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リィ・サイファの塔の管理者、エリナード・カレンは常に忙しい。管理者を継いだときに大陸魔導師会からも学院からも手を引いたけれど、それでも何くれとなく用事はある。そんなカレンが昼間から自宅にいるのは珍しい。 「どうしました、師匠。忙しいんじゃないんですか」 手まめな弟子が茶と茶菓子を用意してくれた。卓に出てきたそれにカレンは小さく笑う。まるできちんと食べないと体を壊しますよ、と言われているかのようで。 「忙しいぜ」 「でしたら……?」 「んー、厄介事……いや、面倒事、だな。が、突撃してきそうでな」 「なるほど?」 「そう言うお前だって、なんか感じたからうちにいるんだろうが?」 にやにやとする師にカレンの最初の弟子、デニスは苦笑する。そのとおりだった。普段は学院の教師としてデニスはタウザント街にいる。自宅もそちらだ。もっとも忙しくしているので学院に泊まり込むことも多いが。少なくともカレンと共に暮らしていた時代は遠い。 「多少は勘が鋭くなったかねぇ?」 「僕も少しは成長しましたよ、師匠」 言い返す弟子にカレンはにやりとする。魔術師師弟、とイーサウではみなが知っているから驚きもしない。が、知らないものが見たならば驚くだろう。カレンがデニスの弟子、に見えかねなかった。三十代も半ばになるかどうか、カレンの容貌はその程度で止まっている。デニスはそれよりずっと年嵩に見えた。 お茶のおかわりでも淹れようかとデニスが席を立てば、ざわりと外が騒いでデニスは笑いを噛み殺す。そのときにはもう気づいていた。 「確かに面倒事みたいですよ、師匠。ニトロが帰ってきました」 からからと笑うカレン。一緒になって笑いながらデニスは家の扉を開ける。イーサウに帰還したニトロが見たのは、そんな兄弟子の顔だった。 「お帰り、ニトロ」 「……おう。ただいま」 「お客さん? どうぞどうぞ。ようこそいらっしゃいました」 ニトロには兄弟子がいる、と道々聞いていたキアランだ、彼がそうなのだろうとは思う。が、ニトロの父親と言ってもいいような外見だった。そこに違和感がある。 「あぁ、魔術師だからな。こいつは間違いなく俺の兄弟子だぜ」 「デニス・アイフェイオンと言います。よろしく」 「……キアランと、呼んでください」 びくびくとした人だな、とデニスは思う。ニトロの肩に鳩が止まっているのも珍しい。ちらりと見れば気づかなかったふりをされた。小さな家だけにデニスが客を案内するほどでもない、すぐカレンの座る居間だ。 「ただいま戻りました、師匠。で、助けてください」 「あいよ、おかえり。で、なんだって?」 「こいつらなんですが――」 「ちょっと待て、ニトロ! 師匠もです! 話の脈絡がないにもほどがあるでしょうが。僕にもわかるように話してください」 「そんなこと言われてもなぁ? 私もなんのことだか見当もつかねぇんだがよ」 てっきりすでに話が通っているのだとデニスは思っていた。何しろニトロだ。どこぞから魔法的に連絡する手段などいくらでもあるはず。それをしなかったのはそれだけ大変なことなのかもしれないとふと思う。 「ニトロ……」 ぽん、と鳩がキアランと名乗った男の肩に。キアランの方はニトロの袖口でも掴みそうな様相でニトロを見ている。ずいぶん信頼されている、とデニスは思う。それが嬉しい。人と馴染みたがらない弟弟子だった。 「あぁ、そっか。さっき言ったな。そいつがデニス。で、そっちの女がエリナード・カレン師。俺の師匠だ。『三本目のアシ』は見たことねぇからな、一応は女だろうさ」 「お前なぁ……」 「風呂上がりに真っ裸でふらふらするようなのを女のうちに数えたくねぇわ」 「いつの話してんだ。お前がまだ十五六のころだろうが。執念深い野郎だな」 「初心な少年の純情を返しやがれ」 ここでこらえきれなくなったデニスが大きく笑った。キアランとしてはただただ呆気にとられていた。ぽんぽんと投げつけるように交わされる会話、それでいて親しげな様子。いずれも驚くことばかりだ。しかもニトロより多少年上、というだけにしか見えない女性が彼の師なのだと言う。記憶違いでなければニトロは六十歳を超えた、と言っていた。ならばカレンはそれ以上なのか。くらくらと眩暈がした。 「申し訳ない、お客人。魔術師は、こんな調子でいるものだから。驚かれたでしょう? いま、お茶でも淹れましょう」 「ちょい待ち、デニス。――ニトロ、お前どこ通ってきたんだよ? 私の我が儘ですまんがね、キアランさん。そんな旅汚れのまんま話し込みたくねぇや、風呂入ってくんな」 「あ、そりゃいいな。俺もさっぱりしたい」 「え……あ……、はい……?」 「デニス、頼んだ。俺は家帰って風呂入るわ」 「ニトロ、待ってください。僕は」 「あのな、何が悲しゅうて人間の男と一緒に風呂入んなきゃならねぇんだよ? 心配すんな、隣の家だ。すぐ戻るっつーの」 ぽん、と肩を叩けば鳩が楽しげにくるくる鳴く。それにもまだキアランは不安そうなまま。当然だろうと思う魔術師師弟は殊更に心配はしない。いずれくつろいでくれるだろう。 そしてカレンは感じている。ニトロの帰還が面倒事だ、とデニスは笑い話として感じているらしい。カレンは間違いなくキアランこそが面倒の原因だ、と悟っている。 あっさりとニトロが客を預けて行ったことでもそれが感じられた。任せる。自分だけでは手が足らない。だから助けてほしい。ニトロが無言のうちにそれだけの信頼を見せるようになったのはそれほど前のことではない。 ――本人に言えば信頼なんかじゃねぇって言いそうだがなぁ。 色々と抱えるものの多い弟子がカレンは気がかりではある。弟子が信頼を覚えない、そう否定し続けてもかまわない。カレンはそれだけニトロを信じている。それをどことなく感じはじめているのだろう、ニトロも。だからこうして真っ直ぐと頼ってきた。それがくすぐったかった。 デニスはカレンの思惑もニトロの魂胆も知らない。客をもてなそうと風呂へ案内をする。あれこれと使うものを言っておいたけれど、大丈夫だろうかとそちらの方が心配だった。なにしろキアランは鳩まで浴室に連れ込んだのだから。 「ま、大丈夫だよ、きっと」 独り言を聞きつけたのだろう師ににやりとされ、デニスは肩をすくめた。そんな風になるようにしかならないものがある、とデニスもすでに学んでいる。 キアランが上がるより先にニトロが戻った。あまり長々と入浴を楽しむ男ではないが、それにしても早い。一応は心配しているのか、とデニスは思う。言うとこの弟弟子はいたく怒るから言わないが。 「……ありがとうございました、さっぱりしました」 ニトロの物よりデニスの物の方が体に合ったのだろう。キアランはどこかで見覚えのある服を着ていた。落ち着かないのか襟元を直しつつ、片手で鳩を抱いている。 「あんなによい香りのする石鹸など、はじめて使いました。楽しいものですね」 「いい匂いだっただろ? ニトロのダチが調香師でな。そいつの香料を混ぜ込んだ石鹸が最近は大流行なんだ。――あんまり当たって、香料用の花畑に投資するって言ってたぜ」 「そりゃ儲けたもんだ。いつか用心棒を雇えるくらいになるんだって半泣きだった時代は遠いやな」 気遣われない、というのが心地よい。キアランははじめて知る。違うのかもしれない。気遣っている様子をあえて見せないだけなのかもしれない。湯上りに、とそっとデニスが冷たいものを出してくれた。無言で、ただ笑みと共に。ありがたく頂戴すれば石鹸同様の驚き。氷が入っていた。 「魔術師ってのは便利なもんでな。氷がいつでも手に入る。風呂上りはやっぱこれだろ」 贅沢な飲み物をニトロはあおるように飲み干し、横柄にデニスに向かって突き出す。それに笑いながら一睨みをくれる、という器用な真似をしてデニスは新しいものを注いでやっていた。 「そんでニトロ坊や。話に入ろうか。キアランさん、待たせてすまなかったね」 「……とんでもない」 「話していいかって今更だよな。つか、話すけどよ」 「ニトロ」 「俺は言った。俺一人じゃ手に余る。寝不足で死ぬ。どうする」 「……あなたにそれを強いる気はありません。が」 「見ててわかるだろ。その女は俺の師匠だぜ。俺がびびらなかったんだったらその女も大丈夫だ。正直デニスは不安だがよ」 「なんてこと言うんだよ、ニトロ! 僕だって昔のままじゃないぞ」 「ひっくり返るなよ?」 にやりとしてニトロはキアランの肩を掴む。まるで逃げないように、とでも言わんばかりに。逆だった。キアランは感じている。励ましてくれている。心配は要らないと請け合ってくれている。そっと視線を落としたキアランの耳、届くニトロの声。 「こいつ、人狼族だそうです。狼と人間と両方の形持ってる種族かな。ちょっと訳ありでいまは夜になると強制で変わっちまうけど、普段は自分の意志で変われるって」 「ほう。人狼か。なるほど。変身譚はけっこうあるんだが、実際お目にかかるのははじめてだな。光栄だ」 無造作に手が出てきた。握手を求められているのだとは思わなかったキアラン。苦笑してニトロが手を取り、カレンと握手をさせてくれた。しっかりと握ってきた、女のものにしては大きな手。愕然とした、キアランは。 狼に変わると、人狼と知って、カレンはそれでもためらいなく固く手を握ってくれた。いつ鋭い爪がその柔らかな手を傷つけるかもわからないというのに。人狼が何か、わかっていないのか。よもやそんなことはない。カレンは理解して、その上で。ぐっと喉の奥からせり上がってくるもの。こらえているうちにデニスもまた、握手を求めてくれた。穏やかな笑い顔に、キアランは今度こそ顔を伏せていた。 「んで、訳ありの内容。こいつ、呪われてます。で、この鳩が息子のシアン」 ひょい、とキアランの肩から鳩を抱き取りニトロは言う。なるほどなぁ、と遠いカレンの声。どうしたのだろうとデニスは周囲を見回す。なぜかニトロに見下ろされていた。瞬きを繰り返して知る。どうやら自分は腰を抜かしたらしいと。ニトロとカレンが盛大に笑っていた。 |