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キアランのための早めの夕食を終え、ニトロは工房で仕事をしていた。もうほとんどの準備は終えている。ここにいるのはただ落ち着かないせいだ。待機は性に合わない。 「ったく」 さっさとなんとかなればいい。舌打ちをしたところ、開けたままの扉から狼が顔を出した。特に危険な仕事をしていないせいで開けたままだった、とニトロは顰め面。特段、入って困られることもないのだが。 「なんだよ?」 仮眠用の長椅子にどさりと腰を下ろせば、自分でも意外なほどに疲れを感じる。当然かもしれない。シアンと出会って以来、ずっと気を張り詰め通しだ。 ――枕がお要りようか、と思って。 悪戯っぽいキアランだった。そのぶん緊張を感じないでもない。日頃、シアンとティアンたちに寝室を譲り、ニトロはこちらで寝起きをしている。キアランはシアンの傍らにいたり、居間にいたりだ。 「別に寝てねぇよ」 それほど暇ではない、言いつつニトロは長椅子に横になった。滑り込むよう狼が枕元に入り込む。くるりと丸くなっては枕になった。 「ふかふかなのはいいけどな」 温かな枕は心地よい。和んでいる場合ではないだろう、と言いたくなってしまう。当事者がこれでは先が思いやられるだろうとキアランに文句の一つも言いたい。 「シアン。どうしてるよ?」 ――ダモンとティアンと一緒に遊戯盤を囲んでいますよ。 「あぁ、あいつ、教えたのか。ダモン、うまいだろ」 ――強いですね。シアンと一緒に組んでくれています。ティアンをこてんぱんにやっつけてるよ。 くすくすと笑う狼の思考。楽しげで、それでいて曇りがある。感じなければよかったのに、内心でニトロは顔を顰めた。 「シアンと一緒にいてやれよ」 ――そうはいっても、遊びに夢中ですから。 「それでも、だ。後々後悔するぜ、そういうことしてるとな」 ――なんと言えばいいか……。切ないんですよ、僕も。 「うん?」 ――あなたが作ってくれた文字盤で、意思の疎通は図れます。それでも、声ひとつかけてやれない。頭一つ撫でてやれない。 わからなくはない、とニトロは無言だ。こうして呪いに侵されていてもキアランには意思がある。狼の姿となっても人間としての意思を失いはしない。だがシアンは。鳩となった彼は心も失う。鳩の頭を撫でても言葉をかけてもシアンはそれを覚えてはいない。 「それでも、だ」 ニトロは短くそれだけを言う。ためらいがあった。何をどう言えばいいのか、いまだ迷っていることがある。そのせいでぶっきらぼうな言葉。狼の溜息が聞こえた。 ――本当は、共に行きたいです。 「はい?」 ――山に。セヴィルにも。 「だからな、あんたは息子の側にいてやれって」 ――狼は群れの生き物ですから。長と共にあるものですよ、ニトロ。 「……だったら長からのお願いだ。シアンと一緒にいてやんな」 頭の下の温かな毛皮と体。野生の狼より毛が柔らかだろうと思うのは人間として入浴をしているせいだろうか。ダモン調香の仄かな香り。キアランの鼻に障るほどではなく、獣の匂いを抑えている。 ――ニトロ。 ぐい、と鼻面がニトロの頭を押す。理解はしたが納得はしない、とでも言うところか。もっとも、キアランも息子のために自分で動きたいのだろうとはニトロも思う。 「呪いのことは俺たちに任せろって。こっちは専門家だ。そのぶん、シアンのことを守ってやんな」 ――わかっては、います。あなたを頼るしかないのも。それでも。 長い溜息。どうにもならないことばかりがあって身動き一つしにくくて。わからなくはないが、自分が手出しできる問題でもない、とニトロはそっけなかった。 しばらくの間、話すでもなくそのままでいた。転寝をするつもりはない。ニトロは頭の中で準備を再確認している。マーテルとの遠距離接触用魔法具はすでに作った。アーロンとダモンは神官服を着れば済むこととして、自分は学者にでもなるか、とそちらも偽装済み。無論、至るところに見えない呪紋が描かれている。武装も完璧だった。 ――ニトロ? 「いや。学者のふりするつもりなんだけどよ。昔、ティアンと知り合ったころは学者の卵のふりしててな」 今回もそれで行く、と言ったらティアンの顔が渋いことと言ったらなかった。当時を思い出したのだろう、色々と。そのときのことを思い出して笑うニトロだった。 ――友人とはいいものですね。僕にはいないから。 「今から作れば? って俺が言うのも妙だけどな」 ――そう、ですか? 「おう。俺は友達がいないので有名だからな」 ふん、と鼻で笑ったニトロ。キアランには意味がわからない。大勢の友人たちに囲まれているように見えるのに。 「……俺が自分で友達って呼ぶのは……いまでもダモンくらいかな。ティアンやアイラなんかも知り合い以上だとは思ってるぜ? マーテルっていう同僚もいる」 それでも友人と呼ぶのはダモンしかいない、ニトロは言った。キアランはただ無言でニトロの頬を舐める。 「おい。やめろよ」 ――慰め、などと言うつもりはありませんが。 「あのな、おっさん。俺はあんたが何もんか知ってんだ。野郎に舐められてる、と思うとなんか微妙な気分になるわ!」 からりと笑ったニトロが体を起こした。少し気分がよくなったらしい、とキアランの目には見える。狼の目に懸念を見てしまってニトロこそ苦笑した。 「なんて顔してんだよ?」 心配したいのはこちらだ。シアンのことが頭から離れないというのに。がしがしと狼の頭を撫でれば嫌そうな抗議の声。 「あぁ、いたね。ニトロ」 そこに顔を出したのはアーロンだった。ふっと狼が緊張をする。何事かがはじまる、と察したのかもしれない。違うのかもしれない。ニトロは気にしない。アーロンの目に伝言があると読み取っていた。 「で?」 短い問いにもならないような言葉。アーロンがにやりとする。居間の方からティアンとダモンの声。キアランは前脚の間に顔を伏せていた。 「マーテルさんを見かけたんだ。緊張した顔をしていたからね。そろそろかな、と」 「まだなんにも言って……お前、ほんとになんにも知らないで来たのかよ? 来たぜ、伝言」 呆れた途端、接触してきたマーテルの思考。イーサウに島主が入ったと。陽が落ちてから街に入るとは強行軍をしたものだと思う。前の街で一泊すればいいものを、島主はそうはしなかった。 ほぼ、推測どおりだった。それだけ島主は危機感を覚えている。最速でイーサウに到着するほど。ならばこちらも打つ手は決まってくる。にやりとニトロの口許が歪んだ。 精悍なニトロの表情。アーロンは背筋が震える思いで見惚れる。す、と狼が顔を上げた。真っ直ぐと見つめてくる金色の目。 「大丈夫。ニトロは私に任せてくれていい。無事に返すから」 「あのなぁ。てめぇを守るのは俺だっつーの。おとなしくしろよ、頼むから。暴走されると厄介だ。――行くぜ、キアラン」 ひょい、と伸びてきた手がキアランの頭を撫でる。乱暴なのに優しい手が離れて行き、キアランもまた苦笑と共に立ち上がった。 ――どこに? 「お袋んち。全員で移動するぜ。お前もだ、アーロン」 わかった、とうなずくアーロンとは反対側にキアランが立てば居間ではもう三人が待っていた。不安そうなシアンに微笑みかけるニトロにキアランは呼吸を深くする。自分がこんなことではならないと。 「ニトロ。どこ行くの?」 「ん? おばちゃんちだ。みんなで行くからな、大丈夫だ。おいで、前に親父さんが通った秘密の廊下を通って行くぞ?」 「内緒の廊下だ! ほんと?」 ほんとほんと、と笑いながらニトロがシアンの肩を抱いていた。どことなく苦笑しているのは常のニトロを知るティアンか。うっとりとアーロンが呟く。 「本当にニトロは子供に優しい」 「優しくされた口だろ、あんたも?」 「抱っこされて高い高いしてもらったこともあったねぇ」 「……そこ。ぞっとするような会話してんじゃねぇよ!」 ニトロの荒い声。シアンが目を見張り、それでも楽しそうに笑っていた。シアンの反対隣りに進めば父が来た、と喜ぶシアン。 「っと待て。ちょいと目くらましを作っていくからな」 シアンに向けて片目をつぶる。茶目ぶりを今度はダモンが笑った。それを無視してニトロは魔法を紡ぐ。気づいたのだろうティアンがこちらへ、と光の届かないところに全員を呼びよせた。 「あ……」 シアンの驚きの声。思わず身を乗り出そうとするのを慌ててキアランが袖を噛んでは止めている。シアンが驚くのも無理はなかった。 窓の垂れ幕に落ちる人影。あちらこちらと動き回り、時折は声を上げて笑っているのだろう響きまで。それなのに影の本の人はいない。ニトロであるとわかる影、ティアンのもの、ダモン。シアンもある。アーロンまで。 「私まで?」 「お前は玄関から入って来ただろうが?」 「あぁ、なるほど」 ぽん、と手を叩いて納得するアーロンにニトロはげんなりとした顔。それから手振りで静かにしろと言いおいたまま廊下を進んだ。すぐさま魔法的に隠蔽された扉が現れる。普段は見えないものだった。 「ほい、行くぜ。シアン」 改めて肩を抱き、シアンの手を取っては一緒に扉を開ける。嬉しそうに見上げてくる子供の表情にニトロは微笑み返していた。 「あ、普通だね」 「なんだ? もっとすっごいと思ってたか?」 「うん。魔法みたいなのだと思ってた」 「魔法なんだけどな、これ」 苦笑しつつニトロは歩き、全員が廊下に入ったところで戸口を封じる。正面の扉を開ければそちらはカレン宅の地下工房だ。 「ニトロ?」 ダモンの問いにニトロは首を振る。なぜ行かないのか、と問うダモンだった。ニトロは気配を感じている。むしろ魔法的に探っている。万が一を懸念していた。探査中にカレンからの接触。安全を確認したニトロは扉を開く。 |
