夢のあとさき

 まるで雑談の調子だった。長椅子をキアランに譲り渡し、一行は周囲に椅子を引っ張ってきてはわいわいと話している。キアランのこと。人狼とは何か。呪いのこと、シアンの生い立ち。深刻な話題のはずが、ニトロにかかるとどこにでもあるもののよう。それでいてキアランはまったく不愉快ではなかった。自分が話題になっている、と理解しているシアンもまた。
「セヴィル、か……」
 調香師だ、と言っていたダモンという男が唇に軽く指先を当てて考え込む。キアランは彼らの在り方が少し、不思議だ。ダモンとティアンは同年代に、五十代に差しかかっているように見える。それでいて、若い姿を保ったままのニトロと対等の友人であるらしい。
「竜涎香の産地ですね、セヴィルは」
 にこりとダモンが微笑んだ。若き日にはさぞかし美貌を誇っただろうと思わせる男性の笑み。キアランは少し怯まないでもない。ただ、狼である自分にこだわりなく話しかけてくれることに感動もしていた。
「竜涎香ってなんだ?」
 連れ合いの言ったことがティアンにはわからないらしい。それを意地の悪い目でニトロが眺めている。くすりとシアンが笑った。長々と体を長椅子の上で伸ばしたキアランの傍ら、ニトロが用意してくれたクッションを床の上にたくさん積み上げてシアンは話を聞いている。
「香料だよ。その原料、と言った方がいいかな。鯨から取れるんだ」
 ――海の黄金、でしたか。僕は見たことないけれど、話には聞いています。
「ってよ? おっさんでも見たことないのか」
「珍しいものではあるからね。調香師にとってはとても大切な原料の一つだ。そこのご出身とは羨ましい」
 通訳をするニトロにではなく、ダモンはキアランである狼の目を真っ直ぐと見ては微笑む。ずいぶんと肝が太くなったものだ、とニトロとしては微笑ましい。
「それで、ニトロよ。俺たちは何をすりゃいいんだよ」
 どことなく不満げなティアンの声音。からりとニトロが笑った。二人の間では旧知の冗談らしい。置いて行かれたはずのキアランは、それでも不快ではない。
「とりあえず、俺の睡眠時間確保に協力してくれ」
「はい?」
「だからな、言っただろ。シアンは夜にならねぇと人間に戻れねぇ。おっさんは昼間。これ、俺一人じゃ詰んでるだろうが」
 何もできない。時間だけが削れて行く。ニトロは淡々と言う。ちらりとダモンの口許に笑み。仮に協力が得られなかったならば、それでもニトロは彼らを助けるのだろうと思えばこそ。
「……まず、それは了承した。で、とりあえずってのが怖いんだがよ?」
「まだなんにも決まってねぇんだよ。もうちょっとしてこいつらが落ち着いたら……俺はセヴィルに潜入……いや、まずは山だな」
「呪師、と言っていたか。だったら僕が同行しよう」
「待て、ダモン!」
 慌てるティアンにキアランは申し訳ない気がした。シアンも同じだったのだろう。父子が揃って視線を落とす。それを目の端に捉えたニトロが無言のままにティアンの横腹を殴りつけた。
「ってぇな、おい!?」
「悪いのはお前だろ?」
「だと、僕も思うよ、ティアン。僕はニトロに協力すると言った。ならばできることはしたい」
「その気持ちだけもらっとくぜ。あんたがついてくるこたぁ……」
「ニトロ。僕も鍛錬は怠ってはいないよ? さすがに若い時ほど体力はないけれど、いまでも劣るとは思っていない。君ひとりより、戦える人間が他にいた方がいいだろう」
「だったら俺が行く。剣の腕は俺のほうが上だ」
「それはそのとおりだね。でも、山の中で呪師を探すんだろう? それならば隠密行動になる。君に隠れることができるのか?」
「……ニトロに頼めば、できる」
「よけいな手間をかけさせるより、僕が行けば済むことだ。ティアン、聞き分けてくれ」
「それじゃ俺が駄々っ子みたいだろうが。……わかった、納得する」
 むつりとしながらティアンはうなずく。それから苦笑してはキアランに向かって頭を下げた。無様なところを見せた、というように。狼が金の目を瞬かせる。驚いた様子だった。
「キアランさんは驚いたのかな? 先ほどから、僕らが当たり前に友人であることも不思議なご様子だったようだし」
 あ、と狼が息を飲んだのが伝わる。ティアンにも確かにこの狼は人語を解しているのだと理解ができた。いままでだとて疑っていたわけではないのだが。
「かつて、もう二十年ほど前になりますか。僕はある暗殺結社の暗殺者でした」
 微笑んで話すような話ではないだろう、キアランは驚く。暗殺者、と聞いてシアンが首をかしげていた。さすがに意味がわからないらしい。が、誰も説明しようとはしなかった。
「ニトロがまだ幼いころ、僕と同じ結社の暗殺者と、そうとは知らず友人になったそうです。そうだよね、ニトロ」
「まーな。あいつが紆余曲折の末にぶっ殺されて、うだうだ考えてたらあんたに会った」
「その友人と同じ境遇だったから、ニトロは僕を助けてくれた。結社を潰して、僕を救い出して、真っ当な道を歩めるようにと。ティアンはそのついで、だったね」
「お前を助けたつもりは微塵もねぇよ」
「助けられたつもりはねぇって言えないのが不満なんだよ!」
 くつくつとダモンが笑う。キアランは狼でよかった、と思っていた。竜の泉でニトロが語った過去の話。まさかここで関係者に会ってしまうとは思ってもいなかった。さすがにばつが悪い。
「そんなニトロだから、どうあってもシアン君を助けたいんだと僕は思います。そうだね、ニトロ?」
 結社で歪んだ教育をされ、粛清こそ正しいと植え付けられた自分だからわかる、ダモンは言った。何一つ教えられることなくここまで来たシアンと逆で同じだと。キアランである狼はそっと視線を伏せていた。
「あなたを責めているのではないんですよ。僕の言い方が悪かったかな?」
「ダモンはおっさんが息子になんにもしてやらなかった、なんて言ってないぜ?」
「……父さまは見に来てくれていたもん。それでいいんだもん!」
「おっと。ごめん、そうだったね。シアン君はお父さんの顔が見れて楽しかったんだものね」
 ダモンの言葉にぱっとシアンの顔が輝く。ティアンはどうしていいかわからないのだろう、もぞもぞと動き、けれど意を決したよう手を伸ばしては金の巻き毛を撫でてやっていた。それにくすぐったそうに笑うシアン。嬉しそうなそれにキアランの心もほぐれて行く。
 ――ありがたい……、本当に、ありがたい……。
 たとえシアンがそれでいいと言ったとしても、ダモンが責めていないのだとしても。キアランは自分のしてこなかったことが許せない。こうなる前に、どうしてシアンを連れて逃げようと思わなかったのか。
「シアンが笑ってると親父さんは嬉しいってさ」
 ぽつりと零れた独り言まで通訳されてしまってキアランは恥ずかしくなる。前脚の間に顔を伏せればからからとニトロが笑った。
「ん……ニトロ。文字盤はないか?」
「ねぇよ、そんなもん。板に作ればいいか?」
「すぐにできるなら」
「あいよ」
 ダモンの提案が何か、ニトロは聞きもしない。必要だと言うのならば作るまで。そこに類稀な友情をキアランですら見たように思う。ひょいひょいとニトロの手が動き、気づけばそこに文字盤がある始末。何がどうなっているのだかさっぱりわからない。
「シアン君、字は読めるかな?」
「うん。少しだけだったら。難しいのはわからない」
「それはよかった。お父さんとこれでお話ししな。キアランさん、脚とか鼻とかで指せますか」
「あぁ、さすがダモン……」
 感嘆するティアンにダモンは照れたらしい。それにもキアランは気づかなかった。ただ真っ直ぐと前に置かれた文字盤を見る。考えたこともなかった。
 自分は何を考えていたのだろうと思ってしまう。狼であっても、姿形だけの問題。棒切れでも拾って、地面に字を書くことくらいはできた。思いつきもせず、シアンに寂しい思いをさせていた。
「ほれ、おっさん」
 考え込んでいる、とはニトロは思わなかった。仕方ないだろうと思っている。呪われ、さまよい、ただそうするしかなかった状況でほいほいと解決策が浮かぶような人間はそうはいない。
 そもそもキアランは忘れているのだろうか。彼は人狼であることを息子に隠し続けてきていた。夜になれば鳩と同じよう、狼として人の意識を失くすのだと偽ってきた彼。
 ――だからこそ、か。
 ニトロは思考を巡らせる。そう仮定するなら、よりいっそうキアランは後悔をしているのかもしれないと。隠すことはなかった、隠したから寂しい思いをさせた。苛まれてもすでに済んだこと、いまここでシアンは楽しそうに笑っている。それでいいではないか、とはさすがに口には出さなかったが。
「父さま?」
 わくわくと目を輝かせるシアンがいた。青い目が真っ直ぐと自分を見ている。明るいところで見るのは久しぶりのような気がした。
「ぼ、く、の……む、す、こ……? 僕のこと、父さま? うん、それから? ――あ、い、し、て、る……。父さま。父さま。父さま、大好き」
 ゆっくりと鼻で指し示される文字。一つ一つをシアンは追う。最後まで読み、そしてみるみるうちに浮かぶ涙はそれでも明るく輝いていた。狼の背に顔を伏せ、抱きつくようにしてシアンは泣く。キアランは首を傾け、シアンの髪を舐めていた。撫でて梳かしてやりたい息子の頭。いまはそうしかできなかった。
 泣き疲れたシアンが眠ったのは、それからしばらく経った後のことだった。疲れもたまっていたのかもしれない。
「こんなとこで寝かすのもなんだな。ベッドに放り込んどくか」
 ニトロが立ちあがり、シアンを抱きかかえる。予想していたとおり、羽でも抱いているように軽いシアンの体。
「手伝おう。それじゃドアも開けられないだろう?」
 くすりと笑いダモンも立ち上がった。必要ない、とティアンは知っている。ニトロは魔術師で、手が空いていなければ魔法を使うだけ。ダモンが何かを話したがったのだろう、と察してキアランの側にと残った。もっとも狼と二人きり、なにを話していいかはわからなかったが。
「……ニトロ」
「なんだよ」
「君は、僕を舐めていないか? 僕を何者だと思っている」
 打って変わって真剣なダモンの表情。成功した調香師の顔ではなく、かつての暗殺者の顔でもない。街の住人としてはあり得ないほど厳しく、暗殺者としてならば情のありすぎる眼差し。
「舐めちゃいねぇよ。だからあんたに手助け頼んでるんだ」
 長く息を吐き、ニトロは腕の中のシアンを見つめる。ダモンもまた、同じことをしていた。




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