夢のあとさき

 豪胆だ、とアーロンは思う。優しげで、いかにもミルテシア風の優雅な壮年男性。青年時代にはどれほどの美しさを誇っただろう、と思わせるダモン。その彼にしてこれだった。街育ちでいわば都会の人間しか相手をしたことのない自分とは違うのだ、とつくづく思う。そのダモンがことりと荷物から瓶を卓上に置いた。
「こんな時に蜂蜜酒、というのも趣がないものですが。もっと強い酒の持ち合わせはなくて。どうです、一献」
 老婆に何を言っているのだ、とアーロンは唖然とする。だがそれ以上に驚いた。クレールがにやりと笑っては欠けた木の酒杯を取り出し、思いきりよく注ぐ。それを取りあげたダモンはにこりと笑って口をつける。
「あたしももらうことにしようか」
 ダモンから受け取った酒杯。クレールもまた飲んだ。ごくりと喉が動く。老婆にしては素晴らしい飲みっぷり、とアーロンが感嘆していた。エイシャ神殿の蜂蜜酒は中々に強い。それを意に介した風情もなかった。それから少しずつ回し飲みをする。ニトロも、アーロンも。あまり酒に強い方ではないアーロンはこんなときは母が羨ましいと思う。嫋やかな美女のくせに異常に酒には強い母だった。
「それで?」
 酒杯が一巡りした後のことだった。気を許したわけではないが話くらいは聞いてやる、そんなクレールの眼差し。ニトロは彼にしては柔らかに微笑んだ。
「まずは伝言を伝えておこうかな。――自分たちは元気でやっている。祖母にはそれだけを伝えてくれればいいとキアランから言われているよ」
「自分たち?」
「キアランとシアンさ」
 ぎゅっとクレールの唇が引き結ばれた。アーロンはそれで正気に戻る。シアンがいた。何をおいてもシアンがいた。ニトロが彼を助けたいと思う以上かもしれない。アーロンもまたシアンを案じている。
「あの子は――」
「ちょっと魔法を使わせてもらうぜ?」
 言い様にニトロは詠唱する。さすがに許可くらいは取れ、とクレールが顔を顰めた。が、その間にもニトロの手元に水が集まりはじめる。
「盥の一つもあった方がやりやすいんだがな……」
 要は水鏡だった。ニトロほどの魔術師にもなれば容器は必ずしも必要ではない。見る方が少々見づらい思いをする程度の問題だ。
「これは――」
「いまの、シアンさ。可愛いだろ? 十八年前に生まれた、刀自殿の曾孫さ」
 鏡にはニトロの目が捉えたシアンの姿。きらきらと輝く薄青い目。くるくると巻く金の巻き毛。跳ねるよう笑うシアンの姿。
「呪師に呪われてるのは、知ってるかい? そりゃ話が早い。あいつは夜にだけ、この姿に戻る。昼間は鳩になってるよ。真っ白で、そっちもけっこう可愛い」
「シアンが……」
「俺の用事はキアランの伝言を刀自殿に伝えること、だ」
「――何?」
「本題は別にあってな。呪師を探すのが目的でここまで来たんだ。ついでに祖母に会ってくれってキアランに言われて寄ってみたんだ」
「あんたは……。あたしに手伝えとは言わないのかい」
 肩をすくめたニトロ。アーロンとしては訝しい。キアランから祖母に協力を求めろ、と言われていたではないかと。だがニトロの友人は彼の心をよく知っていた。
「――刀自殿。あなたは呪師を怨まないのですか」
 ニトロが言いかねていた問い。ダモンが放てばちらりと苦笑の眼差しが。それでも真っ直ぐとダモンはクレールを見る。なぜ。その思いは間違いなくニトロの方が強いはずなのだから。
「怨む? あたしにドルシアを怨む資格なんぞない。――あの子が、シアンが三つか、四つか。一度セヴィルに渡って、廃坑道まで忍び込んだことがある」
 無論、狼の姿でなければならなかった、とクレールは言う。それほど厳重に警備されていた廃坑道。夜を待ち、獣の視覚をもって曾孫を探した。
「……あのとき、あたしはシアンの襟首を噛んででも連れ出すんだった。狼に食われたと思ってもらってかまわない。そうするんだった。――それをしなかったあたしがどの面下げてドルシアを怨めると?」
 卓の上で握られた拳。枯れた、しかし強い拳が震えていた。曾孫を案じていなかったわけではない。理由があったと、言うに言えないクレールの顔。ニトロはそっと溜息をつく。
「……俺は、キアラン共々呪いを解いてやる。そうシアンに約束してる。あんたも察してるとおり、シアンの呪いを解くのは難儀だ。解いちまっていいのかどうか、迷ってもいる。それでも、シアンは望んでる。――俺は、せめてシアンの望みは叶えてやりたい。あいつがやりたいことをさせてやりたい。楽しい思いをいっぱいさせてやりたい」
「なんでだい。そこまで深い仲かい」
「俺の個人的な過去の問題だ」
「そうかい」
 ふん、と鼻を鳴らしたクレール。だが拒絶ではなく同意があった。ニトロの過去に踏み込むつもりはないと。ふっとニトロの口許が緩む。
「だからな、刀自殿。俺は山狩りしてでもドルシアを探し出すぞ」
「あんたは魔術師だと言ったはずだ。あの子たちの呪いを解けないと?」
「やってできなくはない。キアランだけなら俺はそうした。でもシアンの方は危なくて手なんか出せねぇよ。呪師と魔術師、魔法の理論が違うんだ。作用は似たようなもんでもな。刀自殿だって狼にゃなれても熊にはなれんだろう?」
「納得した。あんたの話はわかりやすいね」
 にやりとした老婆。アーロンとダモンはそっと顔を見合わせてしまう。いまの話のどこがわかりやすかったのか、古馴染である二人にも理解が及ばないというのに。
「だから一番いいのはドルシアを探し出して、首に縄括りつけてでもイーサウに連れて行く。そんで本人の手で呪いを解かせる。これが一番危険が少ない方法だ」
「次善は」
「俺がドルシアの頭に手ぇ突っ込んで魔法理論を理解してこの手で解く。さすがにほぼ人殺しだからな。できりゃ避けたい」
 ほぼ、で済むのかどうか。ダモンはふと眉を顰める。アーロンはニトロがそこまでの覚悟を持っていたと聞かされて内心で驚いている。生命の強奪さえ厭わずシアンを救いたいとは。
「あのな、アーロン。お前にゃ言ったはずだぜ。シアン一人のことだと思ってんのか? エヴリルとかいう女が、シアン一人産んでそれっきりなんてことがあるのか? ねぇだろ。今後、あの女が生きてる限り次のシアンが生まれる。それを避けるためだったら俺はセヴィル島ごと沈めるのも厭わん。そのためにドルシアが要る。なんとしても生かしたまま確保したいんだよ、本音は」
「たかが一人の子供のために島の人間皆殺しにするつもりかい、あんたは」
「たかが? 刀自殿の言葉とも思えねぇな。命は大事です、なんて綺麗ごとを言うつもりはねぇよ。俺は、俺が嫌だからそうする。それだけだがな。それでも島の人間は関係がねぇとは言わせねぇよ」
 魔法灯火と魚油の明かり。薄暗い中でニトロの藍色の目が老婆同様爛々と輝く。気圧されたアーロンの背をダモンが支えていた。
「島の連中はなんにも知らなかったと? キアランだけが囲われて夜な夜なベッドに引きずり込まれてただけだと? 違うんだろう? だったら知らぬ存ぜぬは通じねぇよ。何かがある、生まれたガキが闇から闇って、まして狭い島のこと、知らなかったはずはない」
 その上で彼らは見ないふりをし続けた。己のために。ならば同罪だとニトロは言う。
「ニトロ。君は、島の人たちが恐ろしかったからだとは、思わないのか。島主に逆らえなかったからだとは、思わないのか」
「そりゃ怖いだろうよ。だがな、ダモンよ。そのためにイーサウ自由都市連盟ってもんはあるんだ。せっかく加入しといてな、その手を使わないで見ないふり?」
「イーサウが動く前に、通報した誰かは自分も身内も殺されるだろうと考えるものじゃないか。動けない」
「公式に通報しろなんて誰が言ってるよ? イーサウの商売相手でもいい。知り合った魔術師の誰かでもいい。言えばなんかはしてやれた。情報源を明かさない手段なんか腐るほどあらぁ」
「それを信じられるか? 島主は目の前にいる」
 ここに来てニトロとダモンが対立するとはアーロンは考えたこともない。二人の対話をけれど、彼は聞く。どちらにも理がある。どちらにも、だから加担ができない。低い笑い声が聞こえた。
「どっちの言葉もそのとおり。島の連中は意気地なしだ。島の連中は見ないふりをした。――あたしは人狼だがね、狼は愛情深い生き物だ。だから、島の連中が身内可愛さに黙った気持ちも、理解はできる」
 シアンのことは許せるものではないが。小さくクレールは続けた。小声なのはきっと老婆にとっても悔いが残っているからこそ。
「ニトロは言いませんでしたが、刀自殿。キアランは刀自殿ならば呪師ドルシアの居場所をご存じではないか、と」
 真っ直ぐなダモンの問い。クレールは無言のままにうなずいた。一度だけ、眼差しが泳ぐ。後悔にも似たその色合い。
「……ドルシアに酷いことをしないでやっておくれ。それを約束してくれるなら、教えよう」
「約束はできない。それは俺じゃなくてドルシアに言ってくれ」
「ニトロ!」
「言ったはずだぜ? 俺はそいつの精神いじくってでも連れて帰るぞ」
「そんなことはあたしが、させない」
「……ほう?」
「そこで喧嘩を売ってどうするんだ、君は! 刀自殿。これはこういう男ですが、シアン君を救いたい気持ちはたぶんこの場の誰より強い。それに免じてご寛恕を」
 ぐい、と襟首が引かれ、ニトロは嫌な顔をする。無理矢理振り向いてダモンを見ればその目に怒り。長い溜息をついて彼の手を叩く。ようやく放してくれた。
「あー、その? 全員で熱くなっている模様ですが。刀自殿はドルシアの居場所をご存じだ。でもニトロがこの調子では教えられない」
 俺のせいか、と睨んでくるニトロを気にした様子もなくアーロンは微笑む。度胸を決めてしまえばいつもどおりの男ぶりだった。
「でしたら刀自殿。もしよかったらご同道なさいませんか。刀自殿が同席してくださればいい。ニトロも無茶をしないだろうし、ドルシアも刀自殿が守れる」
 いかがですか。アーロンの微笑。クレールはしばしの間考えていた。足手まといが増えるなど、ニトロは思わない。先ほどの白銀の狼を思う。が、できれば巻き込みたくはなかったものを。内心のニトロの溜息に気づいたダモンがそっと肩を叩いていた。




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