夢のあとさき

 昨日は女神湖に遊びに行った。以前ニトロが幻覚で見せた湖だ、と大はしゃぎだったシアン。一昨日は公園で散策を楽しんだ。シアンはイーサウを目一杯に楽しんでいる。父と共に。
 すでにニトロの自宅に彼らは戻っている。ニトロたちがセヴィルに行く前と同じく、キアラン父子にティアンとダモン、そしてニトロが彼の自宅で過ごしていた。
 違うのは元々ニトロの寝室だった場所を占領しているのはキアラン父子になったこと。ニトロは工房を明け渡し、ティアンたちに譲った。本人は居間の長椅子でごろ寝だったが、たいした問題とも感じていない。
「おはよう、ニトロ」
 台所に行けばダモンが朝食の支度をしていた。顔色が悪いと思うのは気のせいではない。が、ダモンは気にした素振りもない。
「……おう。その、な。なんか俺にできること、あるか?」
「ないよ。でも、大丈夫」
 あっけらかんと明るい返答。大丈夫だと思っていれば問わない、とニトロの顔に出たのをダモンが笑う。
「僕の女神が悪いようになさるはずはない。君がそれを信じなくとも僕は信じるよ」
 それを言われてしまってはニトロも返す言葉がなかった。ダモンの願いはまた、ニトロの願いでもある。拒めないし拒みたくない。だが彼が、たった一人の友人がその身を損ねるのを見過ごしにもしたくはない。
「大丈夫だよ、ニトロ」
 そっと腕に添えられたダモンの手。ニトロはうなずくことしかできなかった。そうこうしているうちにシアンとキアランが起きてくる。ティアンも朝の稽古を終えたのだろう、裏庭から戻ってきた。
「ニトロ、今日は? 大きなお風呂行くって言ってたの、今日だよね!」
「言ってた言ってた。大丈夫だから、落ち着けって」
「無理!」
 朗らかに明るい子供の声。すみません、とキアランが苦笑し、けれど彼の目も明るい。ようやく取り戻した息子の姿。キアランもまた充足の中にいた。
 朝も早くから大騒ぎで、シアンの興奮がその場の全員にも感染するよう。ニトロもダモンもシアンにだけは決して不安を見せない。ティアンは、気づいていたとしても。
「おはよう、ニトロ。シアン君」
 ひょい、と顔を出したのはアーロンだった。この男はいつ寝ているのだろう、とニトロは呆れ顔。もう神殿の務めに戻っている彼だった。つまり、聖娼としても。夜遅く、あるいは朝早くと言ったほうがいいような時間まで動いていたはずなのだが、アーロンは元気なものだ。
「おはよう、アーロンさん!」
 シアンはダモンの作った朝食をおいしく全部いただいた。食べる、ということが楽しくて仕方ないらしい。それをダモンが嬉しそうに見ている。
「じゃ、行くか?」
 アーロンが迎えにきた、ということはあちらも準備が整っているのだろう。支度をし、一行を促せば案の定カレンの自宅前ではドルシア親子を伴ったカレンとデニスが待っていた。
「お前もかよ?」
「僕はお見送りだよ」
 兄弟子に嫌な顔をするニトロをシアンが笑う。腕に縋りついてきたその重み。ニトロは受け止めつつ、複雑だった。
「おう、行くぜ」
 無頼同然のカレンの言葉をドルシアの娘たちが笑う。緊張もだいぶほぐれてきたのだろう。またも大所帯だな、とニトロは内心で肩を落としつつ、シアンのためだと割り切る。シアンが楽しんでいる。何より大事なのはそれだった。
「カレンおばさま?」
 娘たちの様子を見て、シアンはカレンの傍らへと。母とは恐ろしいもの、とカレンにも怯えていた当初が嘘のよう、シアンは彼女にも懐いた。他愛ないことを話しながら歩いて行く道。シアンの足取りは羽でも生えているかのよう。
「ニトロ。少し、いいですか?」
 そっと側に寄ってきたのはキアランだった。なんだ、と首をかしげれば自然にダモンとティアンが離れて行く。
「一昨日も、昨日も。視線を感じて」
「あぁ、それか。見られてたぜ。当然だろ」
「え――」
「見てないはずないだろうが? まだいるんだから」
 キアランの愕然とした顔は見物だった。島主がもうイーサウにいない、となぜ彼は思っていたのだろう、ニトロとしては不思議なのはそちらなのだが。
「議長も魔導師会もあんたらを守る気でいる。が、議長の反対派がいないわけでもねぇからな。そっちから切り崩して行こうとでも考えてんだろ?」
 島主が動いているのを当然にしてニトロは知っていた。無論カレンも。魔導師会の主立った者はすべて知っている。議長側も対策を取っているに違いない。もちろん修辞の問題であって、その動きも魔導師会は掴んでいたが。
「いいん、ですか?」
 自分たちがこうして顔をさらしてしまって、いいのかと戸惑うキアラン。その眼差しが息子へと。ニトロは小さく笑った。
「あんな顔されてな、だめだって言えるか? いいんだよ、シアンが楽しきゃ。俺にとっちゃ島主の動向よりシアンが大事だ」
「あなたは――」
 断言するニトロをキアランは眩しそうに見ていた。昼でも夜でもキアランは人間の姿のまま。シアンももう鳩にはならない。ただ、狼の姿が見たい、と息子に乞われて変化をしたことはあったらしいが。
「噂をすればなんとやら、だ」
 ふん、とニトロが鼻を鳴らす。道の向こう、キアランは見た、島主の姿を。数人の配下を従え、じっとキアランたちを睨んでいる姿。
 カレンもまたすぐさま気づく。二人の神官がシアンを守り、ニトロはキアランの前に立つ。何気なくカレンはドルシア親子を守っていた。その漆黒の目が島主を見ている。睨んですらいない、ただ、見ている。静かで、だからこそいっそう精悍なカレンの目。視線を外し、無言で立ち去る島主。配下が舌打ちをして後に従った。
「往来の邪魔だよな。行こうぜ?」
 無造作なカレンだった。何があったとも感じていないかのような顔をしている。さすがにドルシアは顔色がよくない。
「カレンさん、あたしは」
「気にすんな。大丈夫だから。あんたらは私の客だぜ? この私に楯突く阿呆はここにゃいねぇわ」
「……そりゃいねぇだろうよ。そんな阿呆は息してねぇわ」
「なんか言ったかい次男坊」
「なんも言ってねぇですよ!」
 くすりと笑うシアンの声に全員が救われたような顔をした。娘たちと笑い合い、シアンは走り出そうとする。もう安全だと思っているのだろう。
「シアン、走るんじゃない!」
「大丈夫だもの、父さま!」
 叱れる。口ごたえができる。父子には何より嬉しいことだった。朝の光の中、シアンの金の巻き毛がきらきらとしていた。
 シアンは温泉そのものをまず知らない。実を言えばニトロの自宅の風呂も温泉なのだが、よくわかっていないのは当然だった。だから目を丸くする。野原に数多く作られた浴槽、など見たこともない。それはドルシアたちも同じことだった。混浴ではあるが脱衣所だけは別とあって男女に別れて服を脱ぎ、再度中で合流する。ニトロをはじめ男性陣は腰に布を巻いただけだった。カレンも長くイーサウに暮らしているから一枚布を体に巻き付けるのみ。袖も裾も短い浴衣を着たのはドルシアたちだけだった。それでも娘たちは恥ずかしそうにしていたが。
 わいわいがやがや、うるさいほどの大騒ぎ。いつの間にかシアンと娘たちが追いかけっこをはじめている始末。
「まったく。あの子たちはそんな年じゃないだろうに」
 母親の顔をしたドルシアが苦笑しながら、それでも遊ぶシアンを見ていた。娘たちがシアンと遊んでやっているのだ、と気づいていたのだろう。
「これは、気持ちのいいものですね」
 大所帯とあって一行は大きな浴槽を独占してしまっていた。岩組みのそれにキアランは体を沈めて満足そう。
「イーサウの自慢だからな」
 傍らでニトロも浸かっている。疲労が溶けていくようだった。シアンが戻り父と話をしたり、冷たいものをカレンが買ってやったり。あっという間に時間が過ぎて行く。きらきらと、きらきらと。
 家路をたどるときもシアンの弾む足は変わらなかった。今度はキアランの手を取り、あれが楽しかった、これが楽しかったと語る。キアランもまた、それを微笑んで聞いていた。
「ほんとにね、楽しかった。すっごく、楽しかった」
「……よかったよ。お前が笑っていると、父さまも嬉しいよ」
「うん、僕も父さま大好き!」
 満面の笑顔は無垢な子供のうちにしか浮かべられないもの。屈託のない、光のようなシアンの笑顔。ゆっくりと陽が傾きはじめ、気づけばあたりに不思議と人影が絶えていた。
「だからね、僕、行くね。いい子のままでいたいから」
「シアン?」
 唐突な不安。キアランは息子の手を掴む。シアンは微笑んでその手を外した。静かに一同を見回す。誰も何も言わなかった。ただニトロだけがシアンを腕に抱く。
「楽しかったか?」
「うん。とっても! ありがと、ニトロ」
「……おう」
 何を言っても嘘になると思った。シアンの笑顔を汚すと思った。ニトロは名残惜しくその腕を解く。側に寄ってきたダモンとアーロン。代わる代わる金の巻き毛を撫でていた。その目がはっとシアンの背後へと。振り返ったシアン、そしてその場の全員が見た。
 小麦色の髪の少女だった。溌剌とした、可愛らしい少女。そして男の子と女の子が。手を繋いだ面差しの相似からして、双子だろう。
「父さま、大好き。ずっと大好き」
 一度だけ、シアンはキアランを抱き締めた。シアンが離れるより先、キアランは息子の体を抱き返す。きつく、ぎゅっと。それに嬉しそうに笑ったシアンだった。そしてそのまま少女と双子の下へと。
「遊びましょうね」
「遊ぼう」
「遊びましょ」
 彼らがシアンを迎え入れる。走って行くシアンの姿が次第に子供のものへと。少女たちと同じ年頃になったシアンが父を振り返り、笑って手を振った。
 片膝をつき、神々の顕現を見送る二人の神官。エイシャ女神と双子神に伴われ、シアンは行った。呆然と立ち尽くす父を残して。




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