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くいくい、とシアンがニトロの袖を引っ張った。見やれば不機嫌そうな、子供っぽい顔。思わず目を瞬いてしまう。 「どした?」 「……ニトロ。知ってたの?」 「うん?」 「誰かに、見張られてるって、知ってたの? だから、お出かけしたの?」 口調こそは子供のもの。だが知覚力は十八歳に相応しい。ニトロは苦笑して、けれど子供である彼のためにその頭を撫でていた。 「まーな」 否定はできなかった。むしろ、シアンの言う通りだった。この数日というもの、誰かに見られている気配を感じ続けていた。感じる、などというものではない。はっきりと姿さえ見ている。 それがセヴィルの人間だ、と知っているのは魔術師ならでは。すでに大陸魔導師会が調査を開始しているおかげだ。セヴィルの人間がイーサウにいるのならば、その足取りは掴めている。ニトロはいつ接触してくるかを待つだけ。 そして訪れた機会。シアンを楽しませたかったのは事実だ。ダモンもそれは同様だろう。が、絶好の機会であったことも確か。 意外なのはいままで見かけた覚えのない商人が接触してきたことの方だ、とニトロは思う。あちらでなにかあったのか、それともシアンかキアランの面通しをできる人物、として選ばれたのか。さすがにそこまではわかり得ない。 「……せっかく楽しかったのに」 月下香を見に来ただけ。父と共に夜の散歩に来ただけ。シアンはそのつもりだったのだろう。むつりと唇を引き結んでいた。その袖を今度は表向きは犬に見えているキアランが咥える。 「なに」 はっきりと機嫌が悪い、とキアランに向かって眼差しで語るシアン。珍しいな、とニトロとしては微笑ましい。父と共にある喜びだけを語っていた彼の目。時間が経って、当たり前に不満も漏らすようになった。 「親父さんは月下香が近くで見たいってよ。一緒に行ってやんな」 「父さまが? ……ん。わかった……行こ、父さま」 念のために、とニトロはキアランの額に軽く触れ、護身呪をかけておく。少なくとも常人の一撃程度ならばこれで問題はない。 魔法の完成を待ち、まだまだ機嫌は悪いぞ、とニトロを一睨みしつつもシアンは月下香の咲く木の元に。ちょこちょこといつもよりは小さくなったキアランがついて行った。 「機嫌悪いなぁ、シアン」 「それはそうだと思うよ?」 当然だ、とダモンが言う。ニトロは首をひねるばかり。それをティアンが笑った。直後にニトロの拳を横腹に食らうもめげもしない。 「せっかくお父さんと楽しいお出かけだったのにって、シアン君は水を差された気持ちなんだと思うよ」 「あぁ……なるほど……」 「ニトロ。ほんとにわかってる?」 「実は理解してねぇわ」 「だと思った。別にいいよ、シアン君はそんな気持ちなんだって覚えたなら、それで」 「……あいよ。了解。気をつける」 ふっとダモンが笑った。ありがたい友人だと思う。ニトロが他者を慮りにくい性質だと彼はよく知っている。わかれ、とは言わないでいてくれる。なぜわからない、と責めないでいてくれる。心のどこかが重たくなった。それに内心で首を振り、ニトロは一歩を下がる。ちょうど道から外れ、別の木の根方に。ふわふわとした草が心地よい。 「道に下りるなよ? 他人様のご迷惑だからな」 にやりと笑いニトロは目で道と草地の境を示す。心得たものでティアンとダモンは草地側にしっかりと入りなおした。それを見定め、ニトロは小声で呟く。 単純な精神操作系の呪文だった。いま彼らはニトロが作った卵状の魔法の中にあり、殻の外から見れば彼らは他愛ない雑談をしてでもいるかのように見える。そもそも注視がしにくくなる、という立ち聞き対策としては上等な魔法だった。 「それで、ニトロ。この後どう出る?」 あの商人が注進に行ったのは間違いないだろう、とティアンは言う。まずもってそれをこそ待っていたのだからティアンの問いも当然のもの。ニトロはゆっくりとうなずいた。 「何を考えてる?」 「んー。早馬飛ばして御注進に及んで、すぐさま対策立てたとして……五日くらいか……?」 「セヴィルの島主が? それくらいじゃないかな。商人だったら早馬の手蔓くらいはあるだろうし」 「だな。だったら五日の間に準備を整える。島主がイーサウの街に入ったって確証が取れた段階で」 「一人で行ったりしたら絶交だからな、ニトロ。僕を使え。忘れるなよ」 「……あいよ」 できれば忘れていてほしいニトロだったが、ダモンは聞かないだろう。無論、アーロンを巻き込むつもりでいるから手助けは必要ではあるのだけれど。 「ちょっと待て、ニトロ。島主がこっちに来るって、なんでわかるよ?」 ティアンの訝しげな声。若き日の彼だったらダモンが戦いになりかねない場所に身を置くことを再び渋っただろう。いまのティアンは伴侶の決断を尊重する。 「そりゃ脛に傷持つ身だぜ? 全権を預けられる信頼できる誰かを送ってくるって線もないわけじゃない。でも俺はねぇだろうと思う」 「なんでだ」 「あのな、ティアン。考えてみな。てめぇの娘の不始末がここで息してんだぞ?」 「あ……シアン君か」 「だな。しかも俺はキアランがいるって明言した。夜伽にとっかえひっかえした男までまだ生きてるときた」 これで他人に任せられるか、とニトロは言う。任せる気にはならないだろうとティアンも思わなくはない。ただ。 「それは相手が常識的だって前提だろうが?」 「娘のご乱行をぼーっと眺めてるクソ親父のどこが常識的なんだか俺はそこが聞きてぇけどな」 「戯言を。問題はそこじゃねぇだろうが」 むっとしたティアンの言葉。からかわれた、とでも感じたのだろう。ニトロの冗談だよ、とダモンが苦笑していた。こんなことで冗談を言わねばならない、それほどニトロが不愉快であるのだと。 「俺としては簡単な問題だぜ? 相手が下手打ってくるんだったら警戒の段階を下げるだけだ。ちらちら気にしながらセヴィルに行くだけになる」 「どっちにしても行くんだろうが」 「行くぜ。とりあえず呪師を探さにゃならんからよ。キアランの呪いを解くのが先決ではあるからな」 人狼ゆえに持っているキアランではある。が、この先死ぬまで、となれば寿命が縮まるのは間違いない。 「シアン君はなお厳しいだろうな。あの子は、父親と同じじゃ、ないんだろ?」 キアランの息子でありながらシアンは人狼としての血が発現していない。彼は純然たる人間として生を受けた。呪いもキアランよりつらいだろう、ティアンは言う。ダモンとニトロは肩をすくめて答えなかった。あまりにも当然すぎた、とティアンは恥ずかしくなる。 「島主がこっちに向かって、それでどうなるよ?」 「それは俺の問題じゃねぇよ。議長がなんとかしてくれる。あれじゃねぇの? 俺だったら金鉱石の取引だの、労働問題だのを引っ提げて議長に面談を求めるね」 「だから君は島主本人が来る、と疑ってないわけか、なるほどね」 「ダモン?」 「ほら、商売の話だったら本人が来た方が自然だろうし。そういう理由がつけられるのにわざわざ他人に任せる必要がない」 ぽんとティアンが手を打つ。こんなとき自分の前歴は剣闘士、それも秘密の剣奴であって、ダモンは貴族の家にも入り込むことが可能な調香の技を持った暗殺者だったのだ、と思う。 「君は」 「さすがダモンだと思ってた。頭の出来が違うな。昔覚えたことを応用できるってのは、やっぱりたいしたもんだぜ?」 にやりと笑うティアンを戯れにダモンは打つ。喉の奥で笑ったのはニトロ。二人の友人を見ているのは楽しかった。それで充分だった。木の真下に立ち、花をぽかん、と見上げているシアンの姿。ニトロは誰に言うともなく呟いていた。 「問題は……おっさんだよなぁ」 父と共にたっぷりと月下香を堪能して戻ったシアン。少し機嫌も直って、帰り道では楽しそうにダモンとお喋りをしていた。時折キアランが口を挟むのにニトロが通訳するのも慣れたもの。そうして遊び疲れて眠ったシアンだった。 ――ニトロ? 自宅の居間に大人たちが勢揃いしていた。すでにキアランの幻影は解かれ、狼に戻っている。と言ってもティアンにもダモンにも元々変わって見えていたわけではなかったのだが。 「あんた、留守番しろって言ったら」 ――ついて行くに決まってるだろう。 「って言うと思ったから困ってんだっつの」 ニトロの渋い顔をティアンが笑う。キアランの声は聞こえないけれど、ニトロの受け答えでだいたいのところは理解ができる。 「キアランは一緒に行くって? なんでお前がそれを拒むよ?」 「お前、馬鹿?」 「てめぇ、ニトロ!?」 「うん、いまのはティアンが悪い、かな。ティアン、考えてみなよ。シアン君はどうするの」 「あ……」 「だろ。おっさんが来るって言ったらシアンも来るに決まってる。――あんたは、シアンの側にいてやれ。離れないで、一緒に遊んでやれ。な?」 ――それは、僕が足手まといだからか。 「いいや? 正直いてくれりゃ山の捜索は捗るぜ。ただ、シアンが一緒に来るとなるとあいつを守ってやらなきゃならなくなる。まして呪師を探したあとはそのままセヴィルに渡るつもりだ」 そのときはどうするのか、ニトロは問う。床に伏せた狼が自分の前脚の間に顔まで伏せた。不満と後悔と。まるでシアンのようだ、とニトロは微笑ましい。 「ここは俺とダモンとアーロンとに任せてくれ。他にも魔導師会の連中が手を打ってくれてるからな」 だからキアランは共に行きたいのではないだろうか。ダモンは感じていたけれどニトロには言わなかった。 翌日早々に魔術師マーテルが自宅にやってきた。すでにキアランも面識を得ている。マーテルとニトロは打ち合わせもせずに仕事をはじめた。あるいはもう話し合いはできているのかと思うほどに。実際、精神の接触によって話は済んでいた二人だった。 「泣けよ、マーテル」 「うるさいよ。泣けるかすぐに!」 抗議の声もなんのその、ニトロがマーテルの目許に触れる。その指先にはかすかな湿り気。用意の装身具に湿り気を移せば、すぐさま同調してくるマーテル。共に詠唱を重ね、それは魔法具と化す。 「よし。これでいいな」 一対の耳飾りはマーテルとニトロが別けて持つ。透明な宝石の中心から垂れる二本の繊細な鎖。その先にもやはり同じ石が。優美で優しい形の耳飾りをニトロがつけてにやりと笑う。戦う魔術師の顔だった。 |