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目覚めれば、頬に当たる温かな毛皮の感触。どうやら律儀に一晩中枕になってくれていたらしい。 「あー、気持ちいー」 もこもことした被毛が心地よくて、思わずすり寄る。喉の奥で笑うような狼の気配めいた思考。悪い気分ではない、とニトロは思う。 もう陽も高いらしい。ずいぶんよく眠ったようだった。遅くまでキアランと話していた、というわけではない。寝室に引き取ってからは互いに無言の時間の方が長かった。先に眠ったのは、どちらだったか。それが、気分の良さに繋がっているのかもしれない、ふとニトロは思う。 ――お目覚めですか? 「おう。おはようさん」 ――おはよう、ニトロ。 やはり、思考のほうが言葉より率直なキアランだった。それがどこかおかしみを誘う。丁重な演技をしているつもりは彼にはないのだろうけれど、内心の声は態度よりもずっと率直だった。 「もこもこですげぇ気持ちいい」 ――夏毛なんだけれどね。 「そうなの? 冬はもっともこもこか。そりゃいいなぁ」 温かで柔らかで。思ったけれど冬の獣の毛とあっては固いものなのかもしれない。雪をもしのぐのだから。とはいえ、ニトロは街育ち。よくはわからなかった。 「あんた、人間の匂いが薄いからな。すげぇ居心地いいんだ――っと。悪い」 ――どうしました? 「いや、言われて気分のいい言葉じゃねぇだろ、いまの。癇に障っただろうが」 ――別に? 僕が狼でもあるのは今にはじまったことでもない。気にし過ぎですよ、ニトロ。 「んー」 もぞもぞと動き、ニトロはためらう。そんな彼をキアランはそっと笑ったのかどうか。首を伸ばして髪を舐めていた。毛づくろいがまた、心地よいのだから困ったものだ。苦笑してニトロは体を伸ばし、キアランの首を抱き締める。顔中を毛に埋めてしまえば、よりいっそう温かい。ぽふん、と背中に尻尾が乗せられた。 「俺は……元々人間が苦手なんだよ。人間出身の魔術師だってのにな」 ――違う出身もあると? 「あるさ、そりゃ。神人の子らだって魔術師になるし、闇エルフの子だとかもいる。そいつらはけっこう人間嫌いって多いんだけどな」 自分は紛うことなく人間だ。なにしろ祖先が誰かわかっている。途中で異種族と婚姻があった、とも聞いていない。それなのになぜ。時折はニトロも思わないでもない。 「なんつーかさ、おんなじ言葉を喋ってんのに、全然通じねぇような、違和感。上っ面で、適当で。別にそれが悪いってんじゃない。ただ……なんか、苦手」 ――あなたは誰にでも真っ直ぐで正直でありたいと? 「まさか! そんな気があるんだったらここまで人間嫌いかねぇ? つか、そもそもかかわるのが嫌なんだよ、俺は」 誰とであっても。研究室に日がな一日こもりきりでいたい、出てくるのは別の研究のためだけ。そんな生活こそがニトロの好みだ。他者がそこにいる、と思うだけで嫌な気分になる。 ――僕は人間らしくないからあなたは気楽なのかもしれないね、ニトロ。 「あー」 ――他意はないよ。僕は人狼だ。人間ではない、異種族だからね。 くつくつと笑ったキアランの思考。ニトロも小さく笑いだす。そのとおりだった。キアランがいても、さほど負担になっていないのは、彼が正しく人間ではないから。 「ただな、キアラン。あんたはヒトではあると思うぜ? 異種族でも、わかり合えないわけでもねぇし。人間社会から弾かれるような存在だとも思わねぇ。まぁ、あんたがあいつらと付き合いたいんならってとこだけどよ」 ――仲よく適応してやって行け、とは言わないんだね、あなたは。 「言わない言わない。俺、それで嫌な思いしたもん」 顔を顰めたのだろうニトロの気配にキアランは再び髪を舐める。ごそごそと動くニトロに内心で笑みを浮かべた。 狼の毛づくろいを受けつつ、ニトロは昔話をする。学院時代のことだった。仲間と違う、少し変わっているというだけで責められた記憶。 「なにが悪かったわけでもないと、俺は思ってるんだけどよ。多少は生意気だったけどな。――俺が悪くなかった証ってわけでもないんだろうけど、あのあと学院は改革されてな」 いまでは子供の個性を重んじるようになっている、少なくとも誰とでも仲よくやれ、とは言われていない、ニトロは語る。もしも当時がそうであったのならば、自分はいまとは違う大人になっていただろうか。変わらないだろう、ニトロは思う。少なくとも人間嫌いの社交嫌いは何か切っ掛けがあったというようなものではない。 ――そんなことを僕に話して、あなたは。 笑う狼の思考にニトロは顔を顰めた。反論したい、ただの昔話だったと。が、しにくい。確かにキアランの言う通りだ。ニトロは誰彼かまわず至るところで問われればどんな話でも答えてきている。興味のない他人にどう思われようとかまわない、そのせいだろう。だが、いまのは違う。自分の心持ちが決定的に違う。どう違うのかは、見当もつかなかったけれど。 「……寝不足なんだよ。それで口が滑ったんだ」 ――あまり、嘆くものではないよ。体を損ねてしまう。 すり寄ってくる狼の頬。片目を開ければ、すぐそこに大きな金の目。人間の姿でいるときより、思考同様に率直な眼差し。ニトロは小さく笑ってキアランの頭を叩いた。 「俺が慰められてどうするよ?」 二人の間にシアンが漂っている、そんな気がした。いなくなってしまった子供が。キアランの息子が、ニトロの友人になれたかもしれない子供が。 ――群れの心配をするのは狼の習性だからね。 ぱちりと片目をつぶった狼にニトロは吹き出す。意外と茶目っ気があるらしい、とようやく知った。シアンを失った痛みが一朝一夕に消えるものではない。キアランの眼差しがそれを語る。それでも、生きて行く。シアンが生きることができなかった明日を自分は見るのだ、そんな姿。あるいはそれは正しく生きる狼の姿。人であり、狼である彼の。 「とりあえず、片づけなきゃならないことがまだまだあるからな」 エヴリルのことだ、と言わずともキアランにはわかる。どうしてだろう、ニトロは頭の片隅で考えていた。 たったこれだけのことだ。同じ事件を共にした仲だから。確かにそのとおり。けれど、そうしてひとつの仕事を片づけた仲であっても、言葉が通じない相手はいくらでもいた。エイメが言っていた相性、とはこういうことなのかもしれない。キアラン相手ならば短い言葉で済む、それが快い。 ――無理は、しないでくださいよ。あなたに何かがあればシアンが嘆く。僕も。 「あいよ。――ん、誰か来たな。誰だこんな時間に」 文句を言いつつ頭を上げた。毛の感触がなくなるだけでひどく頼りない気持ちになる自分に苦笑する。ぽん、と自らの頬を叩いて気合を入れて起きあがり、そういえばこんな時間、と言うような時間でもないことにやっと気づく有様。 ――ニトロ、疲れすぎだ。体より、心が。 「まぁ、仕事が山積みだからよ。片づいてからなんとかするさ」 狼の不満そうな唸り声。これを夜の森で聞いたら恐ろしいかもしれないな、思ったけれど相手はキアランでここは昼間の自宅。ただ面白いだけだった。 「なんだよ。勝手知った誰かだな、こりゃ」 魔術師の感覚の鋭さ、というものだった。誰かが家に入って来たのをすでにニトロは感じている。このまま探ろうと思えばできるが、それをするより出て行った方が早い。敵意があるのならばもっと早くに感知している。 「あら、おはよう。遅かったのね?」 幸運の黒猫隊、隊長のアイラだった。花束を抱えてこんなところで何をしているのか、とニトロは頭を抱えたくなる。溜息をつきながら寝室を振り返った。 「服着てからでいいぜ」 言った途端だった。アイラも、いまだ寝室の中にいたキアランもが驚く。その場でニトロが頭を抱えてしゃがみこんだのだから。ぷ、と吹き出したのはアイラだったが。それを合図にニトロは飛びあがるよう立ちあがり、アイラに向かって指をつきつけ。 「違うからな!? そういう意味じゃねぇからな!?」 「いやね、なにうろたえてるのかしら。うぶよね、ニトロって意外と」 「誰がうぶだ!? この年で童貞守ってるわけねぇだろうが!?」 「肉体的にどうのって問題じゃない気がするのよね、あたし。で、なに? キアランさん、裸なの。ふうん、そぉなの。ふうん」 「だからアイラ! 違うって言ってんだろうが!」 アイラはキアランが人狼だと知っているはずなのだが。思い至って、だからかわれただけだったと気づく。自分の発言が誤解を招くものだと感じてしまった、完全に自業自得以外の何物でもないニトロは無言でそっぽを向く。 「僕がなんです? おはようございます、アイラさん」 「あら、おはよう。これ、シアン君にね。男はこういう気がまわらないでしょ」 花束を差し出したアイラだった。一瞬キアランの目が丸くなり、痛みがよぎるのをニトロは見た。アイラを責めようか、思ったけれどキアランがかすかに首を振る。そして微笑んで礼を言っていた。 「飾ってあげてね。この家、花瓶なんてあったかしら?」 「台所で見た気がしますね。早速飾らせてもらいます」 そうして、笑顔でキアランの後ろ姿を送り、けれどアイラの目は鋭い。ニトロはそんな彼女に一歩近づく。 「で?」 まさかシアンに花を捧げたかったから訪れただけ、とは思ってもいない。ニトロの藍色の目の厳しさに、アイラはそれでも怯みはしない。ちらりと台所を見やった。 「勘のいい男だ。お前が俺に話があるってのは悟ってるさ。話が終わるまで戻ってこねぇよ」 「ありがたいわね。――ちょっと、違和感がある話が聞こえてきたの。関係あるかどうかはわからない。でもあなたには知らせておく」 うなずくニトロにアイラは語る。意外な話だった。さすがにニトロもそれには驚く。ただ、どこかで繋がるような、不思議な感覚はあった。 「ラクルーサが、動いてるの。国軍よ。それも海軍」 「ミルテシアとなんかやらかそうって話じゃないんだな?」 「だったらあなたに話を持ってきたりしない。船、どっちに動いたと思う? こっちよ。北に向かって動いてるの。さすがに、あたしも海の上のことまではわからない。ただ……」 そのまま何事もないとは思えない。アイラは言う。ニトロも同感だった。が、イーサウ連盟に向かって来ているともまた考えにくくて戸惑う。二人、互いの目の中にあるものを見ていた。何かもまだわからずに。 |