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カレンとデニスに挟まれて、シアンが含羞んでいた。思えばこれほど大勢で談笑することなどシアンははじめてかもしれない。床に座った狼が伸びあがり、そんな息子の笑顔を見上げていた。 「キアラン、ほれ」 そんな彼に目を留めニトロは椅子を引いてやる。床にいるよりはずっと見やすいだろう。狼の表情はわからない。それでもためらった末にぴょん、と椅子に飛び乗った。 「でけぇなぁ」 さすがに犬とは違う。隣に座っているとニトロの方が見上げるほど狼は大きい。金の丸い目がニトロを見ていた。それがつむられたかと思うと、度肝を抜かれるほど可愛らしい音。くしゃみ。 「……はい?」 ――そんな顔をしないでほしい。僕だってくしゃみくらいする。……花の香りが、少し、鼻に。 「あぁ、そっか」 「ニトロ。父さまどうしたの?」 「ん。さっきな、陽があるうちに風呂入ったんだよ。石鹸がいい匂い過ぎたんだな。親父さん、狼に戻るとやっぱり鼻利くわ。そんでくしゃみ出たってさ」 「お風呂? 石鹸? いいな!」 「あいよ。俺んち帰ったら支度してやる。おっさん用に匂いのしない石鹸、頼んどくか……」 ――気にしないで大丈夫。慣れれば気にならない。花畑の中で昼寝をしている気分だから。 キアランの言い分にニトロが目を細める。カレンとデニスはそんなニトロを黙って見ていた。他人を気遣うニトロ、というものは珍しい。そんなことができるようになった彼を思うのかもしれない。 「ニトロ?」 「親父さんは花畑ん中でお昼寝してるみたいだってさ。気に入ったか、匂い?」 問えばシアンにわかるように、というのだろう、狼が大きな顔をうなずかせる。それにシアンの目がきらきらと輝く。デニスは横目でそんなシアンを見ていた。立派に青年に見える彼。だが確かに少年の、否、子供のままの彼。痛ましい思いは確かにある。が、ニトロが守ると決めたシアンがいる、その嬉しさが先に立った。 ふ、とカレンが顔を上げ。どうしたの、と言うようシアンが首をかしげるのに彼女は微笑む。大丈夫だ、と。母なる存在の在り方がうまく飲み込めないのだろうシアンはカレンの隣にいてまだもじもじとしている。それをカレンは何も言わずに微笑んで眺めていた。 「お邪魔します」 ぴくん、とシアンが飛び上がりそうになる。また二人も人が増えたのだ、当然かもしれない。シアンの目顔の問いに、彼らが言っていた友人だ、とニトロは答えた。 「よう。呼びつけて悪かったな」 「……君ってやつは。ただいま、が先だろう? おかえり、ニトロ」 「んー、まぁ。その。ただいま?」 歯切れの悪いニトロに狼が体を震わせた。そしてはじめてそこに狼がいる、と気づいた客の一人がぎょっとして腰の剣に手をやる。 「ティアン。剣から手を離せ」 「え……あ、悪い。でもな、ニトロ。お前なぁ……普通の常人はいきなり狼がいたら驚くもんだぞ!」 「それに入ってきてすぐ気づかないお前もどうかと思うがな」 「椅子に座る狼、なんつーもんに気がつくか、馬鹿!?」 「そりゃそうか。なるほどな、新鮮な視点だぜ」 にやりと笑い、ニトロは傍らの狼を見やる。心配は要らない、と眼差しが言うかのよう。友人に助力を、と聞かされていたキアランとしてはうなずくしかないのだが、けれどその「友人」が普通の人間だとは思いもしなかった。 「そっちの美形がダモン。さっきの石鹸の香料作ってる調香師だ」 「はじめまして。ニトロのご友人かな?」 「え……あ、はい……シアン、です」 「で、剣に手をかけた阿呆がティアン。ダモンの連れ合いで、兵学校の教官……兵隊さんの先生だ」 最後はシアンに向けてだろう。ティアンは訝しい目をする。そんな子供相手にするような言葉を使う相手とは思えない。シアンはもう大人扱いをされるべき年齢に達しているように彼には見えた。が、ティアンはニトロを知っている。ニトロがそうするのならば必ず理由があるのだろう。あえて問わないティアンをダモンが微笑んで見ていた。 「兵隊さんの先生? かっこいい!」 「男の子はやっぱり兵隊さんが好きかな?」 「うん、かっこいいの。僕もやってみたかったなぁ」 ダモンはさすがだった。先ほどとは打って変わって言葉を改め何気なくシアンに話しかけている。それも一瞬で子供相手にするように。思わずニトロの唇が笑みを刻んだ。 「それで、ニトロ。お前、何やれってんだよ?」 ティアンに問われニトロはこの場で話すのだろう、と思っていたキアランだった。もっとも、なにをどう説明するのだろう、とはらはらしていたのだが。 「とりあえず手ぇ貸してくれ」 「貸すのはいいから、何やれって?」 「その前に、もう一人、紹介しとく。ほい、おっさん。自己紹介……は、できねぇから俺がするけどな。人狼のキアラン。呪われてて夜の間は強制的に狼に変わっちまうけど、昼間は人間のおっさんでな。シアンの親父さんだ」 「……はい?」 「ニトロ。君はもう少し話の組み立て方を学ぶべきだ。僕たちだって驚くんだってことを学べ!」 「一応は気を使ったつもりだったんだけどなぁ」 「……そのわりにはお前、真っ直ぐに言ったよな」 デニスの疲れたような声音。が、デニスは感づいている。自分とカレンがいる場でそれをニトロが言った、そのこと自体に意味があると。ダモンもティアンもそれでカレンが認めていることを知るだろう。実際ダモンはちらりとカレンを見やり、その笑みに目を留めては黙ってうなずいている。その表情に胆が太くなったものだ、と内心でニトロは苦笑していた。 「んじゃ、移動するか。面倒な話は俺んちでしようぜ。別にここでもいいけどさすがに手狭だぜ」 「だな。さっさと帰れよ次男坊。あぁ、シアン君はここにいてもいいんだぞ? おばちゃんと一緒にいるかい?」 「……父さまと一緒がいい」 「おや、ふられちまった。ま、なんかあったらおいで。すぐお隣さんだからな」 「……うん」 含羞んだシアンがうなずく。カレンがあまり女性的ではない、というのがかえってよかったのかもしれない。ニトロが母親みたいなもの、と紹介したけれどその姿に母を見るのは難しかったと思えば。 「ほい、おっさん。移動だ。とはいえ、さすがに狼連れじゃ目立つからよ、あんたはデニスと一緒に地下からまわってくれ」 ――わかりました。デニスさん、よろしくお願いします。 「あ、はいはい。こちらにどうぞ」 何の相談もなく自分が案内することになっている。デニスは内心で肩をすくめる。もっともカレンにやらせるわけにはいかないのだから致し方ない。席を立ちがてら、ふと卓の上に目が留まる。シアンの前に置かれた茶も菓子も、手がつけられていなかった。緊張していたのかな、そう思えば微笑ましいデニスだった。 ひょい、と椅子から飛び降りた狼にさすがにティアンは一歩を引いた。そんな連れ合いの腕をぴしりとダモンが叩く。照れ笑いをするティアンを意地の悪い目でニトロが見やる。 「ニトロ、父さま、どこ行くの」 「地下に内緒の廊下があるんだ。親父さんはそっちから。お前は俺と一緒においで。すぐお隣さんだ。大丈夫だからな」 「んー。わかった」 渋々と椅子から下り、シアンは掠めるように狼の頭を撫でる。一度狼は鼻面でそんな息子の足を押し、そしてデニスと共に歩み去る。 「んじゃ、師匠」 「あいよ。状況に変化があったら伝言寄越しな。助力は惜しまんよ」 「うい、頼んます」 さすがカレンだ、ダモンの表情に表れていた。シアンの理解しにくい言葉をわざわざ選んでいる。それだけ事態は重大だ、ということなのかもしれない。 おずおずとついてくるシアンは拍子抜けすることになった。本当に、玄関を出て二三歩でついてしまう。隣というもおろかな家だった。 「ここ?」 「おうさ。お隣さんだろ?」 ふわりとシアンの巻き毛を撫でてやるニトロ、などというものがティアンは珍しくて仕方ない。正直に言えば呆気にとられ続けているのだが、連れ合いが覚悟を決めてしまっているらしいのであれば顔には出しにくい。 「あ、父さま!」 すでにデニスによって連れられたキアランが到着していた。地下からまわったにしては早すぎるのだが。訝しげな二人にニトロは首をかしげる。 「お前ら知らなかったっけ? 地下に魔法空間で廊下作ったんだよ」 「それで、やたらと早いのか」 「そうそう。距離関係ねぇし」 キアランである狼はそんな言葉がわからなかったのだろう。それでもニトロの話を聞いている。ふとダモンは違和感を覚える。 「ニトロ。尋ねていいか? キアランさんは、言葉が通じているのか」 「通じてるよ。人狼だって言ったじゃん」 「あのな、ニトロ。僕らは君とは違うんだ。人狼が何者なのか、よくは知らないんだよ!」 「正直、俺は全然知らんわ」 ぼそりとしたティアンの言葉。キアランはそれに驚いていた。まるきり何も知らず、ニトロの言葉だけで手を貸す、と言ってくれた人がいる。あるいはこれから拒むのか、彼は。そよ風のような感触に目を上げれば微笑むシアンの手。頭を撫でられていた。 「ま、そりゃそうか」 肩をすくめ、ニトロは今度は自分で茶の支度をしながら概略を二人に聞かせる。ニトロとて全容を知っているわけではない、と言いながら。 「ま、そんな種族がいるんだってことだけ知ってりゃいいんだ」 「――キアランさんには申し訳ない質問だが。人を襲うことはないんだな?」 「だってよ、おっさん?」 ――普通の質問だと思う、と言ってください。僕はそのようなことをしませんし、祖母からも聞いたことはない。ただ、お疑いはもっともだと思います、と。 ふんふん、と聞いていたニトロがキアランの言葉を繰り返す。手間だが、致し方ないのだろう。不意にティアンの眼差しがシアンに。キアランの息子だという彼もまた、ニトロの言葉に耳を傾けている。 それはすなわち息子である彼にもキアランの「声」は聞こえないということなのか。奇妙なほどに切なさが胸を締めつける。 「わかった。失礼な質問をして申し訳ない。それで、ニトロ。どんな助けがいるんだ?」 心を決めたティアンの眼差し。隣に座るダモンが誇らしげにそんな彼を見ていた。 |