える。気に病むと言うほどではない、開き直ることができるほど強くもない。だからこそ、考えてしまうものなのかもしれない。 それを、誰であろうと他人に言ったことはいままで一度たりともありはしない。ダモンにすら、言っていない。いま、自分はなぜキアランに。小さく笑う、世界は不思議だ、と。 「僕は、魔法が使えませんよ、ニトロ」 「はい?」 「だから、なんだっていうんでしょう。あなたは狼になれますか? なれませんね。問題がありますか?」 「……そういう問題か?」 「できること、できないこと。その程度の問題だと思いますよ、僕は。偉そうなことを言いました、申し訳ない」 軽く頭を下げるキアランの金の目。微笑んでいた。こちらの気持ちを慮って詫びて見せた。ふと気づく。いまのは、理解できたと。たかが、それだけのこと。それでも。 「俺はさ……自分の経験したことなら、他人のことでもわかるんだよ」 「ニトロ。あなた、言ったじゃないですか」 「うん?」 「知らないものは怖いものなんだって。知らないものは、わからないもの、でもありますよ」 「その辺の想像力の欠如が問題なわけで」 「補うものを他に持てばいいだけのことです」 あっさりと断言しては笑ってみせるキアラン。気づけばつられるよう、ニトロの口許にも笑み。少し、気が楽になる。たとえキアランに言われたからといって、自分が変わるものでも、この欠如に悩まないわけでもない。それは理解している。ただ、時折こうしてキアランが言ってくれればいいな、とは思う。 「うん……なんつーか。こういうのは、悪くねぇ気分、かな?」 「それはよかった。長の気分がよくなるのは群れの望みですからね」 片目をつぶったキアランに、久しぶりにニトロは晴れやかに笑う。小さな家の中、ここだけは明るかった。 |