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迷えば迷うだけ、別の迷いが生まれる。知らず震えた指先に気づかれたくなくて拳を握れば、敏い目にすでに見られていた。 「――それでも、協力は、できない」 ぐっと噛みしめたドルシアの唇。意外なことにむっとしたのはアーロンで、続きがあるならばさっさと話せと促したのがニトロだった。 「ドルシア」 重たいクレールの声。迷い続けるドルシアが老婆を見やれば、意志の眼差し。厳しいその目にドルシアは魅入られたかのよう。 「このニトロという男は、あたしが飛びかかっても、動じなかった」 「飛びかかった?」 「もちろん狼のまんまでさ。それでも指一本動かさなかった。その胆力をあたしは買う」 言われたニトロがどことなく照れくさそうな顔をした。ぷい、とそっぽを向くのに少女が驚いて目を瞬く。 驚きたいのはニトロの方こそだった。ドルシアとクレールが知己であるのはともかく、よもや人狼と知った上で付き合っていたとは。ならばドルシアはキアランが人狼だと知っていることにならないか。キアランはそれを知られていない、と思い込んでいたものを。 「それに、この男はシアンのような子供を生まないためにはセヴィルを沈めると言った。あんたを地の果て、海の先まで追うと言った。その覚悟を買ってやってもいいと思ってる」 その言葉に偽りはないか、と確かめるようなクレールの目。ニトロは当たり前のことを何を今更、と肩をすくめていた。 「だからドルシア。あんたが協力できないわけを、話しておやり。あたしがあんたを怨まない理由を話しておやり」 あ、と小さな声がした。少女のそれにドルシアが彼女を傍らへと呼びよせる。不安を覚えのだろう少女を慰める風でいて、真実は違うと誰もがわかる。 「……キアランとシアンを呪ったのは、あたしだ。なんでそんなことを平気でしたか?」 呪師としても平然と行い得る魔法ではなかった、とそのドルシアの言葉で確認が取れたニトロはまずほっとする。学院に学科を作れとは言ったが、倫理観に隔たりがあってはお互いにしなくていい苦労をする。そんなことを考えていたニトロの耳に届く悲鳴。 「あたしだって好きでやったわけじゃない! 誰がしたいものか! あたしは娘が可愛い。娘はあたしの命だ。――娘を人質にとられて、逆らえる母親がいると思うのかい!?」 「そりゃいないわな。つか、いないべきだろうよ。セヴィル島にはいるらしいがな」 「エヴリルの外道と一緒にしないでおくれ!」 「当然だな。俺が悪かった」 淡々としたニトロにドルシアが静まる。が、滾るニトロの怒りを二人の友人たちは感じている。またか。またもなのかと。シアンのような子供だけではなく、別の被害がここにも。 「――ドルシアは、二人の娘を人質に取られた。あの子たちを呪わなければ」 う、とクレールが言葉に詰まる。ドルシアが震える指を握り込む。それでも続けようとした言葉。咄嗟にアーロンがクレールの手を取っていた。 「刀自殿、どうかそこまでで。我々も察しが悪い方ではありません。ましてキアランをあのように扱っていたエヴリルのこと」 娘たちの身に何が起こるか、わからないはずはない。無言のままニトロは少女を見やる。青くなった少女は、ドルシアの娘だったのかと。そしてふと眉を顰めた。 「娘、たち?」 少女は一人。ドルシアがこの世の終わりまで握って放す気はないとばかり手を繋いだ少女だけ。青ざめた少女の方がうなずいた。 「……妹が。キアランさんとシアンさんが、まだ生きていると知って。妹が……連れて、行かれました」 「な――」 「神官様。聞いてくださいますか。妹はまだ十三歳です」 力なく震えて笑う少女の唇。アーロンはニトロ同様の怒りを抱く。その手が掴まれた。じっと見据えてくる藍色の目。アーロンは黙って首を振る。 「暴走すんじゃねぇぞこの暴力神官め。てめぇに暴走されるとこっちの仕事が増えるだけだ」 「だがニトロ!」 「うるせぇ! ――ドルシア。あんたの下の娘が連れてかれたのは、たぶん俺のせいだ。俺がキアランの顔をイーサウの街でさらしたからな。島主おびきよせる罠だったんだが、こんなところに影響が出るとは思わなかった。すまん」 率直に頭を下げたニトロにドルシアは返答をしない。詫びられてどうなるものでもない。いまもまだ娘は島で恐ろしい思いをしているのかと思えば。 「……気が、狂いそうだ――! あの子の側にいてやりたい。魂の鳥になって飛んで行きたい――!」 「お嬢さん。嫌なことを聞くようだがな」 ドルシアの悲鳴をニトロは無視した。一緒になって怒り狂っていては進む話も進まない。押し殺した声に、けれど感情が滲み出る。頭を抱え髪をかきむしり。そんなドルシアをクレールが慰めていた。 「……いいえ。お気づかいは要りません。私も妹も、綺麗な体のままです。いまは、まだ」 「そうじゃないと人質にならないってか?」 「汚す、と母を脅したのですから。手を付けてしまってはエヴリルを母が呪って終わりです」 「なるほど。――だったらもう一つ。なんかちっちゃい皿かなんか、貸してもらえるか?」 「お皿、ですか?」 きょとんとしながら娘が立ち上がり、薄い木皿を持ってきた。日頃の生活がしのばれるような質素な、けれど美しく磨いた木の皿。ニトロは布でもう一度拭い、そして片袖を捲り上げる。 「なにをする、ニトロ!」 アーロンの大声。ダモンは長い溜息をつきニトロを見守る。クレールがぎょっとして顔を上げたときにはニトロの手に青碧の短剣。思わず牙を剥きそうになった老婆を前にニトロは自らの腕に切りつける。たらたらと滴った赤い血を木皿で受けた。 「ドルシア。あんたにこれをやる。俺を信用しなくとも、かまわん。俺の命をあんたに預ける。だから、娘の命を俺に預けろ。必ず助ける」 「な……。あんたに、血の意味が――」 「舐めるな。これでも魔術師だぜ。俺の命はいまあんたの手にある」 にやりと笑えば、隣からものすごい勢いで腕が引かれた。ちらりと見やれば厳しい顔のアーロン。 「双子神に願い奉る――」 小声で祈るなり傷は跡形もなく。治すほどの怪我ではない、とニトロは放ってあったというのに。少々ひりひりする程度の怪我を、けれどアーロンは放置はできなかったらしい。 「君が、君の魔道をかけて生きるのを私は止めない。だがな、ニトロ。平気で怪我をするな。放置をするな。それを嫌がる人間がここにいる、と知っていてくれ」 「同感」 短いダモンの同意。ニトロは肩をすくめて答えない。知ってはいる。嫌がるだろうと察してもいた。それでも自分はこうしただろう。無言で木の皿をドルシアに向けて更に押し出す。 「もしもあんたがここから消えたら、呪師はどうなる? この辺にいる呪師って意味だが」 「みんなあたしのことがあってから、うまく姿を隠してる。心配はいらないさ」 「なるほどな。娘さんとは、会えてるのか?」 「毎日、島に通ってる。ほんの少しだけ、顔を見せてもらえる」 元気ではなくとも生きていると、まだ怖い思いはしていてもそれ以上にはなっていないとドルシアに知らせるためにエヴリルが許していると彼女は言った。 「だったら……今日はもう算段してる時間がねぇな。明日か、明後日か。あんたの目の前で娘は死ぬことになる。死体を持って帰るな、とは言われねぇだろ?」 「貴様――! あたしの娘に――!」 「だから偽装だ偽装。死にゃ帰ってこれんだろうが、娘さんも。あんたは死体担いで帰ってきな」 「それをすれば今度はこの子が連れて行かれるに決まってる!」 「当然だな。あんたには娘が二人いるんだからよ。死体担いで帰るあんたに監視がついてここまで来て、そんでこっちのお嬢さんを連れて行くってところだと思うが?」 「あたしはそう思うよ。ドルシア、少しは落ち着いて話を聞きな」 クレールの言葉にドルシアが息を飲む。静かな言葉なのに重たい声。ゆっくりと息を吸い、吐く。お母さん、小声で娘が小さな酒杯を差し出した。それをあおれば、少なくとも落ち着いたふりくらいはできる気がする。 「監視がついて来てこの子を連れて行く。そのとおりだろうね」 「よし。それでかまわん。百人も千人もはいねぇだろ? だったらそれは俺が対処する。二人の娘の無事を確認したら、あんたはイーサウに居を移すことに同意するか?」 「……次はイーサウに監禁かい?」 「いい加減にしろよ。俺がそれをしたら血を使えば済む話だろうが」 皮肉に言うドルシアにニトロは呆れ顔。信じられるものかとドルシアはまだ疑う。当たり前だと思っているニトロは動じもしない。けれど、この男がもしも娘を助け出せるのならば。 「……わかった」 「よし。じゃあ、それで行こう。悪い、ダモン。俺は裏で動くわ。アーロン頼むぜ」 「そんなことになると思っていたよ。任せてくれて構わない」 「ん、頼んだ。ドルシア、この場所、イーサウの魔術師に知られてもいいかな?」 「どういう……あぁ、もうどうでもいい。好きにしておくれ」 「あいよ。――マーテル。ニトロだ。聞こえてるな? 大規模転移の必要が出てきた。準備してくれ。場所? 牢屋ん中でいい。あ? 地下牢でいいっつの。外道どもをブチ込む場所がいるっつってんだよ」 聞こえない誰かと会話をするニトロにクレールが怪訝な眼差し。そういう魔法なのだ、とダモンが微笑む。勝手にダモンに預けられたアーロン一人が不満げだった。 「島主のご家来衆だ。牢になんか……」 「ドルシアさん。連盟には法があります。島主に税やなにやらの配分を任せていても、連盟の法は更に上にあるんです。――あなたのお嬢さんを誘拐して、あなたを脅迫する。これは連盟の法に反する。ニトロは充分、理に適った行動をしています」 「問題は、理に適っているように見えない、というところですがね。心配しないで、お嬢さん。妹さんは必ず助け出せるから」 さすがに自分の不満を表し続けているわけにもアーロンはいかなくなったらしい。目の前で不安そうな顔をしている少女を見ては神官魂に火がつく、というところか。 「よし、向こうの手はずはなんとかなる。隠れて忍び込んで、娘さんに因果を含めて。んでもって死なすふりして死体のふりさせて。外道どもを一網打尽にしてイーサウに転移? なんだよ、キアラン置いてきたってのにやっぱり俺、寝てる暇ねぇじゃねぇかよ」 長々と溜息をつくニトロ。けれど爛々と輝く目。どちらが彼の本心か、問わずともわかることだった。 |