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海岸近辺は長閑な漁村、といった趣だったけれど、島主の屋敷がある辺りはさすがに栄えている。それでもイーサウの住人の目から見れば少々大きな村以上のものではない。 「ちょっと不思議ですね」 島主の屋敷を見上げたアーロンだった。屋敷はここから見えるほど高い位置にある。小高い丘のてっぺんに建っているのだろう。 「そうかな?」 「不思議な立地だと思って」 ダモンたちはニトロの合流を待ち、のんびりと散策をしながらだった。海岸から散歩をしたら着いた、と言わんばかりにこの集落までやってきた。もっとも、いずれ島主の屋敷に行くのだから、予定通りではある。 「ここは金山だろう? 元々全島が鉱山なんじゃないのかな」 どこまで金が出るのかまでは知らない、とダモンは笑う。そして島主が屋敷の拡張でもしようとして山を切り開いたら金が出た、というところなのだろうと。 「だから、屋敷の側が鉱山区なのか……」 なるほど、とアーロンが納得をする。年齢差、というものを普段はさほど感じないアーロンだったけれど、こんなときには経験が違うのだとダモンに尊敬の眼差し。気づいた風もなくダモンは一件の家を見ていた。 「あぁ、あそこ、かな?」 先ほど女将さんたちに尋ねた場所がそこだった。ダモンの足取りが弾むよう。まるで本当に楽しい旅をしていると言わんばかりに。 「ごめんください」 小さな、間口の狭い家だった。だが間違っていないのであればここが竜涎香を扱っているらしい。ダモンの鼻はすでに正しいと嗅ぎ取っていた。 「おやおや、旅の神官様がたというのはあなたがたで?」 さすがに小さな島のこと、噂話は本人たちより早く到着している。苦笑するアーロンと違いダモンはにっこりと微笑んでいた。 「えぇ。最愛のエイシャの神官、ダモンと申します。こちらが竜涎香を扱っている、と伺って。後学のためによろしければ見学をさせていただけないかと」 「もちろんですとも。是非ご覧くださいまし」 おっとりとした人柄の良さを感じさせる男だった。漁師たちや女将さん方の話を聞く限り、ダモンは昔のオスクリタの村を思い出さざるを得なかった。たった一人が絶対の権力を持っている、という意味で。だが島民たちには多少の自由があるらしい。それがダモンにとっては救いになっている。もっとも当時の自分は不自由だとは微塵も感じたことはなかったのだけれど。 「へぇ、これが?」 アーロンは竜涎香など見たことがない。むしろ名前を聞いたこともない。ダモンが道々香油の原料になるのだ、と話してくれただけ。それにしてはずいぶんと不恰好で、自分が香油は原料からして優雅に違いないと思い込んでいたことに気づいた。 「本当に素晴らしい……。こんなに大きなものははじめて見ました」 「中々ありませんからね。セヴィルは海の恵み豊かな島ですから」 「まさに海からの賜りものですね」 白っぽい、何かが溶けて再度固まったかのような塊を前にして微笑みあう二人にアーロンはついて行かれそうにない。原料だ、と聞いていてもいまはいい香りがするでもないせいかもしれない。 「君は知っているかな? 竜涎香はドラゴンの涎が固まったものだということだよ」 「涎!?」 香油のように優雅な男が上げた驚きの声。島の男がよほど面白かったのか笑っていた。ついでとばかり竜涎香の欠片を手に取る。 「よろしかったらどうぞお持ちなさいまし。神官様に差し上げましょう。どうぞ神殿にご奉納ください」 アーロンの驚きと感嘆の目によほど気をよくしたらしい。欠片だとて貴重な香料だというのに。だが神殿に、というのだからダモンはありがたく受け取る。 「あなたに神の御恵みがありますように。では、こちらは私から。せっかく素晴らしいものを見学させていただいたお礼、ということで」 荷物の中からダモンは小さな練り香の容器を取り出す。開けて手渡せば驚きの眼差し。まだつけてもいないのに仄かに香る。 「これは竜涎香を使っています。君は知らないだろうけれど、竜涎香というのは香りも素晴らしいけれど、他の香りを長持ちさせる効果もあるんだよ」 男に差し出しつつダモンはアーロンに言う。男は誇らしいやらありがたいやらで顔を赤くしていた。 「神官様……その、よろしいので?」 「もちろん。受け取ってください。我が女神より調香の技を賜った私ですから」 「なんとも……ありがたい。家内がどんなに喜びますことか」 そうであれば更に嬉しい、ダモンは微笑みを深くする。そればかりは真実だった。自分の技を喜んでくれる人がいる。ただ純粋によい香りだと言ってもらえる。それはいまでも救われると思うほどに嬉しい。 アーロンはそんなダモンの胸中までは知らない。かつて彼がどのような人生を送っていたのかは、知ってはいる。が、それを知悉していると言えるほどではなかった。無論、それでいいとアーロンは思っている。知ろうとも知らずとも、ダモンはダモン。アーロンは間違いなくそう思える自分こそを双子神に感謝したかった。 二人の眼差しが一瞬出会い、少しばかり照れくさげに。何かをどちらかが言いかけるより先、戸口に人影。アーロンはニトロが追いついたのかと思った。すぐに間違いと知る。 「旅の神官様とは、あなたがたかな」 お仕着せらしい衣服をまとった体格に優れた男だった。竜涎香の主が小声で島主様のところの方です、と教えてくれなくとも悟っただろう。 「えぇ、私たちです。朝の船でつきました」 屈託のない、布教の旅に勤しむ神官の顔。アーロンはこれはダモンの本心なのだろうか、と思わなくもない。彼は神官の顔をして潜入をしているのだろうか。それとも、神官として、布教は布教として務めているのだろうか。わずかにそんなことを考えた己をアーロンは恥じる。いずれにせよ、ダモンが私欲でしていることではない。誰かが救われる。その点だけで充分だと思いなおした。 「む、そう……」 難癖をつける気がありありと窺えた。さてどうしよう、アーロンが内心に呟いたとき、男の様子が突然に変化する。 「いや、立派なことですな。是非、お屋敷にお出でください。お嬢様にもお話をお聞かせいただけませんか? 私は先に立ち、神官様がたのご到着をお知らせしてまいりましょう。では!」 何があった。怪訝な顔をしないでいるのが精一杯のアーロンと違い、ダモンは笑顔で礼を言って男を送り出す。 「もう少しゆっくりお話を伺いたかったけれど、お屋敷に伺ってきますね」 竜涎香の主に言えば、一瞬男は口ごもる。そしてちらりと周囲を見回し、人目がないのを確かめた。 「その……お気を付けくださいまし。いや、その。坂が、険しゅうございますからな!」 他に言いたいことはある。が、万が一にも聞かれてしまっては身の破滅。青白くなった顔に汗を浮かべた男だった。 「えぇ、ありがとう。ご心配なく。我々の身は神々がお守りくださいますとも」 信仰で助かるものなのか。男は言いたそうだった。けれどこれ以上は決して口にはできない。唇を噛む男にもう一度大丈夫、とダモンは言い、その家を後にした。 「追いついてしまっては可哀想だ。ゆっくり行こうか」 あの男は駆け戻って行ったのだろう。もう道に姿はない。かと言ってダモンの健脚だ。本気で走れば追いついてしまう。そこまでする必要はなし、とダモンはのんびりと歩きはじめた。 「ダモンさん。さっき――」 いったい何があったのか。男の態度があからさまに変わったではないか。アーロンの問いにダモンがちらりと苦笑する。 「――目的は手段を正当化すると思っていないか、君は? まったく」 ぼそりとした苦言。アーロンはなんのことだと言いたげに眉を顰める。何かをした記憶がまるでない。そこに聞こえる忍び笑い。二重に聞こえた。 「な――!」 「アーロン、振り返るな。妙に思われる」 「あ……。申し訳ない。ダモンさん?」 「そこにいるよ。君のすぐ後ろだ」 振り返りたくてたまらなかった、アーロンは。だが仮に振り返ったとしてもそこには誰もいないだろう。少なくとも目に見える形では、決して。 「ダモンさん……どうして、あなたは」 「君は少々、注意力が散漫だよ。竜涎香の話をしてたときにはもういたよ?」 くつくつと笑い声が聞こえた。気配を消す気はいまのところはないのだろう。注意を払えばアーロンにもいまは捉えられる、ニトロの気配。 「さっきは全然感じなかったよ!」 文句を垂れるのはたぶん答えないだろうと思うせい。二人で歩いていて三人分の声がしたらいくらなんでも妙に思われる。 ――ダモンが言っただろうが? 注意力に欠けてるんだよ、お前は。 が、代わりに接触された。長い溜息をダモンが笑う。ニトロが無事に戻った、と安堵もしているのだろう。 「どうなった?」 前を向き、アーロンとだけ話しながらダモンは歩く。それでいて話しかけるのはニトロ。心得てアーロンはその相手を務めているふりをした。 ――とりあえず移送は無事に終わった。ドルシアたちも無事だぜ。クレール刀自は山に戻ってる。 「そうか、それだけは、本当によかった……」 ほっと息をつくダモンだった。なにも不思議なことはない。が、違和感。アーロンは遅れて気づく。いま、どうやってダモンはニトロの声を聞いたのか。 「ダモンさん、待って!」 「声が大きいよ、アーロン。不思議かな?」 「不思議じゃないと、どうしてあなたは」 ダモンは神官の位階こそあるものの、魔力のない平神官だ。つまりニトロが精神に接触することは本来できないはず。アーロンにいま聞こえた報告が、ダモンには聞こえていない、それが道理であるはずが。 「僕のここに」 ちょん、とダモンが首のあたりを指で触る。薄い肌が漁港の風と光のせいだろうか、少し赤くなっている。色白のダモンらしかった。 「書いてくれてるんだよ、字を。僕はそれを読んでるだけ」 「……だけ? だけと言うような、問題なのかな、それは」 「僕にとってはね。便利だろう?」 闇の中、声を出さずに意思の疎通を図る方法として身につけたもの。いまになってこんなところで役に立つ。過去を振り返り小さく笑ったダモンの肩先、ニトロの手がぽん、と乗せられた。見えはしない手ではあったけれど。 |