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陽が落ちればキアランは強制的に狼へと変じてしまう。それを慮って夕食は早めにデニスが用意した。魔術師とは料理上手なのか、とキアランは驚いたものだったけれど、ニトロは単にデニスの趣味だ、と言う。そういえば旅の間、料理上手な兄弟子の話を彼がしていた、とキアランは思い出す。 「現に俺も師匠も台所仕事は苦手だからよ」 「私はできなくはないぞ? あんまり好きじゃないだけだ。ふつーの家庭料理ならそこそこはできる」 「……普通って、なんでしたっけ」 ぼそりとしたデニスの溜息。ニトロとカレンが顔を見合わせあっては悪戯が成功した子供のよう笑う。温かな雰囲気だった。言葉こそは荒い。けれどぬくもりのある「家庭」だとキアランは思う。 懐かしいような気がした。セヴィルの家ではなく、祖母とすごした山の家。祖母と二人きりだったけれど、ちょうどこんな匂いがしたものだった。 キアランが物思いに耽ったのにその場の全員が気づいている。それでいて、何も言わなかった。デニス一人が不器用に鳩に餌をやっている。 「可愛いな……」 キアランと入れ替わりで人間に戻る青年だ、とニトロは言っている。それをデニスは微塵も疑っていない。自分のほうが兄弟子ではあるのだけれど、ニトロは最先端を行く型の属性魔術師。汎用型の自分とは魔道の質が違う。それは優劣ではない、と断言できるほど、デニスの魔道は進んでいた。その上で、やはり鳩にしか見えなかった。呪いの気配は確かにしている、それだけはわかるのだが。 「ちょこちょこ動くもんってのはやっぱ可愛いよな」 「……師匠」 「なんだよ、長男坊」 「師匠が可愛いものを褒めたりすると、違和感が凄まじいです!」 「そういうのは偏見だろうが? 魔術師失格だぜー?」 均衡を取れ、平衡を重んじろ。魔術師を目指す子供ならば何度となく言われる言葉。カレンは今更デニスに言ってはからかう。普段は学院の教師として子供たちに言っているデニスだった。 「偏見、ですか?」 が、反応したのはキアラン。ふと顔を上げてカレンを見つめる金色の目。体調がよくなればどれほど立派な男性だろう、と思わせる。いまはまだ痩せて疲れたキアランだった。 「あぁ、くだらないことに思えるだろうがね。偏見に違いはないかな。魔術師ってのは物事を平らに見るよう教育される」 意外なことを言ったからといって奇妙だ、と思うのはすでに偏見だ、とカレンは微笑んだ。それにキアランは納得がいく思いでいる。 「だからあなたは、僕を助けてくれたんですね。僕を、というより、息子を」 「それは別問題じゃね? 俺はシアンみたいなガキが嫌いなだけだって言っただろうが」 「ニトロ。その言い方はよくない。シアン君が聞けば気分を害するんじゃないのか」 シアンが嫌いだ、と聞こえかねないだろう、デニスの渋い顔。キアランは静かに微笑んでいた。世界は不思議に満ちている。旅の間ニトロは何度も口にしていた。これもその一つかもしれない。彼らのような人々に出会えたこと。世界は広い。確かにそう思う。 口論、というより議論、だろうか。二人の言い合いをカレンが黙って見ていた。時折、笑ったりうなずいたり。弟子の修行が進むのを歓迎する師の眼差し。キアランはそんなものを見たことはなかったけれど、想像はできる。そしてそっとニトロの肩を叩いた。 「あぁ、そろそろか。どっか……」 「いえ、かまいません。驚かせるのは、悪いと思うので」 一応は断った。キアランは微笑む。隠れていいはずだった。むしろ、ニトロと二人のときにはそうしていた。が、いまキアランはここで変化を遂げる、そう言う。それはもしかしたらカレンとデニスに己という生き物の在り方を見せる、そんな気持ちなのかもしれなかった。 「ま、好きにしな」 そっけないニトロにキアランはもう一度微笑む。窓から差し込む赤い光。最後の光が消えて一瞬。立ち上がったキアランの衣服がくたりと形を失う。 「ほれ、出れたか?」 ひょい、と手を伸ばしたニトロが布の塊から狼を救い出す。いつもはうまく出てくるのに、どういうわけか今日はもがいていた。緊張していたのかもしれない。 ――ありがとう。助かったよ。 「どういたしまして。で、おはよう、シアン」 デニスは目を瞬く。驚愕に声を上げなかった自分を自分で褒めたい。そこにはいままで気配もなかった青年がいた。確かにこれは鳩が戻った姿なのだ、と理解する。 「おはよう、ニトロ。……ここ、どこ?」 不安そうな顔をしていた。イーサウに行く、とは言ってあったが、自分が人間に戻ったときに他人がいる、とは想像していなかったらしい。 「イーサウだよ。そっちのぼけっとした面してんのがデニス。俺の兄弟子……んー、兄ちゃんみたいなもんだな」 「ニトロのお兄ちゃん? はじめまして。シアンです」 「あ、はじめまして。デニスです」 「初級会話講座かなんかか?」 からかうニトロをデニスは一睨み。もっとも初対面の人間がいるところで無様をあまりさらしたくはない。すでに無駄のような気もしたが。 「その人は……?」 シアンがもじもじとしていた。実はニトロも悩んでいる。カレンをなんと紹介したものか、と。デニスを兄のようなもの、と言ったときの師の顔を見てしまっては。 とはいえ、キアランに紹介したようにはできないだろう、やはり。デニスもカレンもいまだ知らないことながら、シアンの精神性は十歳以下の子供と大差ない。その子供に向かって男だか女だかわからんやつだ、と言うのは問題があり過ぎる。諦めてニトロは溜息をつく。その葛藤をカレンがにやにやと見ていた。 「デニスが兄ちゃんだったらそっちはまぁ……母さんみたいなもんか? 俺の魔法の先生だよ」 「やたらもったいぶったご紹介だったなぁ。シアン君って言ったな。カレンだ、よろしく。ほれ、こっちおいで、座んな」 「え……うん。ベッド行くの?」 「……はい?」 ――デニス、黙れ! 喋るな! さっき言っただろうが! ――あ……ごめん。でも、この子……これは、酷い……。 ――だから、よけいな感情を顔に出すな! 痛ましそうな顔をしたデニスの精神をニトロは思い切りひっぱたく。それで正気に戻ったのだろうデニス。少しばかり青ざめていたけれど無理矢理に微笑んで見せた。 その間、カレンは偉大だった。シアンの言葉が何を示唆しているか、すぐに彼女は理解した。キアランから聞いた話、というニトロの話を疑っていたわけではない。が、あまりにもこれは酷いと思った。 自分が産んだ息子を寝室に誘う母親がどこにいる、と言いたくなる。そしてそれを疑えないようにする親がどこにと。 「ベッド? なんだ、もうおねむかい? まだなんだったらここ座んなって。おばちゃんとお話しよう」 「……おばちゃん?」 「よう次男坊。なんか問題でもあったかえ?」 「ねぇよ。ねぇけどな!? ねぇけど、あんたが自分でおばちゃんとか言うと違和感しかねぇわ!」 「それを偏見――」 「こんなもん偏見じゃねぇわ! ただの事実だ!」 声を荒らげ言い放つニトロとつい笑ってしまったデニス。間でシアンが首をかしげている。が、カレンは豪快に笑っていた。 ――何が偏見なのか、難しいよ、僕には。 「この女の言うことはたいがい疑ってかかれ。それでたいていは問題ねぇよ」 「酷いこと言うもんだ。ま、いまのは師匠の意地悪ってやつだな、キアラン。気にしないでくれ」 キアランはあっさりとニトロとの会話に混ざられ狼の目を瞬く。ニトロ同様に「声」が彼らには聞こえるらしい。 「あ、父さま。今日も一緒?」 「一緒だよ。ほれ、シアン。親父さんの尻尾見てみな」 「ん? ぱたぱたしてるよ」 「だろ。嬉しいんだよ、親父さんもシアンと一緒でな」 そっか、とシアンが微笑んだ。ここでデニスはやっと納得する。ニトロがキアランには聞こえない精神の声で彼らの話を補足していた、とはキアランは知らないだろう。その中で彼は言っていた、シアンは子供同然の心のままだと。こういう意味だったか、ようやくわかった。 「あんた、狼のくせして犬みたいだぜ、それ?」 ――そうだろうとは思うけれど、どうにもならない。僕にだって仕方ないんだから。 不満そうなキアランの声。それでいて尻尾だけは動いている、さも嬉しそうに。それを見るシアンの目もまた嬉しげ。狼の側にちょこん、と座ってその頭を撫でていた。 「シアン」 キアランの傍らからシアンは離れない。こうしていてもシアンとキアランは言葉が通じない。他の全員とは話せるのに、父子だけは言葉が通じない。ニトロはそんな二人を無色の目で見つめ、そして何食わぬ顔をして微笑んだ。 「もうちょっとしたらな、俺の友達が来るぞ。そうしたら俺んちに帰るからな」 「ニトロの家? ここじゃないの」 「隣だよ。ま、ここでもいいんだけどな、さすがにこんなに大勢いたんじゃ狭いわ」 「なんだ、シアン君、連れてっちまうのかよ。せっかく連れてきたってのに」 「師匠が俺んちに来りゃいいでしょうが」 呆れ顔のニトロは内心で感謝していなくもない。全面的に協力を約束してくれたようなもの。わかったか、とカレンの目が和み、笑う。その眼差しすら精悍で、頼もしい。そんな風に感じる自分がニトロは嫌いだった。 「あー、ニトロ。お前が食事の支度、するのか?」 「あいつらにやらせる。俺がやってもいいけどな、あんまりにもおんなじもんばっか食わせるのも悪いだろうが」 「……わかった。僕が通う」 「ありがとさん。持つべきものは料理上手な兄弟子だな」 「そういう問題か!?」 悲鳴じみたデニスの声。大きなそれにシアンが驚いたのだろう。そういう顔をすると父子でよく似ていた。驚かせてしまった、と眉を下げるデニスにシアンはくすりと微笑む。優しく甘いその笑顔に。 「おっさん、また尻尾ぱたぱたしてるぜ?」 ――ニトロ。言わないでほしい。 むっとしたキアランの声。聞こえなくともシアンにもわかったらしい。小さな笑い声が上がりはじめ、ついには全員で笑っていた。 |