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十日というもの、あちらこちらに顔を出したり出されたり。少しずつ態勢が整いはじめていた。いまだ常人にはほとんどキアランの正体を告げてはいない。それが気がかりと言えば気がかり。 ――でもな、さすがに衝撃が強すぎるってのも、わからなくはねぇか……。 内心でニトロは苦い顔。言ったのはフィッツ・サマルガード連盟議長だ。当代の議長にはカレンからキアランのことを告げてもらった。 むしろキアランの種族がどうの、というより議長はセヴィルで起こっている異常にこそ意識が向いたらしい。島主の娘だからといって無制限な淫蕩が許されている、それに島民が何も言えない、というのはイーサウ連盟としては許し難い、と。元々セヴィル島は連盟加盟都市としては例外的に封建制度を保ったままだ。金山の件で加盟にと口説き落とした連盟としては制度上の問題にまで踏み込むのは早い、と静観中であったのが響いている。 それに関してはニトロもありがたく思っている。議長が不快を覚えてくれたならば政治的な決着はあちらでつけてくれる可能性が出てくる。 ――ニトロ。どうしました。 ふ、と声が響いた。振り返るまでもない、キアランだった。すでに陽は落ち、彼はもう狼の姿。いまは二人、自宅にいるところだった。 シアンはティアンとダモンが夜市に連れ出している。エイシャ神殿の強壮薬が効いたのか、シアンは疲れが取れてずいぶんと活発になった。それならば、と遊びに連れ出してくれた二人だった。 彼らのおかげでニトロも睡眠時間が取れるようになった。とはいえ、働き詰めに違いはない。研究ならばどれほど続こうとも厭わないけれど、こういう問題はさすがに畑違いが過ぎて疲れてかなわない。 「いや、色々な」 言葉を濁せば困った様子の狼。足下に寄ってきたのをニトロこそが困る。何気なく台所から居間にと戻った。なにも台所で考え事をする必要もないとばかりに。実際はただの言い訳、と自分で気づいてはいる。 「狼だと茶も飲めねぇのな」 ――飲めなくはないですよ。 「飲んでもうまくねぇだろ? 鼻が違うし」 それには返答が返ってこない。逆説的に明確な返答だ、とニトロは笑う。長椅子に足を伸ばして半ば横たわったまま、という行儀の悪さでニトロは茶を飲む。その足元、狼が伏せていた。 ――多くの人が、あなたを慕っているね。 「はい?」 ――今日まで、みなさん、僕たち親子を助けてくださっているんじゃない。あなたの手助けならば、と喜んでしているように見えていました。 「気のせいじゃね?」 ――そうでしょうか。 首をかしげる狼、という世にも奇妙なものながら、そこにいるのはキアランなのだからあって当然の姿。ニトロはぶっきらぼうに茶をあおる。 ――アイラさんも、アーロン様も。 傭兵隊を率いているあの女性はニトロの友。できることがあるのならば何でも、と言って彼女が家に押しかけてきたのは一昨日のことだ。ニトロはそのときアイラにはキアランの正体を教えてある。 神官以外の常人と限定するならば、キアランが人狼であるのを知っているのはティアンとアイラ、そして議長の三人だけだ。議長はともかく、ティアンとアイラはニトロですら信を置く人物。だからこそ協力を求めたのだが。 ――アーロン様は、あなたを殊の外慕っていたでしょう。 神殿で会ったのを幸いとばかり暇を見てアーロンはこの家に来ている。キアランとシアンの様子を見に来ている、とは外向きの理由だが、どうせ自分に会いに来ているのだ、とニトロは知っている。 「なんで俺なんかをかまうかね、あいつは」 ふん、と鼻を鳴らしてしまった。天井を仰げば古い家の色。まだ若き日のカレンが建てた家だった。それからずっと様々な人々が一時の宿としたり、住んでみたり。こうしていまはニトロが暮らす家。 ――あなたを慕っているからでは? 「答えになってねぇよ」 ――確かに。 くつり、と笑った狼の声。横目で見やれば金の目が笑う。狼でいるときの方がキアランは率直だ。むしろ「人間の言葉」を使わない時、と言い替えた方がいいか。あるいはただ素の自分でいる、というだけなのかもしれない。 ――いずれ、僕はあなたについて行く。あなたは僕の群れの長だから。 「……はい?」 ――狼は群れで生きる生き物だからね。 「あのなぁ。どこに群れがあるんだよ?」 ――僕とシアンと。これがあなたの群れだ、長よ。 喉の奥で笑う狼の声。本心だとは思わなかったが本気でないとも思えない。ニトロは小さく溜息をつく。 「狼は一頭しかいねぇじゃねぇかよ」 好きで背負った荷物だった、キアランとシアンのことは。あの日、シアンの嘆願など放置することもできたし、誰か適任者に押しつけることもできた。それをせずにこの手で受ける、と決めたのは自分。一度背負った荷物ならば勝手に下ろすのは違うだろうとニトロは思う。重たいことに違いはなかったが。 ――僕はあなたが羨ましいよ、ニトロ。 「俺を羨むってのは中々最低だぜ?」 ――あなたがどう考えていようとも。あなたの周囲には多くの人がいる。それだけあなたは慕われている。 自分がどう考えていても、と先に釘を刺されてはニトロに返す言葉はない。常々不思議に思っていることだった、それは。こんな、大切な心の柔らかいところに欠けたものを持つ自分をなぜ彼らは友人と呼んでくれるのか。それがニトロはわからない。ダモンなどはそれをはっきり言ったにもかかわらず、「それでも君は君だ」と言った。 ――僕は、自分が何者かすら、わからない。 狼の零す言葉がずしりと響く。何気なく手を伸ばし、横着をしたまま狼の頭を撫でた。ほんのりと笑う気配めいたもの。それでもまだ沈んでいた。 ――僕は人間なのか? 狼なのか? いずれからも違うと言われる。人狼という、同族の少ない異種族だ。僕は、どこに僕を見出していいのかが、わからない。 「同族に会ったことは?」 ――何度か。祖母と伯父に。あとは伯父の従兄弟だったかな。群れの生き物だから、他にもいるかも知れないけれど。 自分が会ったことがあるのはいわば「親戚」だけだとキアランは言う。そういうものなのか、それとも数が少ないがゆえの悩みなのかはニトロにもわからない。 ――人間としての僕は、キアラン・ヒースリップと言う、セヴィルのそれなりの家の男だ。 「ふうん、家名まで聞いたのはじめてだったか?」 ――言っていなかったかな? たぶん、自分でもあまり実感がないせいだと思う。申し訳ない。 「気にすんなよ」 ぽん、と頭を撫でるように叩けば柔らかな毛の感触。ダモンが調香した石鹸が狼にも合っているらしい。入浴は人間の姿の時にするというのに面白いものだった。 ――人間としての僕はエヴリル様の夜伽をするだけの男で、山に入れば、狼からは人間臭い、と言われる。こうして街に出てくれば、年齢よりずっと若く見えて、戸惑われもする。 「そりゃ魔術師も経験するからな、わかる」 ――僕は、誰なんだろう。本当の僕は、どこにあるんだろう。 呟き声。聞かせるつもりがあったのかなかったのか。精神の技に長けているわけではないキアランだ。むしろ偶発的に聞こえている、と言った方が正しい。キアランの漏れ出る声をニトロがただ拾っているだけ。内心でニトロはそっと溜息をつく。 「……俺は魔術師で、もう知ってるだろ? エリナード・カレンの後継者だ」 イーサウの街に来て多くの人と会ううちにニトロの立つ位置がキアランにも知れた。カレンという魔術師の立場の重さも、ニトロのそれも。 「一応はこれで大陸魔導師会の重鎮の一人ではある。だったら俺はそれらしい顔をすべきか? ま、すべきだな。会議の時なんかはそういう顔はするぜ?」 好きではないが。やらなくてはならないときにはする。カレンも同様だ。というよりその態度はカレンに倣ったもの。元々人付き合いが極端に苦手なニトロに「友人など多くなくともかまわない。人間関係の構築法だけ学べばよし」と言ったのはカレンだった。 「もう一つ。俺は独立はしてるがな、いまだに師匠頼りの弟子でもある。それもまた俺の一面の事実だ。じゃあ、ダチどもにとっての俺はどんなだ?」 キアランにもニトロが言いたいことが飲み込めてくる。本当の自分、などと青臭いことを言った自分が少し、恥ずかしい。だがニトロだからこそ、言えた言葉ではあった。 ――僕には多くの僕があって……それは……わかるつもりでは……。 「そこで本当の自分を求めるってか?」 ――間違っているかな。 「だな。色んな自分があるだろうが? 自分で考えてる自分、他人が見た俺。――そのたくさんの『自分』の間にある全部が……たぶんほんとの俺、なんだろうよ」 ――すべてが。 「知らねぇよ? そんな感じかな、と思うってだけのことだ」 何か感銘でも受けているらしい狼にニトロは眼差しを向けない。嘘をついてはいない。それはそれでそういうものだろうと思うことを述べはした。 が、ニトロは自分に欠けているものを自覚している。他人に対する興味がまったくない。こうして悩んでいるキアランにも「そういうものか」と思う程度のことしか感じない。 欠陥だ、と思う。どこかが壊れているのだと思う。さすがに壊れた自分を寂しく思うことくらいはあるからまだましだろうか。 こんな自分であるとは、キアランのみならず他人には一言も言っていない。ダモンにすらどこがどう壊れているのかなど言っていない。察しているのはカレンくらいのもの。 ――欠陥品が偉そうなこと言ったよな。 内心で鼻を鳴らす。敏感に気づいたのだろうキアランがふと顔を上げた。なんでもない、と首を振ればまた前脚の間に顔を伏せる。つやつやとした毛皮が魔法灯火に照らされている。ずいぶん健康になった、と思うのはこんなときだった。背負ってしまった荷物が思いの外に重たいと思うのも。 「ちっ。潰れてやがる。新調しようと思っていっつも忘れんだ」 腹立ちまぎれ、頭の下に敷いていたクッションを取り上げては乱暴に叩く。潰れた枕は少しも膨らまなかった。 「なんだよ?」 立ち上がったキアランだった。そのまま無理矢理長椅子の上に飛び乗り、鼻面でニトロの肩を押す。渋々と頭を上げればその下に潜り込んでは丸くなった狼。 ――枕代わりにどうです? 「……ま、悪くねぇかな」 ――それはよかった。 ふかふかの毛皮が頬に当たる。決して柔らかくはないはずの狼の毛が、けれどしかし快い。温かなぬくもりも。 夜市の興奮に頬を真っ赤にしたシアンを連れて戻ったダモンとティアンが見たのは狼を枕に、その尻尾を毛布に転寝をするニトロ。片目を開けた狼の金の目が笑った。 |