夢のあとさき

 何がシアンを襲ったのか、キアランは立ち尽くす。もう影もない息子の姿を目で追い続ける。その肩に置かれた温かな手。のろりと彼は振り返る。
「……シアンはもう、死んでたんだ」
 ニトロの言葉が理解できなかった。先ほどまで、つい今しがたまでシアンはここにいた。笑って遊んで、楽しそうに。ニトロへの眼差しが、ドルシアへと。
「ドルシアを責めるな。あいつのせいじゃない。……そういう問題じゃねぇんだ」
 重く沈んだニトロの声だった。気づけば頬が濡れている。キアランは拭うことも忘れて彼らを見ていた。
「俺と師匠とドルシアと。あと神官二人か……。その辺は、知ってたんだ」
「……どうして」
「黙ってたのは、俺だ。責めるなら俺を責めろ」
 疑問も何も、わからなかった。口をついた言葉すら意味がない。震えるキアランをニトロはどうしてやることもできない。ただ、ここにいるしか。いる意味もないというのに。カレンが見るに見かねて進み出てくるのを首を振って留めた。
「とりあえず、全部話すから。帰ろうぜ」
 ことん、とキアランはうなずいた。シアンを思わせるその仕種。ニトロもまたやりきれない思いでいた。無言のまま家路をたどる。さっきまで傍らにあったシアンの姿。跳ねるような足取り。もう、いない。
「……すまん、ダモン。今日は遠慮してくれ」
 家の前に来てようやくニトロは口を開く。驚いた顔をしたティアンと厳しい顔つきのダモン。助ける気でいてくれたのか、内心で小さく微笑む。だからこそ、手は借りたくない。
「大丈夫だ。これは、俺とキアランの問題だろ?」
「違うと思うけどね、僕は。いいよ、君の好きにしたら。わかってると思うけど、ニトロ」
「わかってる。そのときには、手を借りるさ」
 片手を上げて家に入った。ドルシアを伴ったカレンが見送っている、その眼差し。なにもニトロは言わなかった。言葉がない。ドルシアの沈鬱な眼差しも、いまのニトロには重たいだけ。
 カレンが教えてくれて、これだけは料理上手な兄弟子からも褒められる茶を淹れた。受け取ったキアランは、それでも何も見ていない。当然だろうとニトロは思う。
 この自分ですら、胸の奥に抱えるものがある。たった一人の友人に人の心がわからない男と言わしめた自分ですら。
「……あんたは、息子を助けたいって思いだけで、ここまで来た。あんたの方が、きついのはわかってる」
 声に、ようやくキアランが顔を上げる。ふと羨ましいとニトロは思った。息子を失くし、誰憚ることなく泣き濡れることができるキアランが。自分にはできないとも思う。
「あなたは、知っていたと」
「知ってた。――聞けば、あんたはいまよりつらい思いをする。聞くか?」
「聞きます」
 断言するキアランは、何も知らない。ニトロはそっと目を閉じる。藍色の隠された目を、キアランは見ていた。責める気など毛頭ない。ただ、知りたかった。
「――シアンな。クレール刀自が、島に入り込んで様子を見に行ったって、言ってただろ?」
 祖母がそうして息子の様子を見に行ってくれた、と聞かされたキアランはほのぼのとしたものを覚えたものだった。あの厳しい顔をした祖母がどんな顔をして曾孫を見に行ったのかと思えばこそ。
「三つか、四つって、言ってたか」
 クレールは言っていた、そのときに攫うのだったと。後悔をしていた。彼女の後悔は、深いだろう。この事実を知ればよりいっそう、深いだろう。どことなく察していた風ではあった。が、それ以上に。
「その、直後かな。たぶん。――シアンが死んだのは」
「……え」
「これが、シアンだ」
 そっとニトロが差し出したのは小さな飾り箱。セヴィルから帰ったニトロたちが廃坑道で見つけた骨を納めていたあの箱によく似た。
 震える手で誰かが蓋を開けていた。キアランは自分の手がそれをしているとはどうしても思えず、箱の中に細い小さな骨を見てもそれが己の目とは思えなかった。
「俺たちが出かける前、シアンが廃坑道に行ってくれって、言ってたの、覚えてるか。骨を、拾ってほしかったんだろうさ。――刀自殿にも頼まれて少し分けてある。あの人はあの人なりに、土に還すんだろう」
 ニトロの言葉をキアランは黙って聞いていた。信じられなかった。すぐ傍らにいた息子。たった四つで死んでしまったなど、誰が。
「死んでたの、知らなかったんだろうな、最初は。あんたに会いたくて、魂だけが、育ってた。そんなところなんだろう」
「あり、得る、んですか……?」
「さぁな。あり得たんだろうさ。実際、シアンはそうして育った。本人が気づいてなかったからなのか、やけに普通だったしな」
 誰も気づいていなかった。キアランも思う。廃坑道に育っていたシアンという青年。己が産み落とした子供が美しく育ったと耳にして呼び寄せたエヴリル。その間、誰一人としてシアンが生きていないなど、気づかなかった。
「ドルシアは、知ってたみたいだ」
「知っていて……」
「だから、鳩だったんだろうさ。あんた、言っただろうが? 魂は鳥になって愛しい人の船を追う、だったか? 鳩になって、大好きな父親と共にあった」
 零れるキアランの涙。大粒で真っ直ぐな。ニトロを見たまま、シアンを思う。何も知らずに助けられたと喜んでいた自分がそこにいた。
「ただな。さすがに魂だ。呪いには耐えられても、今度はそれを解くのには耐え切れない。解呪をすれば、魂ごとあの世行きだ。妙な表現だけどな」
 だからダモンが手を貸した、ニトロは言う。己の生命でもってシアンの魂をこの世界に繋ぎ留めていた、と。愕然とキアランは隣家の方角を見る。いまはカレンの家にいるのだろうダモンを。
「あいつも不幸この上ない子供時代を送ってる。シアンに自分を重ねたんだろう。せめて、少しでも楽しい思いをしてほしい。あいつの祈りにエイシャ女神が応えてくれた」
 数日ではあった。父とともに人間の姿を取り戻し、シアンは遊んだ。語り合い、手を繋ぎ。精一杯に遊び尽して。
「……いい子で、いたいからって。そういうことだったんですね」
「あのままずっといてもダモンはかまわない、そんな覚悟だったろうさ」
「それをすれば……彼が命を落としたのでしょう」
 ニトロは何も言わない。それこそが肯定だった。人ひとりの生命で、一人の魂を繋ぎとめる。女神の奇跡があったからこそ、叶った祈り。
「俺は、最初からシアンが死んでるの、知ってた」
 ぽつん、としたニトロの響きにやっとキアランは耳を傾ける。助けたいと、ずっと言ってくれていた彼だった。
「あいつが物食ってるの、見たことなかっただろ?」
「それは、呪いのせいだと……」
「死んでたからなんだよ。ダモンがあいつの命を支えて、ようやくあいつは物を食えた。あんたと一緒に飯食って、嬉しそうだっただろ? それを、覚えててやってくれ」
「僕は――」
「あいつな、あんたに知られたくないって、言ってたんだ」
「どうして! 僕は、確かに頼りない父親です。親と名乗ることなど許されない。それでも」
「違う。そうじゃない。大好きな父親だから、笑ってる自分だけ、覚えててほしい。大好きな父親だから、あんたには幸福になって欲しい。だから、最後まで黙っててって、言われてたんだ」
 ぎゅっと握られたニトロの拳。気づけばキアランはその手を取っていた。額に押し当て、零れる涙。温かいものがニトロの拳を濡らして行く。
「……つらい思いを、させました。ニトロ。すみません。ありがとう」
「詫びられるようなことでも礼を言われるようなことでもねぇ。俺は、シアンの命までは助けられなかった」
 女神の奇跡があったとしても、叶わない願い。十五年も前に死んでしまった幼子をこの世に取り返すことはできようはずもない。それでも帰って来てほしかった。生きていてほしかった。あのままキアランの横で、笑っていてほしかった。
「だからな、誰も責めてくれるな。責めるなら、黙ってた俺だ」
 シアンでも、ドルシアでもない。ニトロは言う。キアランは無言のまま首を振る。握ったニトロの硬い拳。
「責める人は、いるでしょう。あなたでも、ドルシアでもない。まして黙っていた息子を責める僕ではない。――責めるべき人は、いるでしょう」
 エヴリルを。島主マイナー親子を。キアランが零した言葉にニトロは答えようもない。責めて、どうにかなるのかと思ってしまう。どうにもならなくとも、責めたいのが人だとも思う。ニトロにはいずれもわからず、できない。ただ、思うことはある。
「シアンは、あんたが恨みに染まるのを、見たくないんじゃねぇかとは、思わなくもない。――俺はな、人の感情ってのが理解できない。他人を慮るなんて芸当はとてもできない」
 皮肉に歪んだニトロの唇。どこでもないどこかを見て、それでも強い眼差し。ゆっくりと、キアランに戻ってきた。
「そんな俺でも、シアンがいないのは寂しい。本当のところであいつがなに考えてたのかは、知らねぇよ。――笑ってた自分だけ覚えててって言ったあいつだからな、それは叶えてやりたいと思う。それだけかもしれない」
「あなたは……」
「俺は正直、人でなしだぜ。他人と交わろうだとか、一緒にうまくやってこうだとかは考えるだけで虫唾が走るろくでなしだ」
「いいえ、あなたは。それでも」
「シアンは、助けたかったんだよ。自分のためではある。俺はあいつを見てると嫌な過去を思い出す。だから、助けたかった。幸せになって欲しかった。できないってわかってても、生きていてほしかった。全部、自分のためだ」
「……あなたに助けられた息子は、とても、幸せだったと思います。笑って、いましたから。シアンを笑えるようにしてくれたのは、ニトロです。あなたがどう考えていたとしても、あなたはシアンを助けて、楽しませて、送り出してくれました」
 遊びに行くよう、走って行った息子の姿。小さな子供の姿に戻って、神々に迎えられて。神官たちの祈りが届いた神の奇跡だったのか、あれは。
「いい奴ほど、早く死んじまうって、言うよな。シアンは、エイシャ女神にも、双子神にも愛されたんだ。わざわざ迎えに来てくれたんだから」
 迷子にならないように。楽しく遊びながら行くことができるように。不意にキアランは目を上げる。感情がわからないと言うニトロの藍色の目。濡れていた。




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