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ティアンがダモンと並んで朝食の用意をしていると、見知らぬ男性が姿を見せた。訝しげなティアンと違ってダモンは戸惑わない。 「おはようございます、キアランさん」 あっとティアンが息を飲んでいた。話に聞かされているだけの「人狼」という存在。呪いのせいで強制的に狼の姿だ、とは言われていたものの、こうして人間の顔を見るまで信じがたかった。疑っていたわけではないが、身に染み込んではいなかった。 「おはようございます」 す、と頭を下げたその佇まい。痩せぎすで、背も高いとは言い切れない。ニトロと並べば彼の方が長身だろう。それでもニトロより背が高いような印象があるのはきっと痩せすぎているせいだ。 「好き嫌いはありますか?」 朝食の用意をしているところだった、とダモンは微笑む。キアランは何を答えていいかわからなかった。自分のあの姿を知り、こうして当たり前に接してくれる。あり得ない奇跡のようだとも思う。 「特には。お心遣いありがたく」 「それはよかった。ティアンはけっこう好き嫌いが多いよな」 「……そんなことはないと思うけど?」 「野菜の類はたいてい嫌いじゃないか」 「別に嫌いじゃない! 食べなくて済むんだったら食べないだけだ!」 「それを嫌い、と言うんだよ」 くつくつと笑うダモン。長年を共にしてきた伴侶との他愛ないやり取り。温かいものだとキアランは眺める。 「その……ニトロは?」 昨夜はキアランもシアンの側で眠った。様々なことを三人は話していたが、キアランにとっては既知のことばかり。眠れるようならばシアンの側に行っていればいい、そう言われて退出した彼だった。 まさか一人きりで山に行ったわけではないだろうが、ニトロは姿が見えなかった。台所で話しながら食事の支度をしている二人がいるばかり。肩に止まった鳩にキアランは知らず手を触れる。 「カレン師のところに顔を出していますよ。すぐ戻るでしょう」 ダモンが微笑んだ。不意にキアランは思う。微笑み方がシアンと似ている、と。あるいはそんなところがニトロの琴線に触れたか。世間とは違う在りようを教え込まれ信じ込まされて育ったダモン。何一つ教えられることなく育って行ったシアン。違うけれど似ている二人が、どこかよく似た笑みを浮かべるその不思議。 「戻ったぜ。……ったく、朝っぱらからなんであの女の面ぁ見なきゃならねぇんだか」 文句を垂れながらニトロが戻る。それでキアランがほっとした気配をティアンは掴んでいた。意地も性格も根性も悪いニトロではあるが、キアランはそんな彼を信頼しているらしい。苦笑というより温かいものを浮かべたくなる自分にこそ、ティアンは苦笑する。 「そんなことを言うもんじゃないだろうに。できたよ、ご飯。食べよう」 「おう、悪いな。助かるぜ」 「君の作ったものを食べるのはごめんだからね、僕も」 言いながら手早くティアンとダモンが食卓に皿を並べて行く。豪勢なことだった。島と街の暮らしは違うのか、それとも客がいるから、と気遣ってくれているのか、キアランにはわからない。 「キアランさんも旅の間こいつの作るもんを口にしたんでしょう? ご愁傷様でした」 喉の奥でティアンが笑う。あからさまにニトロをからかっているのだけれど、キアランとしてはなんの不満もなかったものだから答えに困った。 「みなさんが言うほどでは……」 「そりゃきっと携帯食が元になってるせいですよ。普通の食事を作らせたら酷いもんだから、こいつのは」 なぁ、とティアンが笑う。ニトロは肩をすくめて答えない。旺盛な食欲を見せていた。どうやら早朝からひと働きしてきたらしい。 「キアランさんは、家事の類は?」 「あまり。屋敷勤めに早くから出ていましたので。それと、どうぞ呼び捨ててください」 「そりゃかまいませんがね」 首をかしげたティアンだった。質問があるのならばどうぞ、と言うつもりでキアランも小首をかしげる。そんな二人をニトロとダモンが笑っていた。 「ずいぶん若く見えますね。シアン君ってお子さんがいるような年には見えないや。俺らより年上じゃ?」 そうであるのならば呼び捨てるのは少々抵抗がある。ティアンの律儀な言葉にダモンが顔を覆う。ニトロはにやにやとしつつ天井を仰いだ。そして意地悪くティアンを見やる。 「お前なぁ。俺とダモンが避けてた話題にやけにあっさり切り込んで行きやがったもんだぜ」 「……はい?」 「僕もいつかは切り出そうと思ってはいたけれど、いまだとは思っていなかったよ、ティアン」 「ちょっと待ってくれ! 俺、そんな変なこと言ったか!?」 言った言った、と投げやりに笑うニトロ。気にしたか、と気遣うようにキアランを見やる。それに彼は苦笑していた。 「もしかして、あなたははじめから僕が人間ではない、とお気づきだったのでは?」 ニトロは答えず肩をすくめる。ただ、それだけだった。それが奇妙なほどに温かくキアランを満たした。 「あ……」 ぽかん、としたティアンの声。はじめて理解したのだろう。そういうことだったのか、と。とはいえ、ティアンは責められない。何しろ知り合ってから二十年以上、微塵も容姿の変わらない男が目の前にいる。 「気づいちゃいなかったぜ? 違和感はあったがな」 「それは?」 食事をしながらするような話題ではない。が、キアランは気になってしまったし、他の三人は気に留めてもいなかった。食卓の端に止まった鳩だけが楽しげ。 「言っただろ。獣への変化は難しいってよ。呪いで強制されてんだったらなおのことだ。それに耐えきれる常人は普通はいねぇよ」 だからニトロは違和感があった、と言う。それだけのこと、と言ってしまっていいのかはティアンにはわからない。が、ニトロの勘の鋭さは知っているつもりだった。 「考えられる可能性としては、あんたが魔術師であること。これは見りゃわかるからな、すぐ否定した。次。だったら魔法に近い可能性」 「たとえば、どのような? 僕には、あまりよくわからないのですが」 「んー。先祖に神人の子がいた場合、とかな。常人でも魔法耐性が高くなりがちだからよ、そういうのは。そこまでくりゃあんたが真っ向異種族ってのは捨てていい可能性じゃなくなるからな。ただそれだけだ」 「……普通の人間は真っ向捨てる可能性だがな、それは!」 「普通の魔術師は考慮に入れないはずがねぇ可能性だわな!」 ティアンとニトロが言い合う、笑いながら。異種族であり、けれど友人である。そんな二人の関係性を見た気がした。 「それに、言っただろ? あんたは狼になっても目に理性があった。あの辺りで間違いないなとは思ってたぜ。言いたかねぇもんを詮索する気がなかっただけだ」 「それはニトロのある意味では優しさではあるんですよ、キアラン。でも、ニトロは学ぶべきだね。人は指摘された方が言いやすいこともあるってことを」 「あぁ……なるほど。そりゃ考えが足りなかったな」 すまん、とニトロに頭を下げられキアランは慌てる。詫びられたいなど微塵も思っていなかった。キアランの挙措をダモンが微笑んで見つめ、それから何気なく鳩の背をそっと指で撫でていた。 「あ、そうだダモン。昨日頼もうと思ってて忘れてた」 シアンを思うのか、ダモンの表情がかすかに翳る。それを救いあげようとするニトロにティアンが今更ながら嫌そうな顔。あるいはそれは今更なのか、いまなおなのか。自分で思い至ってティアンは小さく笑っていた。 「ん、なに?」 「キアランはこういう体だろ? 石鹸の匂いがきついらしくってよ。なんとかならねぇ?」 「ニトロ、気にしないでください。僕ならば――」 「いや、それはなんとかなる部分ですよ。大丈夫。手間でもありませんからね」 任せてくれ、とダモンは微笑む。優しいけれど力強い笑みだった。そんな顔が作れるようになっているダモンがティアンは誇らしい。反面、自分はどうなのだろうと時には思う。 「無香料にした方がよければそうするけれど……どうかな。あなたの鼻でも気にならないくらいかすかに香らせるのは」 「好きな香りではありました。本当に、あのままでも大丈夫ですから」 「でしたらやっぱりかすかに香らせてみよう。これはいいな。楽しめます、ありがとう、キアラン」 調香師として面白い課題をもらった、とダモンは言う。さすがに狼と人の鼻の差まではダモンも知らないが、かつての「仲間」には人間とは思えないくらい鼻の利くものがいた。あれより更にかすかにしてみようと思う。過去を思うことができる、それが彼にとってもありがたかった。 「ですが……」 「僕も、色々ありました。いま、そう思っていたところです。それを懐かしいとは言わないまでも平静に思い出すことができる自分、というものを確認していました。――それはこうしてあなたが課題をくれたおかげであり、ニトロのおかげでもある」 「僕の――」 「人は一人では生きられない。かつてニトロの魔道においての先祖の一人が言ったことです。一人きりでは寂しい、という意味であり、一人きりになりたくともそうはなれない、という意味でもある。僕はそれを実感しながらここまで来ましたよ。大丈夫、心配事はあるでしょう。でも、助けの手は様々なところから伸びてきますよ。どうかそれを拒まないでください」 自分もまた、そうしてここまで来たのだから。語るダモンを優しい顔のティアンが見ていた。ニトロはそっぽを向いて。けれどキアランは思う。自分は「人間」ではないと。ふ、とダモンの唇が笑みを深める。 「キアラン。あなたは人間ではない、と思っているみたいですが。よく考えてください。僕は人殺しですよ? 当時の僕はそれが当然、あるべき正しい世界と思っていた人殺しです。その僕にですら、ニトロはこうして広い世界がある、と教えてくれた」 「完全に私利私欲だったけどな、最初は」 「最初だけだろう? 切っ掛けなんてどうでもいいじゃないか。君は僕を助けてくれた。君が君自身をどう思っていようとも、君はそういうことができる人だよ」 そういう人だ、とはダモンは言わない。そういうことができる人だ、と言う。その違いはニトロにとっては大きい。ふ、と口許が緩み、感謝のような笑みになった。 |
