|
ニトロは出かけるたびにキアランを伴う。ただの折衝ならば一人で行った方が早いのだけれど、問題はそこにはない。キアランを人目にさらすこと。 間違いなくイーサウの街に商談に来ているはずのセヴィルの島民に彼の姿を見せつけること。ここに健在でキアランが存在している、と。それは必ず島主の耳に届く。 「古い体制を取ってりゃそれだけ島主の権限は強いからな」 間違いなくその耳に達し、何か手を打ってくるはずとニトロは読んでいる。議長も同様だった。セヴィルから商談にかこつけて何かを言ってくればしめたもの、ということらしい。そのあたりになるとニトロにはお手上げで議長に任せるしかなくなる。 「出かけようか」 にこりと微笑んだのはダモン。陽も暮れてシアンはもう人の姿に戻っている。すっかりとダモンやティアン、デニスにまで慣れてシアンは楽しく日々を過ごしていた。いまだカレンにだけは多少、緊張をするらしい。それに彼女が拗ねているのをニトロは内心で笑う。あれで意外と可愛いものが好きな女だった。 「どこに行くの? 父さまも一緒?」 先日の夜市では父が留守番をしたことがいたく不満だったらしい。父が共にいたならばどれほど楽しかったか、と後になってこっそりとニトロにだけシアンは言った。 「一緒に行けるかな、ニトロ。頼める?」 「なんだよ? 別に俺はいいけど、どこ行くんだ?」 「南の山。ほら、月下香が咲きはじめたから」 あぁ、とニトロは納得した。イーサウの本市街の南側に位置するのが狼の巣。その南東側に新しくできた猫の町。東門を出て少し行くともう山が迫っている、そんな土地だ。昔は酷い荒地だったらしい。山間の荒地とあって利用価値の見出せない土地を傭兵たちが開墾して町にした。 ちなみに開墾された荒地、狼の巣からすぐ西側は、今度は右腕山脈になる。要は山と山の間に荒地がある、という本当に何もできない土地だった。その山の間を縫うように街道があり、ラクルーサ側に進んでいくと連盟最南端の町へと続く。 連盟でもそれなりに開発の進んだ地域ではある。なにしろ連盟の本拠地イーサウがあり、大陸魔導師会の本部がある。資金も労働力も困ることは何もない。 それでいて、いまだここはシャルマークのうち。ダモンが言った月下香という花も見つかったのは最近だ。何も新種、というわけではないらしい。古い文献には記されているらしいけれど、いまだ再発見がかなっていなかった、ということだとニトロはダモンに聞いている。 それがイーサウ、それがシャルマークだった。人跡未踏の地がいまなおいくらでもある。大穴が塞がり、人口が増え。それでもなお。 「あぁ、いいな。行くか。おっさん、ちょっと魔法かけていいか?」 ――なんです? ひょい、と見上げてくる狼。シアンとは文字盤で会話をするのにも慣れ、父子は夜になっても楽しそうにしている。 「さすがに狼連れじゃ目立ってしょうがねぇからよ」 ――だったら僕は。 「留守番するってか? 勘弁しろよ、シアンが泣くぜ」 からかえばシアンが膨れ面。いまにも父をなじりそうなその顔にティアンが吹き出す。大丈夫だよ、とダモンが金の巻き毛を撫でてやっていた。 「狼の誇りが木端微塵かもしれないけどな、息子のためだ。犬になってくれ」 ――はい? 「幻影だよ、幻影。なに、あんたはなんにも感じやしねぇよ。他人にそう見えるだけだ」 ――では、ニトロのよいように。僕も一緒に行けるとは、嬉しい。 狼の顔は笑うようにはできていない。それなのにキアランが笑ったのをニトロは感じる。シアンが「父さま本当にいいの」と不安そうに尋ねていた。 「……ん、よかった」 ぽ、と明るくなるシアンの顔。いつも傍らに置いてある文字盤で返答をするキアランを横目にニトロは魔法を編む。たいしたことではない。少々大きさを縮め、狼の特徴を緩和するだけ。それだけで充分、犬として通る。 「ほい、できた。行こうぜ」 ――もう? 自分の体を見回してもなにも変わっていない、とキアランは言いたげだった。なにも彼の目を誤魔化そうとしているのではないニトロだ。自分たちにはキアランの真実が見えている。無論、本人にも。 「お前、妙に器用になったよな」 ティアンが感嘆したのか、意地の悪い声。ふん、と鼻を鳴らしてニトロは横腹を打ってやる。思い切りのいい拳だったのにもかかわらずティアンは無造作に受け止めていた。 やり取りをころころとシアンが笑う。シアンの忠実な愛犬とでも言いたげなキアランがその傍らに。ダモンとティアンにニトロ。ずいぶんな大所帯だ、とニトロは内心で肩をすくめた。 嫌いではないし、やるべきことだからしているのではあるけれど、元々が人嫌いと来ている。どんなに信の置ける友人でもこう長きにわたって居を共にしていると疲れてかなわない。さすがにそれを口にするほど無礼ではなかったが。 ニトロの自宅はちょうど狼の巣の中心辺りにある。猫の町を抜けて行くまでにもそれなりの距離があったがシアンは弾む足取りを崩さない。 「本当にね、こうやってここまで……来て、よかったなって、思うの」 「なんだよ、急に」 「ニトロ。ありがとう。ダモンさんもティアンさんも。父さまと一緒で本当に楽しい」 明るいシアンの顔に一瞬の目の惑いのようダモンが表情を曇らせる。気づいたのはおそらくはニトロだけ。気配と言うよりなお短いものだったせい。気づかれたくないダモンならばそうするまで、とニトロは何も感じなかったふりをしてシアンと喋っていた。 「意外といるんだな、人」 夜の山道だ。右腕山脈ほどではないけれど、そもそも夜の道でもある、人気などないに違いないと思っていたらしいティアンが不思議そうに周囲を見回す。祭りの日、とまでは言わないがそこそこの人出があった。 「言ったじゃないか。最近になって見つかった花なんだって」 「それにしたって、こんなに見に来るもんか?」 ただの花だぞ、とティアンは言いかけ、黙る。ダモンが言った、ということは精油を取ることもできる花なのだろうと気づいたのは幸いだった。 「とてもよい香りがするよ。僕は去年だったか、機会があって嗅いだけれど。とても面白い」 「ダモンさん、面白いってなんで?」 「どう言ったらいいかな? 色んなお花をたくさん集めて花畑の真ん中にいるみたいな、そんな匂いって言ったらいいのかなぁ」 「すごい! それで一つのお花なの」 「長い房になって咲くんだよ。真っ白……ちょっと青っぽいかな。それが背の高い木に絡まってね、垂れて咲く。とても綺麗だよ」 「すごいすごい。ねぇ、ニトロ。早く行こう!」 「へいへい」 興奮した子供の足取り。声が聞こえたのだろう周囲の人が微笑ましげであったり訝しげであったり。一行は気にも留めずに山道をたどる。 ほどなくだった。キアランがくしゃみをしたのは。思わず笑ってしまえば溜息まじりに睨んでくる狼改めいまは犬。軽くかがんで詫び代わり、ニトロは頭を撫でてやった。 「ってことは、もうすぐかな?」 「ティアン。おっさんが苦情言ってるぜ」 「あぁ、すまん。でも、確かな情報だよな?」 にやりとティアンが笑いつつキアランを見やる。言葉では答えなかったキアラン。内心で肩をすくめたのをニトロは感じていた。 「あ……」 呆然としたシアンの声。立ち尽くす彼を邪魔だと避けて行く人。それも気にならないほどシアンは見惚れていた、夜闇に咲く月下香に。 「よかった、誰かが頼んどいたんだね」 ぽつぽつと道にも明かりが灯っていたから心配はしていなかったけれど、ダモンが言う。月下香が絡まる木の足元には魔法灯火。魔術師にとっては片手間仕事だ。松明の明かりより鮮やかで、なにより火の気の心配がいらない。おかげで花の姿が照らし出されていっそう美しく咲いていた。 「本当に……綺麗……。よかった、頑張って、よかった。父さま、綺麗だよね」 くい、と鼻面でシアンの足を押す狼。同意をしているのだとシアンにもわかるように。花を見上げつつシアンは膝をついては狼を抱く。一面に漂うダモンが言ったとおりの香り。花畑の真ん中で甘い香りを嗅いでいるかのよう。とろりと濃厚でいて、けれどいつまでも残るいやな甘さではなかった。ゆっくりと呼吸を深くする狼と花を見つめるシアン。息子の腕がまるで花のよう。ふわふわと甘く優しいシアンの腕。狼から離れなかった。 「ちょうど盛りだったな。さすがダモン」 「花の時期を見誤った、とあっては調香師を名乗れないよ」 「普通の調香師は精油から取りゃしねぇっつの」 それもそうだ、とダモンが笑う。大らかで、彼の幸福を物語るその声。照れくさそうにティアンがそっぽを向いた。その目が一度だけ鋭くなる。ニトロを見た瞬間だけ。ニトロもまた何気なく笑い返していた。 「シアン、膝ついてると冷えちまうぞ?」 彼の腕を取り、ニトロは膝を払ってやった。その背中でぎょっとした気配。まさかと思っていたのが如実に伝わる。 ――なるほど。玄人じゃねぇな。 昔のダモンのような稼業の人間に出てこられるのだけは面倒だ、と思っていたニトロだった。幸いただの人間らしい。観察されているなど気づきもせず、ニトロの背後で誰かが棒立ちになっていた。 「……卒爾ながら。そちらの人は」 「ん? シアンが、どうかしましたか? あぁ、お知り合いかな?」 「いや、その。シアン君とは面識はなく。私はセヴィル島の干魚商でして。彼のお父さんとは、その。顔見知りでしたから」 「ほうほう。キアラン・ヒースリップ氏?」 「そうです! ご存じで!?」 息せき切って尋ねてくるとは純朴な人もいたものだ、とニトロは上っ面で申し訳ない。シアンが少しばかり嫌そうな顔をしているところを見れば好感を彼も持ってはいないらしい。 「ヒースリップ氏なら、私の自宅で療養していただいていますよ。少々体調を崩されたとかで。私ですか? ――カレン・ニトロと言います。お見知りおきを」 さてこれでどう出るか。名前は名乗った。街で尋ねれば自宅がどこかはすぐわかる。もちろん、カレン・ニトロが何者かも。 ――襲撃かけてくれると楽なんだけどなぁ。 ニトロの内心でのぼやきは誰にも届くことはなかった、幸いに。慌てて駆け戻っていく商人の背中、キアランが黙って見つめていた。 |